自燈明・法燈明の考察

組織信心から離れるべき

 世間ではマスコミが新型コロナの「オミクロン株」とやらで、恐怖心や猜疑心を煽っている様ですが、なんとか今日も無事に過ごす事が出来ました。先ほどまで妙法蓮華経(鳩摩羅什訳)の訓読を読み進めていて、ようやく譬喩品第三の半ばまで読み進めたのですが、そろそろ根気も失せて来たので、続きは明日に回そうと思っています。

 何故、この時期に法華経を読んでいるかと言えば、何も法華経をマスターしたいと言う訳ではなく、近年言われている様々な思想潮流と、この法華経の思想にどの様な共通点があるかなど、個人的に考えてみたいと思っているので、読み進めている次第です。もっと突っ込んで言えば、自分がいま法華経に対して考えている事が、果たして実際の法華経にある事と、どんだけ整合性があるのかを確認したいという事なのです。

 最近の私は、例えば勤行する「形」とか、文字曼荼羅(御本尊)を尊ぶ「形式」については、人生にとってそれほど重要な事ではないと考えています。幾ら形を整え、形式を重んじたとしても、その「底心」に何を求めているのか、またそこから自分の人生をどの様に考えていて、どの様に生きて行きたいのか、という事がそこに無ければ、結局の処、形式ばった「信仰の形」を作り、満足して終わってしまう様に思えてならないのです。

 これは「化義の広宣流布」の行き着く先では無いかとも思えるのですが。

 簡単に言えば「化義」というのも、単なる手段に過ぎず、それは目的ではないと言う事だと考えているからです。

 信仰するのであれば、当然、その先には自分自身の人生を豊かにするものが無ければ無意味ですからね。

 そんな事を考えている中で思うのが、創価学会に関与した人達というのは、中々「組織信仰」から逃れられない現実というのもあるのかなという事です。

 これは今から十数年前から感じている事なのですが、今の創価学会に疑問を持ち、組織を離れる人達というのは、その当時から居たのですが、その中でも多くの人達は、今の創価学会について、例えば「信濃町執行部が悪い」とか「組織の官僚化が悪い」「創価学会は人間を見なくなった」「昔の創価学会の指導とは違う」という事を指摘します。しかしそう言って今の組織から離れたとしても、では「正しい信心とは何か」とか「私は今後、どの様に信心活動をすれば良いのか」と、結果、その創価学会に変わるものを探し回る人というのが少なからず居るんですよね。

 そして例えばそれをネットの中の繫がりに求めたり、ネットで情報を発信する人に依存したりなど。要は「創価学会の代用品」の様な存在を求めて、ネットや様々な情報をあさり、彷徨ってしまう人というのが、少なからず見受けられるのです。
 そこでたまたまネットの世界の集まりに、その代用品の様な集いや人間関係を見つけたり、人によってはニューエイジ思想にハマり込んだりして。中には法華講や顕正会、もしくは他の宗教団体にハマり込んだりしてしまうのです。

 滑稽な事なのですが、そういった人達の中では、そういって探し見つけた集団や組織の中でも、時を置かずに揉め事を経験し、そこを離れて新たな「依存先」ではないですが、そういったものを探しまわる人も居たりするのです。

 そうですね、、、まるで「信仰の宿り木」を探して、ひたすら徘徊しまわる様な人達です。

 今でもツィッター等を見ていると、そんな片鱗が見えたりしてしまうのが、私は個人的にとても残念に感じます。昨年まで仲良くやっていた様に見えたのですが、いつの間にかネットの中の集団となり、気が付けばその集団の中で「派閥抗争」みたいな小競り合いをしている「アンチ創価」の人達とかね。やれ「池田先生」とか「師弟の道」なんて言ってはいますが、何やら「小規模・創価学会」をネットの上で再現しているだけではないかという様な動きに見えてしまうのです。

 まあ、かく言う私も「アンチ創価」の一人には違い無いんですけどね。

 ただ私はハンドル名にも「単己」と付けていますが、もう「組織信仰」はこりごりと実感しています。信仰とは個人の心の内面の問題であり、そこを見つめ切磋琢磨する必要はあると思いますが、それは何も「宗教団体」とか「宗教寄り合い組み・疑似組織」である必要なんて感じていないのです。そこは日常の社会生活の中や、家族の中、あとは友人知人の中で、時として語らいながら、取組んでいけば良いだけだと感じています。

 そもそも社会から遊離した信仰なんて、無意味どころか下手すりゃ人生にとって、有害なものですからね。

 何時も書きますが、人間とは宗教に対して常に脆弱な側面を持っています。であればその漸弱な面を認識しながら、信仰をいかに自分の人生のペースに置いて日常生活に取り組んでいけるのか。そもそも取り組んでいける信仰観を自身の中で構築出来ているのかを、自分自身に問いかけながら生きて行ければ良いのではありませんか?

 まあネットや実生活の中を通じて触発できる人間関係があれば良いし、そこに何も組織だって「疑似・創価学会」の様な集団を求める必要なんて、人生には必要ないと思うんですけどね。

 せっかく創価学会という組織の中で、様々な矛盾を感じ、不条理な事を経験したのだから、何もそこで創価学会の代わりの様なものを求める必要は無いのでは。。。そう考えているんですよね。

 まあこういう事を書くと、賛否両論はあると思いますが、でも「組織信心」という事からは、そろそろ離れるべきではないでしょうか。


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