金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

シュメールの暦

タイトル数を減らすため

エジプトとシュメール文明の暦についてまとめました

 

エジプトの太陽暦とは

 

エジプトの太陽暦とは、シリウスとナイルの氾濫をもとにした暦
太陽の運行を見ていたものなのかは疑問
いろいろと調べてみましたが、よく分りませんでした。金生遺跡では明確に太陽を観測していたと分りました。太陽の運行の定点観測が基準ですから、毎年観測して暦を作っていたものと考えます。それも八節の暦でこの基本は世界の常識のようですから、その天文台が現存している。

引用----
エジプトの天文学に関する最も古く、詳細な文献は、中王国時代(前2055-1650)初期の木棺の蓋に描かれた「対角線暦」あるいは「星時計」と呼ばれるものである。 同様のものは末期王朝にも見られる。 これらの暦では36の行があり、夜空の星が36のデカン(十分角)に分けられて列挙されている。 天空で太陽が1年間に動いていくコースは黄道と呼ばれるが、季節によって変化する星の動きを知る目安として、黄道の南側の星を36のグループに、すなわち10日毎に夜明けに地平線上に現れる星のグループに分割したのである。
 また、各デカンには、地球の回転方向に番号が付けられている。 先に述べた、中王国時代の木棺に描かれたデカンでは、水平の線が夜を各12/40の部分に分けている。 これは、各デカンの出が、1年の1/36の期間(ほぼ10日強)につき40分づつ前方にずれるからである。 これらの座標の上に各星の移動が表示されていたことからこの星図が星によって時間を知るために用いられた可能性があるとされ、『対角線星時計』とも呼ばれる様になった由来である。
 デカンは、これらだけではなく、セネンムトの墓(前1460頃、現在知られている天井天体図としては最古のものと言われる)、ラムセウムの天井画(前1300頃)をはじめとして、墳墓や神殿の天井にも多くみられる。 下の写真は、デンデラのハトホル神殿の天井に描かれた天体図の一部であるが、天を旅する神々の姿でデカン 描かれている。http: //www.roy.hi-ho.ne.jp/mizuchi/Egypt/seiza/seiza-decans.htm
トト神…
トト神が月と争い、12の同じ日数からなる月の毎日の1/70を勝ち取り 月を元にした暦の一年360日に、この日を付け加えて、一年を365.1428日としたという。
シリウス(天狼星)-大犬座のα星、全天で一番明るい星http: //www.roy.hi-ho.ne.jp/mizuchi/Egypt/seiza/seiza-sirius.htm
365.2422日に 非常に近い暦の計算を行っていたと…
 36のデカンに分けられた夜空の星々は、毎年10日間ずつ夜明けに地平線上に上った訳であるが、この中でもっとも明るかった星が、現在我々がシリウスと呼んでいる星である。 古代エジプト人は、この星をソプデトあるいはソティス女神として知られる女神と見ていた。

 しかし、シリウス星が古代エジプトにおいて、特別視されていたのは、単に一番明るい星であったからだけではない。 シリウス星が太陽に近接して、約70日程姿を隠した後、日の出直前に現れると、それから程なくして 彼らの生活に大きな影響を及ぼすナイルの増水が始まる現象が確認されたからである。
 このシリウスが ヘリカアル・ライジング(日の出前出現)する日は、エジプト暦の元旦でもあった。 ユリウス暦でいうところの 7月19日頃である。 このソティスの出現と、ナイルの増水開始時期を元にした1年を365日という暦を古代エジプト人は、手に入れていたのである。  さらに、ヘリオポリスの創世神話によれば、トト神が月と争い、12の同じ日数からなる月の毎日の1/70を勝ち取り 月を元にした暦の一年360日に、この日を付け加えて、一年を365.1428日としたという。 この時代に、現在の暦の一年=365.2422日に 非常に近い暦の計算を行っていたというのは驚くべきことではないだろうか?

 もっとも、実際にファラオが使用した公式の暦は 何故か、1年=365日で、4年に1日のずれ
は考慮されておらず、元旦は、ソティスの出現、及びナイルの増水から 次第にずれた、これが、再び一致するまでの1460年(365*4)は、ソティス周期と呼ばれる。
この時代に、現在の暦の一年=365.2422日に 非常に近い暦の計算を行っていたというのは驚くべきことではないだろうか? 

 なお、ソティス日とシリススの出現がきちんと重なった記録として、紀元139年があり、これの逆算により、この ソティス暦の採用が、紀元前2781年あるいは紀元前4241年頃というのが候補とされている。
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◇洪水とシリウスの周期
 ナイル川の洪水は、その上流域の熱帯雨林地帯に雨期がおとずれ大量の雨が
 降る結果起こる現象ですが、砂漠地帯であるナイル川下流域ではそんな事情
 は分かりません。

 分かることと言えば夏至に近い時期になると、ナイル川が増水し氾濫すると
 言うことだけ。この増水の時期を正確に予測出来れば、洪水の危険を除き、
 豊かな収穫だけを手にすることも可能です。
 そしてエジプト人が発見した増水時期の始まりの目安となる現象が、

  シリウスの日出直前出現(ヘリアカル・ライジング,Heliacal rising)

 でした。シリウスはおおいぬ座のα星。全天でもっとも明るい恒星です。
 このシリウスは現在の暦の5~6月頃は昼間に空にあるため見ることが出来ま
 せん。それが夏のころになると、日が昇る直前に、少しの時間だけ見えるよ
 うになります(これは、太陽が恒星に対して 1日に約 1°西から東に移動し
 て行くためです)。
 この日出前のシリウス出現の最初の日がヘリアカル・ライジングです。

 ヘリアカル・ライジングの観測は難しいものですから、年によって多少の誤
 差は有ったでしょうが、その平均の間隔を調べると、ヘリアカル・ライジン
 グは 365日毎に繰り返されることが分かりました。

 シリウスのヘリアカル・ライジングを基準として考えられた暦ですから、こ
 れは太陽暦と言うより、「シリウス星暦」と呼ぶのが相応しそうです。

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  地球を中心に見ると、こういう風になっています。
夏至は太陽黄径90度、春分が0度。秋分が180度。 冬至が270度です。
夏至には太陽の南中高度が最大になり、冬至には最小になります。
春分、秋分では その中間になり季節との相関関係から、夏至と冬至が最初に発見され、続いて春分、秋分が考案されたと考えられています。
 そして、その後、4立(立春、立夏、立秋、立冬)。
 更に細分化して24節気に至ったと考えられます。
 二十四節気は、古代中国で考案され、漢字文化圏で使われてきました。
  
 メソポタミア文明とエジプト文明
 これらは、天文現象であるため、非漢字文化圏でも、春分 秋分 夏至 冬至は、季節の区切りとして認識されてきました。古代メソポタミアでは、占星術として発達し、1年を12分割しました。
 ケルト文明では、立春 立夏 立秋 立冬を加えて、1年を8分割しました。
 季節は農耕だけでなく、狩猟採集に於いても、動物の繁殖、移動も季節に関係しています。
  世界ではじめて太陽太陰暦を創始したのは、メソポタミア文明です。
これとほぼ同時期にエジプト文明は、ナイルの氾濫の周期と、シリウスや星座の観測から1年が365日からなることを発見し 4年に一度うるう日をおいた太陽暦を創始しました。太陽の年周運動から黄道の概念を生み出し、天空を10度ごとに36に分け、星座を割り当て、星座を利用して,紀元前2400年からは、星座が昇ってくる時間を正確に知り、1日を24時間としました。メソポタミア文明とは交易があったことも知られています。古代ローマの太陽暦もこの エジプト暦 を取り入れたもので、現行の太陽暦の原型となりました。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー初稿 2021.07.16

シュメール文明の暦

シュメールの暦は


引用します---  世界最古の文明メソポタミアの新年祭   紀元前3500年前後に栄えたメソポタミア文明では、現在のイラクあたりに住んでいたシュメール人たちが、世界初の暦を作りました。  最も太陽の力が落ちる冬至の時期が一年の始まりとされ、冬至前後の12日間は新年の祭が開催されました。---

  シュメールは世界最古の文明とされ、暦が作られたとされています。
  ところで、文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人
  このシュメール人は不思議なことに、一体どこからここに来て、
  その後何処に行ったのかということが不明とされています。

冬至については次のように言われています、これが真相でしょう。

---実際に最も短い日の観測が困難なので西暦1582年に 現在のグレゴリー暦が制定されるまでは冬至の日の祭りは2週間連続して、その中のどれかの日が本当の冬至でした。---

冬至の日の決定はこのように難しかったのです。

月の満ち欠けについては次のように言われています。

---月の満ち欠け を基準にした暦は作物の生長を知るために役立つので、農作物を育て る民族のほかに草木を食べる動物の行動に注目する狩猟民族も月の満 ち欠けの暦を使用しました。---

しかし月の満ち欠けを基準にすると太陽による季節とは関係ないので、次の様な不都合なことになる。

--- 太陰暦は、人類が最も早く用いた暦法であると考えられ、占星術が行われていた古代メソポタミア文明や中国文明で生まれ、現在ではイスラーム暦に見ることができる。
太陰暦と農事のずれ    季節が一巡する周期、つまり太陽の公転周期は約365日であったが、この数字は古代人が日常使用する数字としては大きすぎたので、古代人は月の満ち欠けの周期(中国では新月を朔、満月を望としてその周期を朔望月という)を1月とし、その12回の周期を1年とした。これが太陰暦であり、1ヶ月は約29.53日であるので、1年は345日となる。
 しかし、これでは季節の変化とずれが生じるので、メソポタミアや中国では345日と365日の11日の差を閏月を設けることで、実際の季節の変化にあわせる太陰太陽暦が用いられるようになった。一般に太陰暦といっているのは、実際にはこの太陰太陽暦である。---

シュメールの暦は12ヶ月を1年としていた。

この同時期に縄文人は二至二分の暦を作り出していたものと考える。
日数をカウントして冬至と夏至を決め春分と秋分を知っていた。
縄文後期には四立を知り、八節の暦を作り出して利用していたものと考える。
一年は 365=45日*8+5日となる、これを立春観測により基準日を観測して暦を作っていた。
これは太陰暦の暦日の差、11日より小さいズレである。
この5日を冬至の祭としていたのだろうか。

--- バビロニア暦   紀元前6世紀までは、暦は天体観測に基づくものでしかなかったが、紀元前499年頃には、月と太陽の周期に基づき、19年が235か月に等しくなるよう、調整された。---

金生遺跡の配石遺構からは立春と冬至を重要視していたことが見えているので、
金生遺跡は天文台であり、縄文人は立春と冬至の時期には太陽観測をして、イノシシの犠牲もその時の冬至の祭のため行われたものだろう。金生遺跡の天文台は縄文時代に立地して、現在も変わりなく太陽観測の天文台として、四立八節の暦作りの基準点観測のために稼働可能である。
1年の日数については金が岳のピークからの立春の日の出位置の移動から365日と366日を判別出来たものでは無いだろうかと推察しています。
暦の発明は、大昔のことなので想像するしか有りません、考えてみてください。

引用ーーーーーー
シュメール文明1 Sumerian 1 石川源晃著
人類文明がどこで始まったか不明な部分が多いのです。 人間生活に必要な暦についても多くの研究があります。月の満ち欠け を基準にした暦は作物の生長を知るために役立つので、農作物を育て る民族のほかに草木を食べる動物の行動に注目する狩猟民族も月の満 ち欠けの暦を使用しました。冬に日が短くなる冬至の日を基準に徐々 に日が長くなる春を望む精神的期待感をこめた冬至暦を現在の我々も 使用しています。
実際に最も短い日の観測が困難なので西暦1582年に 現在のグレゴリー暦が制定されるまでは冬至の日の祭りは2週間連続 して、その中のどれかの日が本当の冬至でした。

このような精神論よりも商売の利益 を大切に考えた商業民族の古代シュメール人はメソポタミアの北緯30度前後で は春分の昼夜の長さが一致するので昼夜の長さを正確に測り一年の 初めにする春分暦を使用しました。ATT 約一万年前に中近東・西アジアの メソポタミアで栄えた古代シュメール人は夜に旅をし昼に商売をし、夜空の星を観測し旅行の道案内にしました。彼らは商売の成功 や失敗や盗賊の災害発生の有無を予測する手段として天体を利用しま した。古代シュメール人は木星が12年で天空を一周することを知り、 商品12個を一まとめにして1ダースにして整理しました。一年に13回の 新月があるのに一年を12か月にするのも、午前午後を12時間とした のも、太陽の通り道(黄道・こうどう)に16個の星座が存在するのに 12星座だけを使用するのも,古代シュメール人の風習に従ったものです。 空の星をつなぎ人間の考えかたを整理して星の絵文字の星座を考え出 したシュメール人は約五千年前に人類初めての 絵文字を考え粘土板に記録し,後に楔形文字(くさびかたもじ) に発達しました。 シュメール人の知能の高さを表現するものとして、右図の女性 を示す絵文字と山脈を示す絵文字を合併して女奴隷という絵文字を合成したことが注目されます。その当時は 北方の山岳地帯から出稼ぎの異民族の女性がシュメール社会の奴隷になったのですが、二つの独立した意味の 絵文字を組み合わせて、新しい内容の文字を創出したことは古代シュメール人が論理的で知能の高い民族である ことを証明しています。後世のエジプト人がロゼッタ・ストーンに刻んだ古代シュメール人への悪口はシュメール人 の知能の高さに対するエジプト人の妬みなのでしょう。ref
We do not really know the origin of human civilization. There are various studies on the place and the time of origin advocated. But we only expect the time in several ten thousand years ago at some of the place not so far from the shores of Mediterranean sea located. For the calendars based on the waxing and waning of the Moon, we have a record of the agricultural people that are useful to know the growth of plants and crops timed. These types of calendars are not only familiar to many agricultural people but also to the hunting people, who are sensitive to the moving of animals that seek around foods made of plants and crops grown. Such calendars based on the appearance of the Moon are used by people who are longing for coming spring season that mentally satisfied by longing for daylight starting from the day of winter-ingress that is the shortest daylight of year. Only exception in the system of calendars is the spring-ingress type that was originated by the ancient Sumerian people. It has been difficult for the people to find the exact day of longest night or the day of winter solstice observed. Until the time nowadays Gregorian Calendar that was established in 1582, the days of festival to celebrate the winter solstice in Rome were set in the long period of two weeks including the assumed date of winter solstice observed. In much materialism with less spiritualism, the ancient Sumerian have selected the day of spring ingress for the first day of the year as they could find the day exact in the land of Mesopotamia that the Northern Latitude was justify the balance of time in day and night observed in exact. They traveled at night and have dealt with trade business in the daytime participated. They observed stars in the heaven and learnt the proper direction of travel scheduled. They have predicted possible profits and losses in business as well as to foreshow an accident incurred by a thief in travel encountered. During the observation of stars, they found planet Jupiter travels the whole sky by twelve years approximately that they set the unit of one dozen to compile the commodities in trade business. In nowadays tradition in the world, we use twelve months for one year that contains thirteen times of new Moon, we use twelve hours in the morning and twelve hours in the evening and also we use twelve zodiacs out of sixteen sets of constellation along the ecliptic or the route of the Sun found; these conventions are all specified for the memory of tradition in the ancient Sumerian life accustomed. As they invented the pictographs in about five thousand years ago by taking the similar idea from the system to illustrate the constellation in the sky by connecting stars compiled, they have developed letters in CUNEIFORMS engraved on the surface of clay plates. In despite of the ill description against ancient Sumerian that was engraved on the Rosetta Stone ref of Egypt, the human oldest pictographs of Sumerians invented indicated the evidence on high culture life of Sumerians found. You will see a pictograph of woman-slave or bond-woman that was combined two simple word woman and mountain. As women from the northern mountain side have been held in servitude to the Sumerian society, thus the combined word was invented.
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シャマシュ(Shamash, ?ama?)は、メソポタミアの太陽神…
バビロニア暦(バビロニアれき、英語:Babylonian calendar)とはバビロニアなどの地域で使用されたメソポタミア文明の太陰太陽暦である。
シュメールのウル第三王朝のシュルギ王(紀元前21世紀)が定めたウンマ暦を起源とする。

春分の頃の新月の直後を元日とする。紀元前6世紀までは天文観察に基づいて作られ、春分の時期を正確に予測するため恒星 カペラの動きを観察していた。
紀元前5世紀の初めより、19年が235ヶ月に等しいものとする周期を採用して作られるようになった。メトン周期の先駆とされる。

バビロニア暦の月名はバビロン捕囚の時からユダヤ暦に採用された。年の始まりを春分とする前提によっており、イラン暦のような太陽暦と共通する一方、同じ太陰太陽暦でありながら中国暦とは違いが見られる。週の起源は陰暦1ヶ月を4等分するバビロニアの祭日によるともいわれる。https: //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%93%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A2%E6%9A%A6

紀元前6世紀までは、暦は天体観測に基づくものでしかなかったが、紀元前499年頃には、月と太陽の周期に基づき、19年が235か月に等しくなるよう、調整された。https: //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5
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太陰暦
月の満ち欠けを基準にする暦法。古代メソポタミア、古代中国、イスラーム世界など広く用いられた。実際の季節とのずれが生じるので、多くは太陰太陽暦で修正されるか、太陽暦に切り替えられているが、イスラーム暦は現在も太陰暦である。

 太陰暦は、人類が最も早く用いた暦法であると考えられ、占星術が行われていた古代メソポタミア文明や中国文明で生まれ、現在ではイスラーム暦に見ることができる。

太陰暦と農事のずれ
 季節が一巡する周期、つまり太陽の公転周期は約365日であったが、この数字は古代人が日常使用する数字としては大きすぎたので、古代人は月の満ち欠けの周期(中国では新月を朔、満月を望としてその周期を朔望月という)を1月とし、その12回の周期を1年とした。これが太陰暦であり、1ヶ月は約29.53日であるので、1年は345日となる。
 しかし、これでは季節の変化とずれが生じるので、メソポタミアや中国では345日と365日の11日の差を閏月を設けることで、実際の季節の変化にあわせる太陰太陽暦が用いられるようになった。一般に太陰暦といっているのは、実際にはこの太陰太陽暦である。
太陽暦への切り替え

 太陰太陽暦に対して、太陽暦はエジプト文明で始まり、ローマのユリウス暦を経てグレゴリウス暦がつくられ、現在広く使用されるようになった。日本でも1872年(明治5年)に太陽暦に切り替えられた。イスラーム世界では、11世紀のセルジューク朝でイランの太陽暦を改定したジャラーリー暦が作られた。
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冬至を祝う世界の祭~太陽復活の祝いとクリスマスの関係

Written by すずき大和
暦の上では間もなく冬至を迎えます。

太陽の周りを回る地球が、太陽に対して地軸の傾きを一番大きくする2点のうち、北半球が最も太陽から遠ざかって傾く日です。

大昔、大自然と対峙して生きていた人々にとって、太陽の高さや日照時間の変化に伴う季節の変化は、食料を得て、暑さ寒さをしのぎ、生きていく上で、最も大きな影響を受ける、生死と直結する大事な問題でした。

昼間の時間が最も長くなる夏至と共に、最も昼間が短く日照時間の少ない冬至を無事乗り切ったことを祝福する祭は、北半球の各地で行われていました。

実はクリスマスも、ヨーロッパの冬至祭の風習とキリスト教が結びついて現在の形になったものです。
もくじ [閉じる]
1 古代の冬至祭
1.1 世界最古の文明メソポタミアの新年祭
1.2 古代中国の暦と冬至節
1.3 古代ローマの冬至祭
2 ヨーロッパの冬至祭とクリスマスの誕生
2.1 北欧のクリスマス「ユール」
2.2 ミトラ教「不滅の太陽の誕生日」とキリスト教
2.3 イエスの誕生を記念するに相応しい日が選ばれた
3 日本の冬至の風習
3.1 クリスマスと冬至を結びつける感覚の乏しい日本
3.2 中国伝来の暦では、やはり冬至は祝福する日
3.3 かぼちゃも柚子も実はゲン担ぎのアイテムです
古代の冬至祭
世界最古の文明メソポタミアの新年祭
紀元前3500年前後に栄えたメソポタミア文明では、現在のイラクあたりに住んでいたシュメール人たちが、世界初の暦を作りました。
最も太陽の力が落ちる冬至の時期が一年の始まりとされ、冬至前後の12日間は新年の祭が開催されました。
暗さや寒さが増してくるこの期間は、メソポタミアの主神、太陽の神マルドゥクが混沌から出現する怪物と戦う時季とされていました。
冬至前後に新年を祝う祭を行うことは、その後バビロニアやペルシアの文明にも引き継がれました。

古代中国の暦と冬至節
古代中国でも、冬至は暦を決める上での起点となる重要な節気でした。
紀元前1046~256年の周代には中東の文明と同じく冬至が一年の始まりとされました。漢代(紀元前206~西暦256年)に入り、春(季節の始まり)と一年の始まりが揃う暦に改められましたが、冬至を祝う祭典はいろいろな形で引き継がれ、現在も「冬至節」として旧正月を祝う時のように、先祖や神様を祀って厄払いし、一家団らんで宴を楽しむ習慣が残っています。

古代ローマの冬至祭
紀元前の古代ローマでも、冬至祭がありました。
農耕の神を祀り、闇を追い払うための祭となっていました。
人々は仮装したり、晩餐会を開いたり、友人とプレゼント交換をしました。
これらは、後のクリスマスの習慣の素になったと言われています。

ヨーロッパの冬至祭とクリスマスの誕生
北欧のクリスマス「ユール」
ヨーロッパ北部では、ケルト人やゲルマン人による冬至祭が行われていました。
緯度の高い所ほど、日照時間の差は大きくなるので、特に北欧での夏至・冬至祭は、昔からとても盛大なイベントです。
暗くて寒い冬至の時期は、悪霊の力が強まると考えられていましたが、冬至を境に太陽のパワーが復活するとされ、冬至祭はそのことを祝福する宴でした。
この祭は「ユール」と呼ばれ、「ユールログ」と呼ばれる大きな木の幹(巨大な薪)を燃やす火を囲んで、ご馳走を食べ、お酒を飲んで、12日間祝いました。
ユールログの火は魔除けの効果があるとされ、その後北欧以外のヨーロッパへもユールログとユールの習慣が広まっていきました。後にキリスト教と融合してクリスマスになりましたが、北欧では、今でもクリスマスのことを「ユール」と呼び、ユールログを模した丸太型のケーキ
「ブッシュ・ド・ノエル」
を食べる習慣も残っています。

ミトラ教「不滅の太陽の誕生日」とキリスト教
紀元後、ローマ帝国全体にキリスト教が広がり始めた頃、土着の宗教として根強かったのがミトラ教でした。
太陽神ミトラを崇拝し、冬至は、弱まって死んだミトラ神が力を取り戻し再び地上に生まれてくる日とされ、「不滅の太陽の誕生日」と呼ばれる祭が行われました。

ミトラ教のライバルのキリスト教としては、一度死んで復活するといえば、イエスの奇跡の代名詞みたいなものでしたから、冬至の日にはイエスの誕生日を祝うべきだ!と主張しました。
実は、イエスの誕生日は聖書に記載がなく、聖夜の逸話は語り継がれているものの、それがいつかは諸説あって定かではなかったのです。

イエスの誕生を記念するに相応しい日が選ばれた
旧約聖書の中には
「義の太陽」
という表現が出てきます。
キリスト教会は、ミトラ教の不滅の太陽の誕生日は、真の「義の太陽」であるイエスの誕生日としよう、と主張しました。
当時のローマ皇帝はこれを支持し、対立するミトラ教と平和的な融合を計ろうとしました。
4世紀頃のローマ帝国は最盛期の勢力を失い、分裂の時代へと向かっていました。
ミトラ教徒だけでなく、北欧の民など、冬至祭の土着文化を持つ地域の民族・宗教もみな一緒に統合したいという思惑もあったものと推察されます。
西暦325年、キリスト教会は正式に、冬至の日(その時のカレンダーでは12月25日)を「イエスの誕生日」と決定しました。
以後、異教の風習も習合させて、クリスマスというキリスト教の復活祭に次ぐ大きなイベントが発展していくこととなります。

サンタクロースも、ヨーロッパ各地にある妖精伝説などから発展して生まれたもののひとつです。
そのため、ヨーロッパでは地域により、サンタ像が微妙に異なっています。

日本の冬至の風習
クリスマスと冬至を結びつける感覚の乏しい日本
日本では、クリスマスの習慣が根付くのは、もっとずっと後の時代です。
宗教色にはあまりこだわらない「外国のお祭」として受け入れてきたため、冬至との関係はあまり意識されていません。
ヨーロッパより低い緯度に位置する日本では、冬至の暗さや日照時間の短さも、それほど痛烈に受け止めてはいませんが、それでも厳寒の冬に向かう時季であるため、健康に配慮した風習が伝わっています。
柚子湯やかぼちゃを食べる習慣は、風邪を予防するためと、よく言われます。
中国伝来の暦では、やはり冬至は祝福する日
日本の暦は中国から伝わり、明治初期まで太陽太陰暦が使われていました。
長い間、暦を通して、中国の哲学や思想もかなり日本の風習に入り込んでいます。
陰陽説という吉凶の考え方もそのひとつです。
太陽の出ている時間が一番短い冬至の瞬間は、陰に属して運気はやはり弱いと考えられています。
冬至を過ぎることで、陰が極まり再び陽にかえる(これを一陽来復といいます)と解され、日を表わす冬至にはやはり
「すべてが上昇運に転じる日」
という意味があるのです。かぼちゃも柚子も実はゲン担ぎのアイテムです
かぼちゃを食べる習慣も、実は栄養価のためだけではなく、開運のためのゲン担ぎの意味が隠されています。
今は「かぼちゃ」ばかり言われることが多いですが、冬至の日に食べるといいとされているものは、ほかにも 「れんこん」「だいこん」「人参」「うどん」「ぎんなん」「きんかん」などがあります。
わかりますか?   みんな「ん」のつく食べ物です。 これは「運盛り」といって、これらを食べることで運が呼び込める、という縁起担ぎなのです。
かぼちゃは「ん」がつかないって?いえいえ、漢字で書いてみてください。
「南瓜(なんきん)」でしょう。 実際、昔はかぼちゃをこう呼んでいたのです。
柚子も“香りの強いものは邪気を祓う”と言われることから、開運のために身を清めるための入浴剤なのです。
ということで、日本の冬至もクリスマスも、太陽のパワーにあやかって厄払い・開運を祈る思いが込められた祝福のイベント、という点で共通しています。

かぼちゃというとハロウィンと思われがちですが、今年のクリスマスは、ご馳走にかぼちゃの煮つけを加えて、“東西の文化の融合”を計ってみるのも乙なものではないでしょうか。
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■太陰暦
人間が、毛皮のパンツをはいて、歩き回っていた頃、暦などどうでもよかった。動物を狩ったり、植物の実を採ったりの生活に、「今日は何日か?」は必要ない。ところが、農耕が始まると、そうはいかなくなった。種まきや収穫の時期を知る必要があるからである。そこで、朝夜の周期を「日」とし、月の満ち欠けの周期を「月」とし、季節の周期を「年」とする暦が生まれた。いわゆるカレンダーである。

暦(こよみ)には、大きく、「太陰暦」と「太陽暦」がある。「太陰暦」は、月の満ち欠けの周期を1ヶ月とし、1年を12ヶ月とする暦法である。ちなみに、月の満ち欠けの周期は平均で29.53日。なぜ、平均かというと、月の軌道は複雑で、周期がばらつくからである。ただ、平均29.53日なら、29日の月と、30日の月を交互にくりかえせばいいので、運用するには都合がよい。

太陰暦の歴史は古い(たぶん最古)。アフリカで発見された3万7000年前のヒヒの骨には29個の印が刻まれていた。さらに、イギリスのストーンヘンジの外側のサークルは、29個の石柱と、ハーフサイズの石柱1本で構成されている。29.5?月の満ち欠けの周期ではないか!ただ、神秘主義者を喜ばす「オーパーツ(場違いのハイテク)」とまではいかない。月の満ち欠けと、朝と夜の区別ができて、30まで数えることができれば良いので。

ところが、太陰暦には問題がある。1年の日数だ。太陰暦は、1ヶ月が29.53日で、1年が12ヶ月なので、 「1年=29.53日/月×12月=354日」 1年354日? 我々は、1年が365日(平年)と366日(うるう年)であることを知っている。これは、季節(春夏秋冬)の周期で、太陽年、または、回帰年とよばれる。正確には、1太陽年(1年)は365.2422日なので、4年に1度、うるう年を入れて、補正している。 ところが、太陰暦の1年は354日で、11日少ない。10年で「10年×11日=110日」、4ヶ月もズレる。これでは、暦として使い物にならない。では、なぜ、ズレるのか?

ズレてあたりまえ。

そもそも、月と太陽の運行に因果関係はない。月が動いて、その結果をうけて、太陽が動く(本当は地球が太陽の周りを回っている)とか、そういうからみは一切ない。完全に独立して運行しているのである(お互いの引力は受けるが)。 だから、月の満ち欠けの周期(月が地球の周りを回る)と、季節の周期(地球が太陽の周りを回る)は、ズレて当たり前なのである。そのカラクリを、別の視点からみてみよう。

■太陰太陽暦
季節の周期(太陽年)は365.2422日、月の満ち欠けの周期(月期)は29.53日。ここで、1太陽年を月期で割ってみよう。もし、割り切れれば、季節の周期(太陽年)と、月の満ち欠けの周期(月期)は、シンクロ(同期)する。計算すると、 1太陽年=365.2422日÷29.53日=12.3685月期 ゼンゼン割り切れない。

というわけで、季節の周期(太陽年)と月の満ち欠けの周期(月期)はシンクロしない。 そこで、期間を19年にのばすと、 19太陽年=365.2422日×19=6939.6日 これを月期(29.53日)で割ると、 6939.6日÷29.53日=235.0017月期 ・・・ ① 今度はほぼ割り切れる。 つまり、19年に1度、 「19太陽年=235月期」 となり、地球の公転と、月の満ち欠けがシンクロする。

具体的には、新月が全く同じ月日に現れる(満月でも同じ)。 この周期を、紀元前5世紀のギリシャの天文学者メトンにちなんで、「メトン周期」とよんでいる。ただし、この周期を最初に発見したはメトンではないらしい。紀元前1500年頃の中国の殷、紀元前2500年頃のイギリスのストーンヘンジですでに使用されていたからだ。

ここで、「メトン周期」の月数を計算してみよう。現在使われているグレゴリオ暦では、1太陽年(回帰年)は12ヶ月なので、 メトン周期=12月/年×19年=228ヶ月 一方、太陰暦は、①から235ヶ月。なので、その差は、 235ヶ月-228ヶ月=7ヶ月 つまり、19年の期間でみると、太陰暦の月数は、グレゴリオ暦より7ヶ月多い。

そこで、19年の間に7回だけ、太陰暦の1年を13ヶ月(普通は12ヶ月)にすれば、月数は一致する。この1ヶ月を「うるう月」と呼んでいる。また、うるう月の命名は、前月の月名の前に「うるう」をつける。たとえば、4月の次に挿入されるうるう月は「うるう4月」。 この暦法を「太陰太陽暦」とよんでいる。太陰、太陽、どっちや?とツッコミが入りそうだが、一応、「広義の太陰暦」ということになっている。ということで、現在のグレゴリオ暦は「うるう年」で、太陰太陽暦は「うるう月」で、割り切れない端数を補正しているわけだ。

■メソポタミア文明の暦
つぎに、暦の歴史をみていこう。まずは、最古の都市文明メソポタミアから。紀元前3500年頃、メソポタミア南部でシュメール文明が興った。この文明も、最初は太陰暦が使われた。その後、紀元前3000年までに、1ヶ月が30日、1年が12ヶ月と定められた。

この暦法だと、 1年=30日/月×12月=360日 グレゴリオ暦より5日少ない。一応、季節の周期を狙っているが、シュメールの季節は「春・夏・秋・冬」ではなく、「雨季・乾季」の2つしかなかった。 メソポタミア南部でシュメールが滅んで、バビロン第1王朝が興ると、再び太陰暦にもどった。前述したように、1年に11日不足する分は、うるう月で補正された。ただし、うるう月が挿入されるのは8年に3回だった(前述の太陰太陽暦は19年に7回)。その後、紀元前500年頃までには、うるう月が19年に7回の太陰太陽暦に改訂された。

■太陽暦
エジプトといえば太陽暦だが、最初に使われたのは大陰暦だった。古代ギリシャのヘロドトスによれば、 「エジプトはナイルの賜物」 この言葉どおり、古代エジプトの繁栄は「ナイル川の洪水」によっていた。毎年、同じ時期にナイル川が氾濫し、養分が大地に沈殿し、肥沃な土壌をつくる。ところが、この天の恵みを利用するには、洪水が起こる時期を正確に予測しなければならない。もちろん、素の太陰暦では誤差が大きく、季節は測れない。では、太陰暦の改良バージョン「太陰太陽暦」?

ノー、一気に「太陽暦」に進化したのである。 太陽暦は、地球が太陽の周りを回る周期(太陽年)にもとづく暦法で、現在のグレゴリオ暦の始祖にあたる。では、なぜ、エジプトは他の文明に先がけて、太陽暦を発明できたのか?神官と恒星シリウスのおかげ ・・・ 古代エジプトには、読み書きソロバンに長けた知的エリート「神官」がいた。彼らは、夜空にひときわ明るく輝くシリウスが、日の出直前に初めて見えた日から数日後に、ナイル川の洪水が始まることに気づいた。1年周期(季節の周期)の”端”を見つけたのである。端さえ見つければ、「1年365日」はカンタンにわかる。端と端の間の、日の出、または日没の数を数えればいいのだから。

エジプトの神官たちは、紀元前2500年頃までに、新しい暦「太陽暦」を制定した。1ヶ月を30日、1年を12ヶ月とし、最後に暦日とは関係のない5日(挿入日)を加えた。つまり、 1年=30日/月×12ヶ月+5日=365日 この暦は、エジプトでは神聖なものとして扱われ、民のみならず、歴代の王もこれに従った。 ところが、「1太陽年=365.2422日」なので、1年に「0.2422日」の誤差が生じる。そこで、4年に1度をうるう年とし、「うるう日」を1日追加し、366日とした。神官は、この精度の高い暦を年中行事の管理に使った。ところが、民間では、紀元前239年まで、うるう年のない365日暦が使われたという。暦の改訂は神への冒涜とされたからである。

■ユリウス暦とグレゴリオ暦
エジプトの太陽暦を改良したのがユリウス暦である。紀元前46年、ローマ皇帝ユリウス・カエサルによって制定された。 ユリウス暦は、1年を12ヶ月として、 ・1月、3月、5月、7月、8月、10月、12月は「31日」。

・4月、6月、9月、11月は「30日」。

・2月は平年が「28日」、4年に1度のうるう年は「29日」。

ところが、それでも、1年に11秒遅れるので、16世紀には、積もり積もって、誤差は10日になった。そこで、1582年10月4日にユリウス暦を終了し、翌日を10月15日として、グレゴリオ暦が始まった。 グレゴリオ暦は、基本、ユリウス暦と同じだが、うるう年の決め方が違う。精度を高めるためである。 ユリウス暦では、平年は1年365日、4年に一度、うるう年(1年366日)が入る。

つまり、 ユリウス暦の1年=365+1/4=365.25日 ・・・②

ところが、1太陽年(実際の1年)は、365.2422日なので、 ユリウス暦の誤差=365..25-365.2422=0.0078日 128年に1日の誤差が生まれる(1÷0.0078=128.2)。これは、無視できない。 一方、グレゴリオ暦では、400年に97回がうるう年。つまり、 グレゴリオ暦の1年=365+97/400=365.2425(日) ・・・③

すると、 グレゴリオ暦の誤差=365.2425-365.2422=0.0003 約3000年に1日の誤差。これなら実用上問題はないだろう。それまで、人類が生存しているかどうかは別として。 ここで、ユリウス暦とグレゴリオ暦のうるう年の違いを明確にしよう。②と③で青色で示した部分が、うるう年の部分である。

ユリウス暦のうるう年は、「1/4」なので、4年に一度がうるう年。 一方、グレゴリオ暦は「97/400」なので、400年に97回うるう年となる。つまり、4年に一度がうる年だが、3回だけ例外的に平年になる。その3回とは?

・100年に一度(100で割り切れる)が平年(これで平年が4回)。

・ただし、400年に一度(400で割り切れる)はうるう年(これで平年は1回減って3回)

つまり、400年に97回がうるう年になる。 最後に、グレゴリオ暦のうるう年の決め方を整理しよう。

1.4で割り切れる年は、うるう年。

2.ただし、100で割り切れるなら、平年。

3.ただし、400で割り切れるなら、うるう年。

4.それ以外は平年。

■マヤ暦
さて、いよいよ「マヤの暦」。冒頭の不吉な予言「2012年12月21日人類滅亡」は、マヤの暦によっている。暦で予言?暦に何がわかるのだ?たかが、月の満ち欠け、太陽の運行ではないか?

ところが ・・・ マヤの暦は、他の暦とは一線を画す。一言で言うと、複雑なのだ。たとえば、太陽・月にくわえ、「惑星」の運行までからんでいる。惑星も月も、楕円軌道を描くので、宇宙視点でみれば動きは相似、同じに見える。ところが、地球からの視点で見ると、惑星は複雑な動きをする。なぜか? 地球は太陽を中心に回っている。そのため、地球から見ると、太陽が地球を回っているようにみえる。

一方、月は地球を中心に回っているので、そのまま、地球を回っているようにみえる。 一方 ・・・ 太陽系の惑星(地球も含む)は、太陽を中心に回り、一周する周期も異なる。このように回転している惑星同士が相手を見れば、動きが複雑にみえるのは当然だ。ではなぜ、マヤ人はこんなメンドーな惑星運行を暦にからませたのか?残念ながら、納得できる答えはでていない。 マヤ暦の特異性はまだある。グレゴリオ暦は、宇宙の誕生から最期の日まで、年・月・日の3つのパラメータで特定できるが、マヤ暦はそれができない。

マヤ文明には、「歴史は繰り返す」という概念があり、異なる周期をもつ複数の暦が存在する。しかも、これらの暦は互いにシンクロ(同期)しない。また、うるう年がないので、季節の周期とも一致しない。 つまり、マヤ暦は、複数の暦がバラバラに進行し、季節とのつながりもない。一体、何のための暦なのだ?おそらく、宗教、儀式、運命のため ・・・ であれば、「暦の周期の終わり=人類滅亡」 もありうる?

たしかに、マヤの歴史や神話には、「世界滅亡」への畏れと執着が強く感じられる。神秘主義者が、マヤ暦を賞賛してやまない理由がここにある。 ところが、フルスペックのマヤ暦は、文明のピークを過ぎた後古典期(900~1521年)以降、使われなくなる。マヤ文明を継承したトルテカ文明やアステカ文明では、マヤ暦の一部しか使われていないのだ。複雑すぎて扱えなくなったのか、宗教・儀式・運命を測る必要がなくなったのか?

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シュメール人は鬼界カルデラ噴火 アカホヤ噴火とか阿多カルデラ噴火により避難移動した縄文人からのものなのだろうか。


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