金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

農耕開始までの縄文時代の歴史

土器と農耕開始までの縄文時代の歴史

土器形式の展開

     

 

代表的土器   内容項目
無文土器   マメ類の採集の容器
豆粒文土器  マメ類、ヒエ類栽培開始

       縄文土器の時代 生業開発 模様は縄紋が主な時代
         狩猟時代 弓矢の開発
         魚釣り漁の開始
         貝殻貝文土器  貝塚 潮干狩り漁
         網漁の開始

  この間栽培技術の画期は無かった
  ずいぶん長い時間が掛かった

諸磯式土器 栽培種の完成 マメ類、ヒエ類など栽培種が成立

この時期の遺跡として阿久遺跡があり、 発掘によって遺跡のほぼ三分の一が調査されたが、全体像を伺い知るまでには至っていないものの、従来の知見を覆すほど前例の無い成果があった。という
 多数の竪穴住居跡の他に、配石を伴う大規模な祭祀場跡が発見されていて、 阿久遺跡の調査から今日まで諏訪を中心とする当地域では、縄文時代前期になると集落規模が大きくなり、塩尻市矢口遺跡では全国に先駆けて環状集落が形成されるなど、かなり発展した様相があることがわかってきている。阿久遺跡もその中の一つで、文化的な熟成を迎えて体現された集落である。という
このように生業の一つとして農耕の発展状況が重要な要素となっていると考える。
土器形式の多様化があり、この動きから甲信越、関東での発展が見える


  縄紋模様が無くなる  土器形式の動きから、甲信越、関東での発展が見えている

マメ類、ヒエ類を示す模様

 

 

勝坂式土器   農耕開始 全く模様が変わる

     畑文土器

 

 

3波状突起口縁の土器      社会進化
        二十四節気の暦
        地域特性による 5日、7日のカレンダー

 

 

補修 5波状突起口縁の土器

中央集権的で無く、分散聚落だったことで、自然に従う生活、太陽暦、太陰暦という暦に素直に従う社会だったのではないだろうか。

 

年代との対比年表

 

 

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

 阿久遺跡は中央自動車道の建設に伴って発見され発掘調査が行われた。昭和51年のことである。
この発掘によって遺跡のほぼ三分の一が調査されたが、全体像を伺い知るまでには至っていない。
しかし、従来の知見を覆すほど前例の無い成果があった。
 多数の竪穴住居跡の他に、配石を伴う大規模な祭祀場跡が発見されたのである。八ケ岳周辺では縄文時代中期の大規模な遺跡は、井戸尻遺跡や尖石遺跡など幾つかは知られていたが、やや遡って縄文時代前期となると実体はよく分かっていなかったのである。

 阿久遺跡の調査から今日まで諏訪を中心とする当地域では、縄文時代前期になると集落規模が大きくなり、塩尻市矢口遺跡では全国に先駆けて環状集落が形成されるなど、かなり発展した様相があることがわかってきている。阿久遺跡もその中の一つで、文化的な熟成を向かえて体現された集落である。

 遺跡の範囲は、この尾根上に南北250m、東西500mの広さに展開しており、その全域約55.000㎡が現在国指定史跡として保存されている。

 発掘調査で最も注目されたのはこの時期にはよく分かっていなかった祭祀場跡である。石を沢山使って形成されたもので、尾根に沿って長軸120m、短軸で90m、幅が30mほどの範囲にドーナツ状に密集していた。石は乱雑ではなく、直径1mほどで浅い穴に拳大から人頭大の石が数百個詰め込まれた集石群があり、これが270基以上も集まってドーナツ状となっている。その景観はまさしく賽の河原のようである。そして集石群で囲まれた中には板状の石を伴う直径1mほどの土抗が770基以上あった。墓標のような小さな立石をもつ墓抗と考えられている。この環状に配された集石群更に墓抗群の中心部には石柱が建てられ、又石板が回廊状に立っていたのである。石は柱は、幅35cmの角柱状で長さは120cmほど、遺跡から少なくとも10km以上離れたところから運び込まれた特別な石材である。

 この石材の周りには火を焚いた形跡があり、焼けた痕跡があり、見られた。更にこの石柱の前には、2mおきに二枚で一組となるよう8枚の板石が回廊状に並んでいた。板石は高さ120m、幅60cm前後であり、石柱と共に発見されたときは倒れていた。これらを立て直してみると、石柱から回廊状の列石を見通した先に八ケ岳連峰の最北に位置する蓼科山が聳え立っている。墓抗を中心とする祭祀場は、山岳とも関連するのであろうか。

 蓼科山(2530m)は諏訪富士と呼ばれるほど綺麗な円錐形をしており、長野県の各地からもよく目立つ山である。北八ケ岳の北端に位置するが、独立峰のようにその裾野を広げている。

 阿久遺跡の東側はこの蓼科山が最北にあり、南側に向けて北八ツ、八ケ岳と続く。八ケ岳は南北方向に連なる連峰で、一番北側の山が天狗岳(2645)で、その右側が硫黄岳(2765)、横岳(2829)、阿弥陀岳(2805)、赤岳(2899)、権現岳(2704)、編笠山(2523)と、幾つもの峰が南へ連なっている。
この八ケ岳北端の天狗岳が阿久遺跡において夏至の日の出の位置にあたる。この時期は季節的にも梅雨期であり、なかなか日の出を見ることが出来ないが、日の出の位置は、天狗岳北側の丁度稜線がくぼんだ辺り(黒百合平)からの斜面にかけてになるようである。その日から冬至にかけては幾つもの八ケ岳の山の峰を日の出ポイントが通っていく。

 縄文時代前期に阿久遺跡で、数百という集石群や土抗群そして其の中心となる石柱と回廊状の列石からなる大規模な祭祀場が全国に先駆けて形成された。その個々の性格から集団墓地で祖先崇拝のようなものがあったと推定されるが、それだけでは不十分である。石柱・列石と蓼科山、更には日の出と八ケ岳の関係について、つまり阿久遺跡を取り巻く自然現象や景観を含めた中にもその性格の一端を現している可能性がある。

 この地方の縄文文化の高揚期において、更に高度な精神性が具現され、こうした祭祀場が形成されたのであろう。


 阿久遺跡

 30万個もの石を集めて築いた、巨大な環状の祭祀場。「環状集石群」と呼ばれる祭祀場跡、学術的な新発見が相次いだ原村柏木の国史跡「阿久遺跡」貴重な遺構は「縄文時代観をくつがえす発見」とまで言われる。

 集石群は、立石・列石の周囲を墓穴と考えられる千墓以上の穴が取り囲み円状の構造。

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 前期~中期には主に東日本で集落の更なる大型化が進む。有名な青森の三内丸山遺跡もこの時期の遺跡だ。三内丸山遺跡の集落周辺にはクリの木のみの林が形成されていたが、このような植生は自然には存在しないので、クリ林を管理する何らかの働きかけがなされていたと考えられる。実際に集落が廃絶するとクリ林はナラ林にとって代わられている。他にもこの時期の遺跡にはダイズ、アズキ、エゴマ、シソなどが栽培されていた痕跡のみつかるものがある。これらを縄文時代の農耕とする意見も強いが、人々の生活を変え縄文文化を農耕文化に変えてしまうようなボリュームのものではなかったようだ。
 環状集落などの大型集落や大型の貝塚など、定住が進むことで人々の生活は複雑化してゆく。大型集落の周囲に小型の集落があるなど、集落間での分業を推測させる証拠も増えてくる。

 

 

 

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農耕開始の記録は何処にあるのか

 

農耕開始の記録について
1.縄文土器の年表


2.豆粒文土器とは何なのか


この土器は豆粒を表現していることは間違いないと考える
草創期、早期には土偶が造られていて、それは極めて芸術的な具象造形の表現であった


豆粒文土器以前に造られていたのは、無文土器である。無文土器が土器作りの開始であった。
この土器は細かい粒子であるマメ類の採集を目的として、籠に代わる豆粒が漏れ落ちない容器として造られたと考えるので、容器としての機能第一の土器であったと思う。
だとすれば、次に造られた豆粒文土器は豆粒の採集が容易に出来るという、それ以上の思いをそれに託したものと考える。それは豆粒の採集から、マメを播いて芽が出て、栽培して育て収穫するという知識を得たという画期を示しているものと考える。
つまり豆粒文土器は、縄文時代の草創期に農耕を開始したという記録であると考える。それはまだ弓矢の開発による狩猟開始以前の事になる。
メソポタミア地域での小麦農耕の開始は、記録は無く、その時期は縄文早期頃と思うので、小麦よりも早いマメ類農耕の記録で有ると思う。

その後、諸磯式土器、勝坂式土器の時代に、ヒエ類やマメ類の栽培種の成立が見えることから、西アジアの小麦栽培より早い記録であることは間違いないものと考える。

 

農耕はこの時期から始まった、それは供献土器として全て記録されていた。

図はお借りしました


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