唐古鍵遺跡の立地について次のように言われている。
引用ーーー 「唐古・鍵遺跡の主要な遺構からみた弓月岳の峰は、背後にそびえる巻向山と重なって、その前景に映る」ので、弓月岳は「背後の巻向山と一体視されるものだった」
「巻向山山頂を日の出暦の視点から押さえると」「立冬および立春の指標」であり、「巻向山は、冬の到来と終わりを告げる指標として唐古弥生人たちに周知され」ていた。
「彼らにとって三輪山は「日の出の南限」であり、冬至の指標であった」ので、「巻向山と三輪山の間から太陽が昇りつづける約3か月間は、冬至を中心に据えた冬の季節を画するものだった」
「巻向山に託された象徴性とは、こうした冬の起点と終点に関連するものだった」
「山麓の纏向遺跡一帯からみた巻向山山頂は、弓月岳の背後に移行しほとんど目立たなくなる」ので、「纏向遺跡側から見た弓月岳は、唐古・鍵遺跡で醸成された巻向山の意味や象徴性を引き継ぐ、代理表象とでもいうべき性格の峰であった。」 ーーー終わり
この弥生遺跡でも纏向遺跡と同様に日の出の位置は立春に合わせているようだ。
この景観も金生遺跡の茅が岳からの日の出をそのままに幻視できるもののようだ。
茅が岳からの日の出 金生遺跡
引用ーーーーーー
北條芳隆「ものが語る歴史36 古墳の方位と太陽(同成社)」を読んで(17)
2017-10-01 19:47:28
北條芳隆の「ものが語る歴史36 古墳の方位と太陽(同成社)」(以下「北條論文①」という)がいう、「大和東南部古墳群」について、引き続き検討する。
北条論文①は続いて以下のようにいう。
(D)弓月岳と巻向山
「唐古・鍵遺跡の主要な遺構からみた弓月岳の峰は、背後にそびえる巻向山と重なって、その前景に映る」ので、弓月岳は「背後の巻向山と一体視されるものだった」
「巻向山山頂を日の出暦の視点から押さえると」「立冬および立春の指標」であり、「巻向山は、冬の到来と終わりを告げる指標として唐古弥生人たちに周知され」ていた。
「彼らにとって三輪山は「日の出の南限」であり、冬至の指標であった」ので、「巻向山と三輪山の間から太陽が昇りつづける約3か月間は、冬至を中心に据えた冬の季節を画するものだった」
「巻向山に託された象徴性とは、こうした冬の起点と終点に関連するものだった」
「山麓の纏向遺跡一帯からみた巻向山山頂は、弓月岳の背後に移行しほとんど目立たなくなる」ので、「纏向遺跡側から見た弓月岳は、唐古・鍵遺跡で醸成された巻向山の意味や象徴性を引き継ぐ、代理表彰とでもいうべき性格の峰であ」った。
北條論文①のこの主張については、特に異論はない。
唐古・鍵遺跡と纏向遺跡はその位置が異なるので、そこから見える風景も少し異なるのは当然のことである。
そして、その結果、集落から見て太陽が昇る山の峰が巻向山から弓月岳に移行し、それと同時に祭祀対象の山の峰も移動するというのも、理解できる。
北条論文①は続いて以下のようにいう。
纏向遺跡での祭祀は「唐古・鍵遺跡でとりおこなわれた年間のさまざまな行事のなかから、主に冬季に行われる歳事をひきつぐ場として成立した」
北條論文①のこの主張については、異論がある。
北条論文①のこの主張には、根拠が示されておらず、この主張を論証するならば、「唐古・鍵遺跡でとりおこなわれた年間のさまざまな行事」とは何で、纏向遺跡「でとりおこなわれた年間のさまざまな行事」とは何か、という比較が必要となる。
例えば、纏向遺跡の大型建物群で冬至の祭祀が行なわれていたとしても、それ以外の祭祀も行われていたのなら、そこは、「主に冬季に行われる歳事をひきつぐ場として成立した」れていたとは言えない。
また、唐古・鍵遺跡でとりおこなわれた行事のうち、冬至の祭祀が最も重要であったのなら、その祭祀が纏向遺跡に引き継がれること当然のことである。
さらに、唐古・鍵遺跡で行われていた祭祀が、纏向遺跡ではその一部のみの祭祀になったというのなら、その理由を述べるべきである。
古代においては冬至と夏至はセットであり、それらは太陽の死と復活の祭祀であった。
そして、そうした当時と夏至に係る太陽の死と復活の祭祀は、水稲耕作を行う集落では、集落規模の違いや母集落への集中などがあっても、基本的にはどこでも行われていた。
そうであれば、唐古・鍵遺跡では、その冬至の祭祀こそが最も重要な祭祀であったと考えられる。
そして、纏向遺跡でも、同様な冬至の祭祀を行っていたと考えられる。
唐古・鍵遺跡と纏向遺跡で違うのは立春や立冬の祭祀である。
弥生時代の倭人は、「正歳四節」を知らず、とされていて、その正月は立春正月ではなく冬至正月であったので、立春や立冬、春分や秋分の祭祀などは行ってはいなかった、と考えられる。
そこに、古墳時代になってから、「正歳四節」と立春正月が持ち込まれてきたのである。
だから、纏向遺跡では冬至の祭祀と立春の祭祀が行われていた、と考えられる。
しかし、弥生時代からの冬至正月の伝統はそれ以降も根強く残存し、纏向石塚古墳も、冬至正月と立春正月の両方に祭祀に対応している。
北条論文①は続いて以下のようにいう。
(E)弓月岳と三輪山
「東側に連なる山並みのなかで、最も先が尖り火山にもなぞらえられる」弓月岳「409mピークに他界の頂点を据え、そこを遥拝する位置に」纏向遺跡の「大型建物は建てられた」
「この位置からだと弓月岳頂上からの日の出は4月初旬と8月末となり、二支二分とは切り離された関係とな」り、これは「唐古・鍵遺跡の古相建物と龍王山山頂との関係と似た様相である」ので、「纏向遺跡の大型建物Dからみた弓月岳は、巻向山からの読み替えであると同時に龍王山山頂からの読み替えでもあった」
「三輪山の山頂は、この場所からだと立冬と立春の日の出方位とな」り、「ここからの三輪山は、唐古・鍵遺跡からみた巻向山の代理表象」であった。
「このような二重の読み替えを前提に、纏向遺跡の大型建物Dは建てられた」
風水思想でいえば「弓月岳は初期倭王権にとっての「主山」であり、龍王山山頂が白虎側の龍脈、三輪山山頂が青龍側の龍脈に位置付けられ、大型建物はその「明堂」だった」
「この大型建物群と矢塚・石塚を中心軸線に配する纏向遺跡もまた、唐古・鍵遺跡からの伝統を一部踏襲する祭礼空間として設計しなおされた」もので、 「箸墓古墳が弓月岳を向く理由もその延長線上にあ」り、「祭儀施設からみた青龍側の龍脈を整序する意図が込められていた」
北條論文①のここでの論述は、回りくどく分かりづらい。
纏向遺跡の大型建物は弓月岳409mピークを示準するが、その示準先の弓月岳409mピークを「他界」として「遥拝」したと言えるのだろうか?
北条論文①は、唐古・鍵遺跡からみた龍王山520mピークは、「春分と秋分の日の出の位置」であったというが、弥生時代には二支二分の考え方は普及してはいなかったので、唐古・鍵遺跡の人たちにとっては、龍王山520mピークは竜王山山帯の最高峰として考えられていた。
北条論文①は、唐古・鍵遺跡からみた巻向山は、立冬および立春の指標であった、というが、弥生時代には二支二分の考え方は普及してはいなかったので、唐古・鍵遺跡の人たちにとっては、巻向山は竜王山山帯の峰の一つとして考えられていた。
纏向遺跡からは巻向山は弓月岳の後ろに隠れてしまうので、纏向遺跡からみた弓月岳は巻向山の読み替えであった。
そして、纏向遺跡の大型建物からみた弓月岳は、近隣の山並みの最高峰として、「唐古・鍵遺跡の古相建物と龍王山山頂との関係と似た様相である」ので、「纏向遺跡の大型建物Dからみた弓月岳は」、龍王山520mピークからの読み替え」でもあった。
また、唐古・鍵遺跡からみた巻向山は立冬と立春の日の出方位であり、纏向遺跡の大型建物からみた三輪山も、同様に立冬と立春の日の出方位であるので、巻向山と三輪山の読み替えは、二支二分と立春正月の考え方の普及後に行われたと考えられる。
北條論文①は、「大型建物群と矢塚・石塚を中心軸線に配する纏向遺跡」というが、先述のとおり、矢塚古墳は大型建物群と石塚古墳の「中心軸線」からは外れ、石塚古墳は、大型建物群が廃絶した後に築造されたので、「中心軸線」に該当するのは大型建物群だけになる。
北條論文①の風水思想についての主張は、風水思想にもとづいて纏向遺跡の大型建物群などが「祭祀空間として設計しなおされた」というが、そう解釈する根拠が説明されてはいない。
その主張の前提として、纏向遺跡の時代、つまり庄内式期に風水思想が普及していたということを、論証すべきであり、大型建物群が風水思想によって設計されたことの意味と、その風水思想がその後の祭祀などにどのように継承されていったのか、についても、説明すべきである。
それは、「箸墓古墳が弓月岳を向く理由もその延長線上にある」というのなら、なおさらである。
しかし、なぜ北条論文①は、こんなに「風水思想」にこだわるのだろうか?
なお、纏向遺跡の大型建物Dからみた三輪山が、同様に立冬と立春の日の出方位である、ということは、纏向遺跡では立春正月の祭祀が行われていたことを示している。
北条論文①は続いて以下のようにいう。
(F)新たな造墓エリアの創出
「弓月岳を「主山」に据えた人為景観は、唐古・鍵遺跡で認められる日の出歴の示準先と比べるとあまりにも矮小化された姿であ」り、「龍王山山帯の山際に近寄せたことによって必然化した人為景観ではあるが、やはりスケール感に乏しい」。
「このようなスケール感の欠如を刷新し、新たな造墓エリアの再設計が目論まれたのが西殿塚古墳の築造時であり、古墳群の頂点は龍王山520mピークとの関連づけをねらうものへと再転換され」、「それが大和東南部古墳群の基本配列だったと考えられる」
これは「本来の伝統的な空間認識への回帰であり、だから唐古・鍵遺跡に立てば東の正面に西殿塚古墳が見えるのである」
この北條論文①の主張には異論がある。西殿塚古墳の被葬者の次の倭王の古墳は行燈山古墳で、その次の倭王の古墳は渋谷向山古墳であるとされている。
西殿塚古墳は龍王山520mピークに下に築造されたが、行燈山古墳や渋谷向山古墳は、箸墓古墳が弓月岳を示準しているように、巻向山を示準している。
だから、西殿塚古墳を頂点とする「古墳の序列空間」が存在したとしても、それは、西殿塚古墳の被葬者の代で終わったのである。
そして、行燈山古墳や渋谷向山古墳を築造した倭王の代には、「龍王山山帯の山際に近寄せた」「スケール感に乏しい」造墓空間が復活したことになるのである。
だから、西殿塚古墳の築造は、新たな造墓エリアの再設計を目論んだものであったと考えられるが、それは、「大和東南部古墳群の基本配列」などではなかった。
なお、「唐古・鍵遺跡に立てば東の正面に西殿塚古墳が見える」のは、偶然であり、西殿塚古墳の築造が「本来の伝統的な空間認識への回帰」であったとは考えられない。
もしもそうなら、再度いえば、その「伝統的な空間認識への回帰」は、行燈山古墳や渋谷向山古墳を築造した倭王の代には、該当しなくなったということになる。
つまり、北条論文①がいう「大和東南部古墳群の基本配列」とは、虚構である。
北条論文①は続いて以下のようにいう。
(2)古市古墳群や百舌鳥古墳群の造営場所の包括的な解釈
古市古墳群や百舌鳥古墳群の造営場所の「北端は唐古・鍵遺跡から観測された「日の出の北限」に、南端は「日の出の南限」に沿うものである」
「大仙陵古墳の後円部中心点は「日の出の中心」上に求められ」、「誉田御廟山古墳の後円部中心点は唐古弥生人たちが祖霊の住み処として特別視した」「龍王山山頂の西側延伸線上におかれた」
「古市・百舌鳥両古墳群で認められる南の中心軸線」は「新設されたもので、それは大阪平野側からみた「日の出の中心」に沿わせるものだった。
北條論文①のこうした主張には、前述のように異論がある。
詳細は繰り返さないが、古市古墳群や百舌鳥古墳群の古墳は、古代の直線道路と東西地割りによって造営範囲を決定または規制されていたので、造営場所の「北端は唐古・鍵遺跡から観測された「日の出の北限」に、南端は「日の出の南限」に沿うように、結果として見えるだけなのである。