引用します---日本列島ではヤンガー・ドリアス気候寒冷化は、それほど深刻な打撃を縄文人の生活に与えなかった。太平洋沿岸のヤンガー・ドリアスの証拠は、大西洋沿岸ほど顕著にはみられない。このため縄文人の生活も危機に直面することなく、狩猟・漁労・採集生活を基本においた縄文文化が、その後も長らく続くことになった。---引用終わり
この期間が幸いして、寒冷化の影響を受けた縄文時代早期は、地理的利点から太陽暦開発の期間となった、太陽暦と太陰暦開発の記録は供献土器に突起として記録し残された。そのお陰で縄文時代早期後半には、大集団の定住が可能となり、それは縄文時代前期に引き継がれて阿久遺跡などが営まれている。ここでは縄文時代の精神生活の高度化と考える、蓼科山に向かっての祭祀が行われたと思われる配石の列が見付かっていた。縄文時代前期には縄文社会は既に、このようなレベルに達していた。
しかしこの遺跡に巨大なストーンサークルなどが残されているものの、太陽暦を示すような遺物は無いとされている。それは太陽暦の存在が既に1000年近くの期間利用されてきていたとすれば、そんなものを表現する必要はストーンサークルには無い。これまで見付かっているストーンサークルで、暦を示すようなものは調査書を見る限り見た覚えは無い。東北地方へ広がっていたストーンサークルでも同様である。
多品種の雑穀栽培での農耕開始から、難しい雑穀の栽培暦を太陽暦開発をすることにより改良していった。そして土器に本来用途とは相反するような、邪魔な突起を付けていたのは何故か。
世界最早の太陽暦と太陰暦の成立の記念すべき記録では無いのか。
日本列島では、縄文時代以前から黒曜石など物の移動から、広域の交流が行われており、太陽暦と太陰暦の利用地域の違いが、見える程度の距離にある。
エジプトとシュメール文明では距離が離れすぎて、交流範囲では無いのでは
こうした地理的条件は、後の金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設の建設に繋がっていったと考える。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
●今から約1万3000年前、最終氷期(ウルム氷期)が終わりました。しかし、そこから現在の間氷期へ移っていく 「温暖化」 の途中で、再び「寒の戻り」とも呼ばれる寒冷期が訪れます。
これは 「ヤンガードリアス」 (参考図)と名付けられ、紀元前9500年頃まで続きました。
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西アジアの自然環境の特徴は、その多様性にある。海もあれば、山岳、湿地、草原、大河、そして砂漠まで変異に富んでいる。
日本列島も資源が多様といわれるが、決定的に違うのは分布のありかただ。狭い地域にいながら水陸ともさまざまな資源が得られるのが日本列島であるならば、一歩、地域を違えれば資源の性質ががらっと変わるのが西アジアである。環境のモザイクが粗いのである。狭い地域にあっては資源が単調でさえある。しかも、植物相も動物相も日本列島ほど豊かではなく、雨量との微妙なバランスの中で保たれている。時間的にも、微妙な気候変動で資源の質が一変する余地が常にあるのである。そんな状況にあったからこそ、乾燥期には湿潤地帯の資源をめぐる競合対策が必要になったし、潅漑農耕以外生存のすべがない南メソポタミアでは飢饉対策が必要になったのであろう。
ずいぶん異なった環境にあって生計の基本も違っていたのに、西アジアとほぼ同じ頃、社会を変えていった縄文人の適応のメカニズムはどう説明されるのか、他の地域の研究者も興味をよせている。
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縄文文明の世界史位置
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縄文人のルーツは森の狩人だった
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縄文文明はいかにして生まれたか
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日本列島に世界にさきがけて温帯の落葉広葉樹の森が形成され、その中で誕生した最古の土器文化をやはり縄文文化とよぶのが適当であると考える。したがって、現在では私は第1説、すなわち最古の土器が出現した時代をもって縄文時代の開始とみなす説が妥当であると考えている。
縄文文化はいかにしてうまれたか
それではC14年代、1万3000~1万2000年前、縄文文化はどのようにして生まれたのであろうか。1万3000~1万2000年前は地球の環境が激動期に入った時代であった。地球の気候が氷期の気候システムから後氷期の環境システムへと大きく移行を開始した。ナイル川の上流のビクトリア湖では気候の温暖化とともに降水量が増加し、水位はぐんぐんと上昇した。そして、ついに1万2000年前、ビクトリア湖の水はナイル川に一気にあふれ出したのである。このためナイル川の水位は20メートル以上も上昇し、ナイル川は大洪水にみまわれた。
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こうした湖水位の上昇や大洪水の証拠は、西アジアからインドそしてチベット高にまで連続してみとめられる。1万2000年前から8000年前は多雨期であった。日本列島においても地すべりや大洪水が多発している。ハンコックはエジプトのスフィンクスが雨滴による侵蝕を受けており、その雨による浸食を受けるためには、スフィンクスが1万2000年以前に作られ、この多雨期に雨による侵蝕を受けたと考えられている。
氷河時代の地球は全体として乾燥気候が支配的であったが、1万3000~1万2000年前頃より、地球の気候が温暖化するとともに、降水量と積雪量も増加した。
日本にも大洪水時代があった
1万2000年前頃、ナイル川の大洪水があったことを述べた。このような大洪水は日本にもあった。
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その縄文時代草創期の隆起線文土器、つづく爪形文・押圧文系土器、多縄文土器、さらには縄文時代早期の押型文土器、条痕文系土器の遺物包含層は、いずれも砂礫層なのである。C14年代で1万2000年前から8000年前までの遺物包含層の大半は砂礫層だった。
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ブナの森の拡大
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最後の氷河時代後半の最寒冷期に相当する2万1000~1万8000年前、海面は100メートル以上現在より低く、このため日本海は閉塞状態に近くなり、対馬暖流は流入できなかった。
冬季、日本海側に多雪(たせつ)をもたらすのは対馬暖流が深くかかわっている。対馬暖流の流入で、日本海の表面水温は冬季でも5~10度に冷えきっている。これに対しシベリア高気圧はマイナス20~30度に冷えきっている。この温度格差が、さらに蒸発をもたらし、雪雲となって日本海側に豪雪をもたらすのである。対馬暖流が日本海に流入できなかった個の時代、冬の雪は少なく、大陸的な寒冷で乾燥した気候が支配的であった。
こうした大陸的風土がゆるみはじめ、日本列島が大陸とは異なった海洋的風土に変わりはじめたのが、およそ1万2000年前なのである。それはブナの花粉の増加で知ることができるのだ。
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……1万2000年前から8000年前までは、ナイル川流域や地中海沿岸と同じく、日本列島の環境も不安定で、洪水がたびたび発生する大洪水期だったのである。
森の拡大と人類の適応戦略
この降水量の増加は、森の育成にとってかっこうの条件となった。西アジアでは、旧石器時代の人々の主要な食料となったウマ、バイソンなどの大型哺乳動物の生息する草原はしだいに縮小し、かわってナラやマツの森が拡大してきた。さらに冬の雪の増加は、大型哺乳動物には致命的だった。雪におおわれた草原では冬の食料をさがすことができなくなったからである。さらに夏の気温の上昇は永久凍土を融かし、ぬかるみに足を取られたマンモスがいくつも化石となって、現在のシベリアから発見されている。
こうした気候の温暖・湿潤化の中で、大型哺乳動物がつぎつぎと姿を消し、加えて人類の乱獲もたたって旧石器時代の人々は食料不足におちいつた。彼らが取った生き残り戦略は二つある。
その一つは新たに出現した森の中に逃げこみ、森の中の資源を利用して定住生活を開始して生き残る戦略である。
他の一つは新たな大型哺乳動物や食料を求めて大移動するという戦略である。
第一の森の中に逃避した人々は、森の中の植物資源と定住生活をおぼえた。森の中の堅果類(けんかるい)や球根など食料となるものがたくさんある。森の中の湖や小川には魚もいる。そして森の中には小動物もいる。こうして、森の中に逃げ込んだ人々は、新たに植物質食料を利用する技術をマスターする。西アジアではこうした人々が、つづいて引き起こされるヤンガー・ドリアスの寒冷期に、再び草原に出て農耕を開始するのである。
一方、食料を求めて大移動を開始した人々は、シベリアのバイカル湖周辺から東方へ移動し、アラスカのベーリング陸橋を通って新大陸アメリカに到達した。当時、カナダを広くおおっていたローレンタンド氷床の南側は、まだゾウやバイソン、ウマそれにオオナマケモノなどの大型哺乳動物の楽園だった。1万2000年前頃、ローレンタンド氷床とロッキー山脈の間にできた細長い氷の割れ目を南下した人々は、8000年前までにこれらの大型哺乳動物の大半を狩り尽くしてしまうのである。
このバイカル湖周辺から東方へ大移動を開始した一派が日本列島に到達した。その到達の時代はアメリカ大陸のローレンタンド氷床の南に到達するよりも2000年近く早かったとみなされる。彼らは荒屋型陶器と呼ばれる特徴的な細石刃を持っていた。……。
……南から土器文化の北上を可能にした琉球陸橋の存在が大きな役割を果たしていた可能性が今後検討される必要があるだろう。琉球列島から縄文時代草創期の土器が発見されることが期待されるのである。
農耕へとつきすすまなかった理由
西アジアでは森の中に逃避した人々は、アーモンドやピスタチアの実を採り、野生のヒツジやウサギを狩猟して、人口も増大し、平和な時がしばらくつづいた。ところがC14年代1万2000年前頃、突然、ヤンガー・ドリアスとよばれる寒のもどりがひき起こされるのである。大西洋沿岸地域の北米やヨーロッパの年平均気温は一気に摂氏5~7度も低下し、氷河時代に逆戻りしてしまった。これは、北米をおおっていたローレンタンド氷床が融解してできた五大湖の数倍もあった巨大な氷河湖の水が、氷の融解によって東側の堤が切れ、いっきに大洪水となって現在のセントローレンス川を下り、大西洋に流出したために引き起こされた。淡水の被膜が大西洋の北部をおおって、大西洋から太平洋にかけてつながっている深層水の循環がストップしたため、気候が氷期に逆戻りしたのである。この寒の戻りによって、西アジアの森は再び枯渇し、森の資源によって生活していた人々は、食料危機に直面した。森の恵みと温暖な気候そして定住生活によって人口も増加していたから、食料不足の影響は深刻だった。人々はやむなくてあたりしだいに集落の周辺に生育しているものを食べ始める。そして、その中から野生のムギ類の栽培化をおぼえるのである。これがその後の人類の文明の展開に決定的な出発になるのである。農耕を知ることによって、人類は文明を発展させ、今日の繁栄を手にすることができたのである。だが同時にそれはまた大規模な自然破壊開始の第一歩でもあった。現在の地球環境問題へつき進む出発点は、人類の農耕を開始した時にはじまる。
ところが、日本列島ではヤンガー・ドリアス気候寒冷化は、それほど深刻な打撃を縄文人の生活に与えなかった。太平洋沿岸のヤンガー・ドリアスの証拠は、大西洋沿岸ほど顕著にはみられない。このため縄文人の生活も危機に直面することなく、狩猟・漁労・採集生活を基本においた縄文文化が、その後も長らく続くことになった。
日本列島の豊かな森の恵みに支えられて、縄文人たちは、農耕社会へと突入する必要がなかったのである。
しかしそれだけではなく、縄文人は農耕社会に突入することを意識的にさけていたようなきらいさえある。富を貯蔵し、貧富の差を生み出し、その富を背景として権力者が、貧しい人々を搾取するそのような社会に突入することをさけていたように思えるのである。
……
稲作はなぜ普及しなかったか
長江中・下流域では河姆渡遺跡よりさらに古い稲作の証拠が発見されている。厳文明(げんぶんめい)氏(『世界最古の土器と稲作の起源』『季刊考古学』56、1996年)によれば、江西省万年県仙人洞遺跡では、稲作がすでに1万1000年前から行われてリ、何介鉤(かかいぎ)氏によれば湖南省八十●(土当:はちじゅうだん)遺跡や蝦蟆洞(がまどう)遺跡でも、やはり1万年以上前にさかのぼる稲籾が発見された(安田喜憲『稲作の環境考古学』『季刊考古学』56、1996年)。このように稲作も麦作と同じように1万年以上前から始まっていた可能性がきわめて高くなってきた。そして、おそらくこの稲作農業を背景として、米を食べる容器として土器が誕生してきた可能性が高かった。
そして、5000年前には都市文明さえ誕生していた可能性が高い。この中国の長江中・下流域と九州は直線距離にして、わずか800キロメートル離れているだけである。かつ鳥浜貝塚の出土遺物にみられるように、ヒョウタン・エゴマ・漆(うるし)など長江流域との交流を物語るものが出土している。
にもかかわず稲作は縄文時代の終末期の3000年前にならないと伝播しないのである。長江中・下流域の稲作農耕社会の発展の程度、さらには長江文明の発展の段階を考えてみると、もっとも古い時代に稲作が日本列島に伝播していてもよさそうに思える。
最近、岡山県総社市南溝手遺跡のプラント・オパールの分析の結果、縄文時代中期まで稲作がさかのぼれる可能性が指摘されている(吉崎昌一『日本における栽培植物の出現』『季刊考古学』50、1995年)。中国大陸での文明の発展の状況を考えると、5000年前の縄文時代中期に稲作をたずさえた人々が、日本列島に到来していた可能性はきわめて高いと思う。
しかし、なぜか日本列島では縄文時代終末期にならないと稲作は定着・普及しないのである。それはなぜか。
その第一の理由として考えられるのは、ドングリやクリあるいは豊かな海の幸さらにはイノシシやシカなどに依存する社会が、稲作を必要としないほどに豊かだったということがあげられる。
第二に稲をもたらした人々が、当初の段階ではきわめて少数であり、渡来人がコロニーを作って稲作を行うほどの力がなかったことが考えられる。稲作を行うにはまとまった人口が必要であり、稲作にたけたある一定以上の渡来がないかぎり、複雑な技術体系をもつ稲作を普及するのは困難であった。
第三に女性中心の平等主義に立脚した縄文社会においては、男性指導型の稲作を実施に移すのが社会的に困難であった・・・等々である。
縄文時代晩期の気候寒冷化による環境の悪化の中で、縄文人ははじめて食料危機に直面し、大量死に直面した。そんな時、大陸から気候悪化による春秋・戦国時代の社会動乱から逃れたポート・ピープルが、稲作をたずさえて大量に渡来した。おそらく彼らは当初においても、在来の縄文人と関係なくても、稲作を実施できるだけの人口を有していたとみなされる。男性のみでなく女性がともに渡来したことも指摘されており、独自のコロニーを作り、そこでまず稲作を開始した。
稲をたずさえた人々は、すくなくとも縄文時代前期以来、ポツポツと日本列島にやって来ていたと思われる。しかし、稲作の普及には高い技術の習得と人口が必要だった。当時の縄文人もまた豊かな食料資源にめぐまれ、どうしても稲作を開始せねばならない必然性がなかった。縄文文化が気候悪化の中で食料危機に直面し、大陸から稲作をたずさえた人々の大量移住があった時、はじめて稲作は日本列島で定着し急速に普及することができたのであろう。
その背景には茂在寅男氏や山田慶児氏(『技術と技術者が海を渡る』埴原和郎『日本人誕生』集英社、1986年)が指摘するように、航海技術の発達があった。
すでに紀元前6世紀、長江中・下流域には強力な水軍が出現している。華北の人々は水軍の技術においては、江南におくれをとっている。水軍と海上貿易の中心は江南の長江中・下流域の人々であった。したがって、船に乗り大挙して日本をめざした人々は、こうした江南の長江中・下流域の人々であった可能性が高い。山田氏が指摘しているように、戦国時代の末期には船楼と櫂(かい)と舵をそなえた大型構造船が出現し、後漢の光武帝の楼船艦隊は紀元42年にベトナムまで遠征しているのであるから、弥生時代の日本列島に大挙してやってくることは、航海技術の上からみても、十分に可能であった。
こうした航海技術の発展を背景として、稲作をたずさえた人々が日本列島に大量に渡来するまで、日本では本格的な稲作ははじまらなかったとみなすのが現時点では妥当であろう。
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ヤンガードリアスと農耕の開始
ヤンガードリアスはしばしば西アジアでの農耕の開始と関連付けられる(Bar-Yosef,O.and A.Belfer-Cohen,2002)。寒冷化と乾燥化がその地域の環境収容力の低下をもたらして前期ナトゥーフ時代の住民の生活様式を変化させ、更なる気候の悪化によって食料を生産する必要性が生じたという説がある。一方、この寒冷化が終わったことが農業の開始と関係するという説(Munro,N.D.,2003)[13]もあり、この問題については議論が続いている。シリアのテル・アブ・フレイラ遺跡(11050BP, 紀元前9050年頃)では最古級の農耕の跡(ライムギ)が発見されている。
12000年前で針葉樹から落葉広葉樹への急変…
日本列島におけるヤンガードリアスの寒冷化はほとんど影響がなかった可能性…
縄文時代の気候変動の基本的史観(3)http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=257047
…グリーンランド氷床コアの解析によると温暖期と寒冷期の繰り返しは次のようにまとめられる。すなわちそれぞれのサイクルパターンは突然かつ急激な気温上昇(数十年以内)に始まり、徐々に寒冷化してゆく温暖期(数百年から4000年)へと続く。そしてやや急激な気温低下(数百年)を経た上で再び寒冷期(数百年~2000年)を迎えることになる。
このように連続的かつ暫時的な寒冷化、あるいは温暖化とは異なる過程があきらかになってきたのである。上記のサイクルは更新世と完新世の端境期でも大きく変わることはない。長らく続いた寒冷期の後に、完新世に匹敵するほどの温暖期(ベーリング期)へと急変する。そして若干の寒冷期(オールド、ドライアス期)を介して、再び温暖期(アデレード期)を迎えることとなる。さらに以前にも劣らぬ寒冷期(ヤンガードリアス期)を経た上で急激な温暖化によって完新世へと至るわけである。
注目すべきは上述した気候変動と歩みを合わせるように、植生レベルの変化が認められる点である。
辻誠一郎(1997年)によれば晩氷期から後氷期にかけて、モミ類、ツガ類、トウヒ類、マツ類といった針葉樹が優占する植生から、コナラ亜族を主とした落葉広葉樹林が優占する植生へ変化してゆく過程である。それによれば関東地域から西日本地域では、13000年前から12000年前に最初の変化が引き起こされたようである。
他にも数人の学者の研究から12000年前で針葉樹から落葉広葉樹への急変、10500年前にクリの出現などが報告されている。またこの同時期に隆起線文土器の出土が認められている。
昨今の研究では寒の戻りであるヤンガードリアス期(13000年前~12000年前)が注目されている。しかし縄文文化の始まりを評価するうえでこの時期の植生の寒冷化への変化は必ずしも明確に確認されていない。(※むしろ植生は温暖化に対応する形で変化している。この点において日本列島におけるヤンガードリアスの寒冷化はほとんど影響がなかった可能性もある)
また動物相においても同様である。晩氷期を迎える中でウマ、ヘラジカ、バイソン、オーロックスといった北方系あるいは草原環境に適した動物が姿を消し、ナウマンゾウ、ニホンジカ、ヒグマも絶滅していった。逆にツキノワグマ、イノシシ、カモシカといった動物が生息域を広げ始める。これらの変化は針葉樹の後退が挙げられており、植生変化と関連しながら動物相も変化していったのである。
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シュメール文明の最初期段階である紀元前12500年から紀元前9500年に存在していたナトゥーフ文化の時代なら同じくらいの文明度でしょう。ただし、ナトゥーフ文化の時代には世界最古の都市、世界最古の農耕、世界最古のイヌの家畜化が行われており、人類史における重要性ではかけ離れているといえるでしょう。
また縄文土器を縄文時代の先進性の表れと誤解している人によく見かけますが、世界最古のセラミック(陶器)は縄文土器ではなくチェコで発掘されたドルニ・ヴェストニッツェのヴィーナスと言われる紀元前29000-25000年のものとされる裸婦の人形(土偶)です。つまり、縄文土器以前から世界の人類はセラミックの技術を持っていたということです。
考古学の世界では、土器の発明は主に「定住生活」に密接していると考えられています。ようするに、以前から土器の作り方は人類は知ってたけれど移動採取の生活には割れ物は邪魔だったから、あえて作らなかったが定住生活に入ると土器を利用していたと考えられているわけです。ドルニ・ヴェストニッツェのヴィーナスが紀元前29000-25000年ということを考えると、そお遠くない未来に縄文土器より古い土器が世界のどこかで発掘されても驚きません。
なお、「煮炊き」という行為は土器がなくてもできる。焚火の傍に皮や木製の器に水を張ればお湯は沸くし、または熱した石を放り込めば直ぐに水は沸騰します。熱した石が水に投入された結果で割れたと思われる割れ石は後期旧石器時代の遺跡で多く見られることから、現代、最古と思われる土器より前から人類は煮炊きを行っていたと思われます。
つまり、土器の生産は人類史にとってさして重要なものではありません。ただの定住生活への移行で発生した結果です。