日本橋から千住宿までの日光街道ウォーク初日の終盤。
南千住駅前から千住大橋に向かう日光街道は「コツ通」と
いう名前が付いている。
20万人が埋葬されたという小塚原刑場跡ということもあり、
「骨通」という怖い字も充てられるが、「コツカッパラ」と
呼んだことに由来するという。
その「コツ通」は数百メートルで国道4号線にぶつかる。
車ベースでは国道4号が日光街道であるが、旧日光街道も
時としてこの国道4号となる。
道の反対側の鳥居が素戔雄神社であろう。横断歩道に立つ
「緑のおばさん」に確認する。信号が青になって渡り始める
小学生には「気を付けて」、私にも「行ってらっしゃい」と
声をかけてくれる。こんな一言でも歩く旅人には嬉しい。
4号を一緒に渡った小学生は続々と鳥居を潜る。通り道
のようである。この素戔雄神社は隅田川南側一帯の総鎮守
で、地元では厄除けの天王様と呼ばれる。
けっこう急な坂道を上って千住大橋に着く。家康が江戸
入りして間もない1594年に架けられて以降、江戸時代を通
じて一度も流されなかった木橋であった。
昭和2年に架けられた現在の橋は「タイドアーチ型」の
最古のものと言われる。上り専用の新しい高架橋が並ぶ。
渡って来た千住大橋方向を振り返る。南千住でもウロウロ
してもう4時近い。
最初の信号で国道4号と別れ、旧日光街道は細くなって
千住の街に入って行く。信号名は「足立市場前」。角には
芭蕉碑があったらしいが見逃した。
野菜の市場で「やっちゃ場」と思っていたが、口碑では、
「ヤッチャヤッチャ」という掛け声でセリをしたのが由来と
ある。いつもながら旅は勉強である。
交差点角の源長寺には、千住で長く寺小屋を開いていた
多坂梅里の追悼碑が建つ。医を業としながら五十余年も
寺小屋を開き、学問だけではなく礼儀作法も厳しく教え、
この千住の風紀改革にもなったという。
江戸の始めに東照宮へ向かう日光街道で初目ての宿場と
して整備された千住宿は、二度に渡って拡張され隅田川を
越え南千住まで拡大された大きな宿であった。
その中心部で一番栄えた掃部(カモン)宿は、隅田川に堤を
築いた石出掃部介吉胤に因む、と言うようなことが書かれた
口碑があるのがこのプチテラス。
街道筋らしくなって来た通りを進むと、賑やかな商店街が
始まる角に千住一里塚跡の碑。日本橋から二里目だが一里目
は浅草当たり、どこにあったのだろう。
午後四時を回り続きは次回として、常磐線に沿った裏通り
で千住駅に向かう。ちょっと一杯やって行きたい雰囲気だが、
背中には冷凍品の土産があるので帰路を急ぐ。
中途半端になった千住宿だが、昼食を含めて約8キロを
4時間半。時速2キロののんびりウォークも意外に疲れる。
次は師走の来月か。