奈良時代に北に領土を広げようとする朝廷が、行政や軍事拠点と
して築いたのが多賀城、胆沢(イサワ)、志波(シワ)などの城(城柵)
である。現秋田城は出羽柵(イデハノキ)と呼ばれていた。
その最後、胆沢城址へのウォーキングは金ヶ崎町の武家屋敷に約
1時間寄り道した後、奥州街道(旧4号線)に戻ったところ。
今日はこの後仙台経由で埼玉の自宅に帰るだけである。
奥州街道の両側には豊かに実った田んぼが広がる。このあたりは
北上川流域の肥沃な地、狩猟民族の蝦夷たちも古代から大陸から渡来
した稲作を営んでいたという。
北上川の支流、胆沢川を渡ると志波城址までは1キロちょっと。
胆沢川の流れはかなり早い。これを渡ると奥州市に入る。
鎮守府八幡宮への鳥居と胆沢城址の木柱が立つところに着くが、
地図を見るとここは未だ広大な胆沢城址の西の端である。
このあたりの稲架掛け(ハサガケ)のやり方は一本丸太への重ね掛け。
全国では数百から千種類ものやり方があると何かで読んだことがある。
信州佐久を歩いた時には田んぼによって三種類が混在していた。
数百メートル進んだ「八幡」のバス停が胆沢城址の中央、南大路が
あったところ。政庁があったあたりは何もない荒地。小道を辿り少し
近づいてみるがやはり遺構らしきものは何もない。
そう言えばこの胆沢城址からの出土品を展示するという「奥州市
埋蔵文化調査センター」が見当たらない。ふと、振り返って歩いて
来た奥州街道(県道)の反対側を見ると、広い道(南大路の復元)の
先に城壁のようなものが見える。
この後で入った埋蔵文化調査センターのパンフレットの地図では、
歩いて来た奥州街道(県道、旧4号)は胆沢城址を斜めに横断して
いることがわかる。政庁跡よりも南大門付近が整備されたということ
らしい。地権の問題であろうか。
復元された城壁の間には南大門の礎石だけ。いずれ復元される
のだろうか。奥左手が埋蔵文化センター。
埋蔵文化センター前から南大門の城壁を望む
埋蔵文化センターの主な展示は2階。その入口で兵士が迎える。
ちょうど10時30分からの映写が始まる。階段席の一番上に陣取って
観るが、自分一人だけのための映写となる。
このあたりの蝦夷のリーダー、阿弖流為(アテルイ)が盟友母礼(モレ)
と組んで、5万の兵を率いる坂上田村麻呂と13年間も戦ったこと。
2度は北上川を利用した作戦が図に当たって蝦夷が勝ったこと。
しかし延暦21年(802)の3度目の戦いで負けて降伏。坂上田村麻呂
は二人を京(奈良)に連れて帰り、恭順の意を示す阿弖流為と母礼の
助命嘆願をするが、朝廷は聞き入れず処刑されたことを知る。
映写の後、館内の展示物を見て外に出る。南大路からの入口は裏口で
正面は反対側、変な造りだがアクセス道路の都合かも知れない。ここも
車優先の社会である。
武家屋敷街への寄り道を含めても1万5千歩弱だが、9月も下旬と
いうのに30℃近い暑い日。金ヶ崎駅への戻りはタクシーを呼ぶ。その
車中、金ヶ崎町が「金ヶ咲き町」と呼ばれる理由が判明。
2006年に水沢市、江刺市、胆沢町などが合併して「奥州市」になる
時に金ヶ崎町は合併を拒んだ。トヨタ自動車岩手工場と共に衛星会社
であるデンソー、アイシンも進出しているので「金がある町」なのだ、
と運転手から聞く。