「邦人3500人救出作戦」=最後まで生産続けた松下-天安門事件の危機管理
2019年06月03日07時16分 時事通信
1989年6月の天安門事件を受けた日本政府の最優先課題は北京に在留する約3500人の
日本人をどう帰国させ、「前代未聞の救出作戦」(当時の在北京日本大使館員)を成功させるかだった。
一方、松下電器産業(現パナソニック)は合弁会社の日本人全員を北京に残し、カラーテレビの
ブラウン管生産を続ける決断を下した。事件は日本人にとって中国での危機管理を問われる最初の
契機となった。
◇「日の丸」バス
人民解放軍が6月3日夜から4日にかけ、民主化要求の学生・市民に無差別発砲し、北京の
日本大使館は邦人退避を本格始動させた。5日に軍同士の衝突のうわさが流れ、7日には外交官
アパートへの銃乱射事件が起こり、邦人社会の不安と混乱は拡大した。
記者は外務省に情報公開請求し、天安門事件時の「邦人保護措置」報告資料を入手。同資料や
当時の複数の大使館員によると、大使館は5~9日、館員自らが手分けし、北京市内の日本人
留学生ら計1464人をバスで各大学まで迎えに行き、ホテルや北京空港に移送した。
資料には、ピークの7日だけで「960人を空港へ。バス20台延べ55回運行」との記述がある。
観光バスも借り上げ、ガソリンを買い集め、嫌がる運転手には通常の何倍もの報酬を与えた。
当時、市内では戦車・装甲車が威嚇を続けていた。兵士に日本人だと認識させ発砲しないよう
バスの前面窓に「日の丸」を付けた。どの道が危険か情報を入手し、北京の地図に書き込み、
安全な道を選んで留学生らを迎えに行った。
携帯電話もメールもない時代だ。当時の館員は「いろんなところから『助けてくれ』と電話が入る。
『一度お見合いしておけばよかった』とつぶやく館員もいたが、われわれは自分たちで行くしか
なかった」と振り返った。事件に絡む邦人負傷者は2人にとどまった。
日本航空と全日空は臨時便を運航。6~8日に計10便で3133人を羽田・成田空港に運んだ。
6日の臨時便で9人の応援社員を北京に派遣した全日空の記録には「(9人は)危機的不安感と
邦人救済の使命感が入り交じった複雑な心境だった」と記されている。
◇トウ小平との約束
「(中国の元最高権力者)トウ小平さんと(松下電器創業者)松下幸之助さんの約束があった」。
こう語るのは、79年から松下電器で中国ビジネスに関わった青木俊一郎(現日中経済貿易センター
相談役)=(79)=だ。
改革・開放政策へかじを切ったトウ小平(当時副首相)は78年10月に来日し、松下電器を
視察した。「(改革・開放を)手伝ってください」と求めるトウに、幸之助は「何でもやりまっせ」
と答えた。試行錯誤を続けながら、約束から9年後の87年に北京市と合弁で「北京・松下彩色顕像管」
(BMCC)を設立。89年2月に工場が完成し、当時の社長から工場の写真を見せられた幸之助は
病床にあり、もう声が出なかったが、にっこり笑った。
第1号ブラウン管の完成は89年6月3日昼。天安門事件の前日だ。工場には青木ら日本人
38人がいた。日本大使館は退避勧告を出したが、駐中国公使とも相談して全員が残る決断を下した。
青木は「帰国して炉が止まったら製品が全部ダメになる。しかし何よりトウさんと幸之助さんの
約束があった」と回想する。市内で銃声が聞こえる中、中国人従業員約460人の9割が出勤した。
事件から1週間ほどして工場に鄭拓彬・対外経済貿易相が視察に来た。「職場を離れなかった外国企業」
を内外に宣伝するため国営テレビのクルーも一緒だった。日本国内では松下電器の決断に
「松下は死の商人か」と批判が高まったが、「その後の中国ビジネスはスムーズにいった」と青木は語る。
中国で2012年9月に吹き荒れた反日デモでパナソニックは山東省青島の工場が襲撃された。
巨大市場であると同時に、社会主義体制の下で政治・社会リスクが付きまとう中国との「距離」は
日本企業にとって今も難しい問題であり続ける。