「中野昌平橋間に各駅から婦人専用車を朝の八時半
前後と午後の三時半前後に数回運転せしむること
に決定し此(コノ)電車を女学生が利用する様に」
これは大正改元の直前、明治四十五年(1912)の一月末
から中央線で始まった、今で言えば「女性専用車」の告知
である。
昌平橋は当時の中央線の始発駅で、今の神田と御茶ノ水
の間にあった。沿線に女学校が多く「電車の中で男女学生
の風儀が乱れる」が理由だった。
(今朝の朝日新聞土曜版「歴史のダイヤグラム」原武史)
何と何と、痴漢ではなく男女学生の風儀の乱れが理由
というわけだ。実際に風儀が乱れていたのか、心配した
だけなのか。多分心配しただけではこんな処置はしない
だろう。
しかし「風儀の乱れ」の実際は現代の感覚とはずいぶん
違うのかも知れない。
「男女七歳にして席を同じゅうせず」は二千年以上前、
中国、前漢時代の「礼記(ライキ)」に書かれたそうだ。
文明開化を半世紀も過ごした明治から大正時代の日本
でも、まだ「死語」になっていなかったのかも知れない。
現代の女性専用車に関して言えば、是非「男性専用車」
も欲しかった。仕事を卒業した現在は通勤ラッシュの電車
に乗ることはないが、現役時代に都心に3年通っていた頃、
痴漢冤罪の話を聞くたびに欲しいと思っていた。
さて、低気圧が停滞して雨がちの毎日、その前の早朝
散歩から。日の出後でも江戸川は暗い。
三郷駅のホームの端はすぐ鉄橋
戻って来た近所の公園、少しだけ明るくなった