今日、11月22日は語呂合わせで「(いい)夫婦の日」と
される。結婚して47年、夫婦についての蘊蓄を垂れようと
思ったが、待てよ、離婚、死別、シングル親、あえて未婚
など、夫婦ではない成人も多い昨今を鑑み思い留まった。
代わりに紹介するのは、一昨日の朝日新聞土曜版のコラム
「はじまりを歩く」から「日本で最初の保育園」である。
というのも、添付図を見ると、その赤沢保育園は新潟市の
信濃川の河口のすぐ近くにあるからだ。
4年前の古希を目指して源流から歩いた千曲川(信濃川)
のゴールの日、このすぐ近くを歩いていた。下図の青線が
歩いたルート。
高さ50mの「入船みなとタワー」から河口を見下ろして、
足掛け4年の完歩の感慨に浸り缶ビールの祝杯を挙げた。
赤沢保育園はその信濃川沿いからわずか数百メートルの
距離。もしその時に知っていれば多分、いや絶対に寄った
ことだろう。
明治23年(1890)、信濃川の近くに日本で最初の託児所
が出来た。現在の赤沢保育園の前身である。
小学校の教師だった赤沢鐘美(庄吉を改名)が、貧しい
子どもたちの私塾である「新潟静修学校」を作ったところ、
集まってきた子の多くが乳幼児を背負っていた。
弟妹や奉公先の子どもの面倒をみなければならない時代。
他の生徒の邪魔にならないように、屋外に立って窓越しに
熱心に授業を聴いていた。
鐘美はこの背中の幼児たちの面倒も見なくてはいけない
と思い立ち、妻ナカや親戚女性を動員し「幼稚児保護事業」
を始めた。何年か後から徴収した保育料の日額は、当時の
ハガキ一枚分だったという。
鐘美が亡くなると妻のナカが引き継いだ。以降卒園児は
一万人を超え、現在の様々な世代の保育士、19人中5人が
この保育園出身という。
日本で最初の保育園は、親のためでなく子どものためで
あった。正式な旧名は「守孤扶独(シュコフドク)幼稚児保護会」。
「孤独な環境にある子どもを守り、困窮する一人親を扶け、
幼児を保護する・・・、130年前の保育の精神を私たちは守れて
いるのだろうか」。このコラムを書いた岩本美帆記者は結ぶ。
江戸川の流山側のウォーキング、新しい橋に向かう高架道
の工事を見た後の帰路である。
木の香が強い大型木造工事
新しい店は唐揚げ店、五通りの揚げ方なのか香なのか
万年渋滞の流山橋へ向か坂、新しい橋で緩和されるか