金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

縄文時代に農耕が存在したはず

2022.12.14 投稿

金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設 この観測により
二十四節気の暦が作られていたと思う。
大配石では石棒により立春と立秋の八節の暦 二十四節気の暦の太陽暦の暦日が観測できる
365/2  182/2  91/2 45日
45日区切りの立春からの日数計算による暦日 
立春は冬至日から45日目  現代の太陽暦から0.5日早い位置  これは現在の太陽暦の暦日に一致していることになる
立秋は45*4 180日 現代の太陽暦より2日早い位置  8/7日-2日  8/5日が二十四節気の暦の立秋日
これは石棒で観測される日にちに一致している。
以上のことは今後詳細に観測して確認する必要がある。

ところで、縄文中期には 3突起の土器や3本指を持つ土偶、3本指を持つ土器の造形浮彫、その他三角の土器や石などがある。
この 3と言う数字は暦計算の45/3 15日の計算を示しているものと考える。
これにより二十四節気の暦が完成するからである。それは縄文時代の人々に社会的交流に大変大きな良好な効果をもたらしていたものと考える。それは大変多数の、様々な形で土器が作られていたことからも分るように、縄文社会に大変な盛り上がりを見せていたと思う。

 


月の暦では182日/30日  半年で 6朔望月となる。
そして15日で月の満ち欠けが代わるので、15日が区切りとなる。この事は海の潮の干満と一体のものである。
そしてこれは太陽暦の区切りとシンクロすることが分る。
これにより太陽の暦に月の暦を合わせることが出来ることになる。
このことは縄文社会の海辺と内陸の地域交流に、大変な便益をもたらしたものと考える。


さらに正確に一致させるためには朔旦立春でそれを確認することが出来る。
毎年立春日に月の相を観測して月の暦との日にちを合わせることが出来る。
暦計算ではどうしてもずれが生じてくるので、半年ごとにそれを観測して校正すれば良い。
立春に時計を合わせて、半年後に立秋で再度時計を合わせれば、時計の正確さは維持できる。
縄文時代に立春と立秋の2回の日の出を観測をしていたのは、この時計を合わせるためだったものと考える。


縄文時代の暦はこのように立春観測で暦を立て、月の暦との整合性は、半年後の立秋観測でズレを補正して正確さを維持していたものと考える。


このように金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設は、縄文時代の暦の最終的な完成形を示していると考えている。
これだけの暦を作るのに、一体何時から暦が作られてきていたのか。
それは縄文土器に示されている数字から分ると考える。

 

太陽と月に関係する波状突起口縁の土器の数字列
縄文時代の土器は波状口縁、突起口縁などを持つことが、他の古代文化はと全く異なるもので、縄文土器の最大の特徴とされています。これがヒントになると考える。

何故縄文時代にそのような土器としての利用に邪魔となる口縁を作っていたのか。
このような土器は、日常使いの土器では無く、特別に作られていた供献土器である。こうした土器は博物館に展示されているもので、当時の日常使いの土器は、博物館では段ボール箱の中に、出土土器片として大量に倉庫に保存されているが、それは展示されることは無い。そのような土器が遺跡から大量に出ていて、それは98%にも及ぶものであるようだ。
特に有名なものは火焔土器
波状突起口縁の土器の突起がどうして、何のために作られていたのか。
突起数の時代変化は、それが現れた時期を示す
 注記 縄文時代にも土器にも専門家では無いので、各地の博物館展示の記述を元に引用しています
草創期   どこにもある土器口縁
早期    2、4、6
前期    8、12
中期    3
後期    5、7

この数列は縄文時代の太陽暦と太陰暦の開発進化を記録して残していたものと考えている。
これはカレンダーのカウント方式、日数の進法を示していたのだろう。
これ以外にも縄文土器に記録されている模様には、生業の技術進化の画期を記録していたものとも考えている。その例としては、貝塚を形成する生業、貝殻条痕文や釣り糸の撚糸文、弓の弦や石鏃などがそれに当たるものだろう。

 

縄文時代早期からの農耕の歴史
縄文時代に太陽暦を開発していたとすれば、それは鮭マス遡上などいろいろな生業がある内でも、特に植物栽培・農耕からの必要性からだったものと考える。つまり縄文時代に農耕が行われていたことを証明するものだろうと思う。四季の存在する日本列島では、太陽暦無しには農耕は出来ない、まして多種類の雑穀を各地で作り収穫を上げるためには暦の存在は不可欠である。
打製石斧など打製石器の農耕具の存在。特に八ヶ岳山麓の遺跡での縄文時代中期に爆発的増加が見られていたという。

 

縄文人の生業の中で、農耕が中心となったかどうか、それは分らないものの、遺跡から大変沢山の種類の作物が、遺物として見付かっていること、打製石器の多くの存在、それは生業の中でも重要な構成要素の一つであったことは間違いないと考える。

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

2023.08.22 追加しました 

縄文時代のダイズ属種子の時間的変化

早期から前期の試料は,早期後葉の NKM01 以外はツル マメの大きさに収束し,ツルマメ型に分類される。ここでの大きな問題は,NKM01 がツルマメ型より大型である点 である。これを栽培型ダイズと捉えるならば,小畑(2009)が予測した野生ツルマメの栽培行為に伴う種子の大型化の兆候,すなわち栽培化症候群(domestication syndromes)が,すでに縄文時代早期後半におこっていたと見ることも できる。

 

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ところが、北日本には、佐々木さんの予想をはるかにさかのぼる縄文時代早期の段階から多数の栽培植物が発見されている。
これは北海道グループによる追跡の成果で、特にヒエは早期からあらわれ、住居跡(炉の周辺)から多数の種子が発見されていることからみて利用されていたのは確実だが、時代の経過とともに粒が大きくなることから、野性のイヌビエが栽培種(縄文ビエ)に選抜されていったと考えられるという。

また、縄文時代前期に関東から中部にかけてオオムギがあらわれ、中期にはその例数が増える。
ソバも早く、前期に北海道、中期には北陸にひろがる。そして三者とも後期以降は全国的に分布するようになる。エゴマも早期の発見例があり、中期になると関東・中部地方を中心に濃密に分布している。これは、クリ栽培と連動しているのではないか。

蔬菜類(そさいるい)としては、ヒョウタン、ウリ、マメ類、ゴボウ、アブラナが前期からあらわれることは無視できない。最近では、アズキではヤブツルアズキ、ダイズではツルマメという野生種が栽培化された可能性が報告されている。他に、アサ、ウルシなどの食料ではない栽培植物もある。これらのデータは縄文農耕の開始や拡散が複雑な様相を持つことを伺わせるのである。

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2009年には縄文中期前葉から中葉にかけての住居跡から出土した五領ヶ台式期から藤内式期の縄文片から複数のダイズ属のダイズ、ツルマメ、ササゲ属アズキ亜属の圧痕が確認され、同時に行われた北杜市大泉村の天神遺跡出土の縄文前期土器内部からもダイズ圧痕が確認されている。

ダイズの栽培については、・・・縄文前期にまで遡る発見としてこれらの発見は縄文農耕の観点からも注目されている。また、2009年の報告においては縄文土器内部への意図的混入の可能性も指摘され、ダイズ圧痕の意義についても検討が行われている。

           この部分、ここまでその後に追加しました  2022.11.21

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縄文の思考 (ちくま新書) 縄文の思考 (ちくま新書)
(2008/04)
小林 達雄
モースは、縄文土器は器形と文様が無限とも言うほどにバラエティーに富み、口縁が突起をもったり、波状にうねったりする自在さに驚きを隠さなかった。

突起こそが縄文土器を縄文土器たらしめている必須の属性である。
そもそも、突起が縄文土器の歴史に登場するのは草創期の最古の土器群の中にまで遡り、新潟県室谷洞窟の多縄文系土器には明瞭な波状口緑もある。

しかし、突起と波状口緑は順調に継承、発達することはなかった。
やがて早期に入ってからも、その初頭の撚糸文系土器は一切突起を付けなかった。

中葉の押型文土器および貝殻沈線文系土器に現われた突起が後続の土器様式に継承され、それ以降縄文土器の主要な属性へと成長し続けるのであった。

ともあれ、容器は突起など必要とはせず、疑いもなく余計な代物で、あること自体がモノの出し入れに邪魔にさえなっている。
その突起を縄文土器は口緑に大きく立ち上がらせて泰然自若としている。
また、縄文土器が底から口を結ぶ器壁に不必要なほどに変化をみせるプロポーションは、もう一つの際立った特徴である。
すぐに倒れて、せっかくの内容物が外にこぼれ出てしまいかねず、容器としての本分を度外視しているのだ。
それに輪をかけて、これでもかと言わんばかりの大仰な突起をかぶせる。
なかでも中期の勝坂式や曾利式、火焔土器の各様式はもう常軌を逸している。

縄文土器は土器の造形において、とくに世界に冠たる独自で個性豊かな展開をみせたのだ。
改めてこの事実に目をとめたのが岡本太郎で、「ここに日本がある」と叫ばしめた。
器の形態全体のプロポーションの異常なまでのバラエティーと、その大仰な突起は容れ物の城を超えており、「容器放れ」した性格を矯正しょうとする素振りさえ見せず平然としている。

縄文土器とはそういう性格のものなのである。
縄文土器は、飾って、眺めるために作られたのでは勿論ない。
土器の内外面には、しばしば食物の残り滓が焦げついていたり、煤の付着や火熱による二次的な変色が底部にみられ、食物の煮炊き用に供されたことを物語っている。
縄文土器の草創期前半では土器の製作量はそれほど多くはなかったが、次の早期になると、たちまち製作量は増加し、遺跡には著しい数が残されるようになった。


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