在宅勤務というのは、ある意味でとても「内自律性」が求められる形態です。昨年の三月から私は在宅勤務していますが、何とか幾つかのプロジェクトをこなして来ました。しかし周りを見てみると、管理者の目が届かない事もあり「こいつサボっているな」という社員も見えたりします。まあ私の目から見て、残業著しく見えながら、実はアウトプットが少ないとか、レスポンスが悪い社員の姿が見えたりします。私が見えているのですから、管理者も判っているのと思いますが、管理者も彼らの事を放置しているようです。これは生産性という事ではどうなんですかね。
お隣の韓国では、子供達にリモート学習を進めていましたか、ここに来て生徒達の成績低下が問題になっているようです。この事は子供達は先生や保護者の目の届かない処でサボっている事から起きていると分析している様ですね。
これも今後の「新しい生活様式」に対する課題でしょう。各々がやるべき事をしっかり取り組める「内自律性」をどの様に醸成していくのか、これからの社会では問われて行くのかもしれません。
さて話はガラリと変えて、本日は創価学会ネタを書いてみます。日蓮は「四箇の格言」を主張していたと言いますが、この中で「真言亡国」という言葉がありました。なぜ日蓮は真言を亡国と言ったのか、それは以下の考えがあった様です。
「今現証あるべし日本国と蒙古との合戦に一切の真言師の調伏を行ひ候へば日本かちて候ならば真言はいみじかりけりとおもひ候なん、但し承久の合戦にそこばくの真言師のいのり候しが調伏せられ給し権の大夫殿はかたせ給い、後鳥羽院は隠岐の国へ御子の天子は佐渡の嶋嶋へ調伏しやりまいらせ候いぬ、」
(撰時抄)
ここで日蓮は真言の調伏の祈りは叶わない事、その証拠として承久の乱で後鳥羽院は真言師に自身の勝利の調伏させました。しかしその結果として後鳥羽院は佐渡への島流しにあった事を指摘しています。つまり真言の祈りでは、蒙古襲来には無駄であるばかりではなく、有害で国を亡くす結果になる事を警告しているのです。
この真言師の調伏、現代では意味の無い事だというのは誰しもが理解出来る事で、そんな調伏した結果を以って他宗派を批判するのもどうなのかと思いますが、鎌倉時代の仏教界ではこれでも十分に説得力を持つ指摘となりえたのでしょう。
◆創価学会の信仰は国を亡ぼす
さて、私は自分自身が活動を止めてから十年以上になりますが、その間、日本の政治状況を自分なりに見てきました。その一つの結論として「創価学会の信仰は国を亡ぼす」と考える様になりました。それは創価学会の行っている信仰活動は、結果として民主主義政体の政治を弱らせ、破壊していると思うからです。
・民主主義の肝心
あえて「肝心」という言葉を使いますが、民主主義の国であれば、国民は政治の事を考えて、監視して、必要であれば自分達の持つ「投票権」を以って政治家を交替させる事が出来ます。しかし今の日本では、この「投票権」に対する認識があまりにも浅い為に、現実問題として投票率が近年下がりっぱなしとなっています。
この理由としては「投票したい人がいない」「どうせ投票しても変わりはしない」という理由が多いのですが、では今の政府が行っている政治に対して不満は無いかと言えば、多くの人達は不満を持っていると思います。選挙権の行使(投票)は、自分が信頼し、良いと思う人や政党に投票する事が出来ればそれに越した事はありません。しかしそういう感覚は、自分自身が政治活動に深く関与する事が無ければ得る事は難しいと思います。
ただ投票という事については、もう一つの観点があって、それは現在の政権与党に対する「賛成」「反対」という意見を明確に意思表示するという事です。
「与党の政策」に賛成であれば与党議員や政党に投票すれば良いし、もし反対なのであれば野党議員や政党に投票すべきなのです。政治とは「BEST(最適)」な答えは出せません。何故ならば多くの人の利権や思惑が絡んでくる事が政治ですから、自分自身の100%思う通りの事という選択は難しいものです。しかし「BETTER(より良い)」の選択であれば、答えの出し方というのは必ずあるはずです。その事から今の政権の政治に対して「賛成・反対」という視点を以って国民は投票すべきであり、いくら野党の政治家が不甲斐ないと思っても、その意志を投票という行為に国民は託すべきであり、投票せずに棄権するというのは、実は国民にとっては危険な行為に他ならない。まずはそういう認識を持つ必要があると私は思うのです。
実は先日の東京都議会選挙でも、投票率が40%台であったというのは、有権者の半数以上が棄権している状況であり、これは極めて民主主義政体の日本という国にとっては憂慮すべき事態だと思います。
・捨て票集めが信仰活動
こんな政治への白けが横行している日本社会にあって、創価学会という宗教団体は「捨て票」を活動家幹部や会員が、それぞれの人脈を通じて収集させる事を信仰活動の主軸にしています。要は白けて棄権しようという人に対して、その票を集めて政権与党や公明党の為にしているという行為ですね。これもまた先の政治に対して憂慮すべき事を加速する行為と言っても良いでしょう。
創価学会の活動家は「政教一致」という言葉には、とても敏感に反応します。ただし彼らの主張とは「憲法20条で定めている政教分離とは、宗教団体の政治参加を禁止していない」という、過去に内閣法制局の見解です。だから創価学会が定める候補を応援する事は問題ないのだ。彼らはその様に主張しています。
まあこれに関して私は議論しようとは思いません。問題なのは宗教団体としての政治参加の「やり方」、つまり運用の仕方に問題があると考えています。
創価学会という組織は、選挙になるとその票集めにより、功徳が得られるが如く会員には指導しています。しかしそれはあくまでも創価学会という組織の指導通りに票を集める事を指し、けして政策による集票を求めてはいません。会員一人ひとりが政治を騙る事は組織内ではタブーとされています。
民主主義では国民の一人ひとりが今の政治を考え、それぞれが政権や政党の主張に耳を傾け考えて投票する事が大事なのですが、創価学会の行う集票にはそんな事は求めていないのです。あくまでも集票する政党や議員を指定するのは創価学会がする事で、そしてその指導通りに行動する事こそ正義であり、功徳があると教えるので、創価学会の会員は政治や政策とは無関係に動きます。
結果どうなるかと言えば、活動家や会員は選挙の行為に一生懸命となり、そこに政治や政策ではなく信仰による功徳(ご利益)を求める様になっているのです。
また彼らの行動はやはり異質なモノとして人々の目に映り、そこでは選挙という国民にとって大事な行為ですら、何か胡散臭い行動にも映ることから、一部の国民の間には選挙を忌避する感情を植え付けてしまっている事にもなっています。
宗教団体が政治に参加するのは良いのですが、そこに宗教的な観点を持ち込み、政治や政策ではなく宗教論である功徳等をもって語らせ、会員の政治的な権利を眠らせて、組織の手駒として会員を動かす事について、社会の中ではもっと糾弾されて然るべき行為だと思うのです。こんな事が横行すると、宗教団体やそれを利用する政治家たちの思うがままに、組織票が動くと共に、あたかも「捨て票収集マシン」の様に、政治に白け、捨て票となったものをかき集め、彼ら創価学会やそれを利用する政治家の思うがままに政治を動かす原動力となってしまいます。
今の日本は人類社会の大きな変化の時期に伴い、大変に重要な岐路に立たされています。国民の多くは既に政治に対して白けを増している中、こういう創価学会の行動は、結果としては国を損ない、ひいては国民の生活を破壊する事にも繋がっていくでしょう。現に自公政権になってからの日本の政治の姿勢を観れば、この現実がわかるというモノです。
何時まで日本社会は、こういう創価学会の亡国とも言える行動を容認するのでしょうか。心ある人達には気付いて欲しいと私は常々考える様になっています。
最終的にこれを止められるのは、国民一人ひとりの政治に対する関心の高まりを待つしかありません。