じんべえ時悠帖Ⅱ

プロセスとしての死

 少し前、仏教本に凝ったことがある。その中で浄土真宗の

祖である親鸞、特に「教行信証」について書かれた本の著者、

山折哲雄を知った。名の通り哲学者、宗教学者である。

 親鸞と言えば弟子の唯円が書いた「歎異抄」が有名だが、

山折哲雄はこれに異を唱える。

 親鸞が関東を去って京に籠ってしまった恨みから、信者の

間では「反親鸞」の言動が大きくなり、この「異」を「歎」

いて反論し、親鸞を擁護したのが唯円の歎異抄である。

 しかし、歎異抄では、教行信証と言えばの「謂わんや

悪人をば」(悪人こそ救われるべきである)の神髄である

最後の巻、「化身土」を唯円が意識的に無視あるいは除外

していると山折哲雄は言う。


 今日の本題はこれではない。こうやって知った山折哲雄

が、ちょうど朝日新聞別刷土曜版のコラム「Reライフ」に

「生老病死」と題して連載を始めたのは、もう1年近く?

前のことだろうか。

 そして最新の回で、「このエッセーもそろそろ『死』の

テーマに近づいて来た」と生老病死の「死」に入った。

 以下、今回の論旨を原文のまま要約しよう。


   これまでの現代医療では、人間の死は「心臓死」

  とか、便宜的に「脳死」とか言われるように点で

  とらえられてきた。

   ・・・・

   けれども現実はけっしてそんな単純なものでは

  ない。年を取り、老衰し、致命的な疾患を発して

  死へと運ばれていく。つまり、一定のプロセスを

  経て、最終のゴールに到達する。

   これを「老病死」と再定義してみたい。心臓死

  から老病死への転換のすすめ、である。

   それが、この国の長い伝統が育んできた死生観の

  根幹だったと思う。       (要約終わり)


 この後、山折哲雄がどう展開するのかはわからないが、

完結したらまた紹介しよう。年が変わればまた後期高齢者

一歩近づくのだから。


 さて、今日も霧の予報があったが、少し霞んだかな、

という程度であった。一昨日の朝の霧の続きである。

「そうだ、公園に行こう」の前に文化会館で途中下車


半月前まで紅葉していたが・・・

出初式(1月12日)のレスキュー・タワー準備万端

振り向いても小学校の校舎が見えない

公園に入って文化会館を正面から見るが・・・

公園から帰りの駐車場、少し晴れてマンションが見える

 次回こそ早稲田公園内の霧の風景を。

 

 



 






ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

コメント一覧

えめ
よくお勉強なさいますね。仏教は宗教というよりも学問です。過日見かけた若い坊さんの集団は、いかにも知能指数の低そうな方々にお見受けしました。あれでも葬式仏教を営む彼らは、他の宗教の何倍もの収入を得て居ます。
jinbei1947
やはり古希を過ぎて意識することが多くなりました。
でも心のどこかでは、とりあえず「知識」として
勉強しようと言う「先送り」の気持ちがありますね。
生にしがみつく凡人の証拠です。
ykoma1949
やはり、「死」とか「病」とか言葉がつい
気になる年頃となりました。 私も数年前
まではね他人事で・・たいして気にもなり
ませんでしたが・・最近はやたらと目に止
まります。
寄る年波のせいでしょうかね~
霧の写真・・いいですね
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る