遺跡周囲の農地を持ち、耕作をしている多くの人に知ってもらいたいこと
この遺跡は、他の縄文遺跡と違い、農業関係の人には大変重要なものです
現在、縄文遺跡と農業とは、ほとんど関係ないもののようですが
農耕 耕作と種蒔きには太陽暦が必須のもの
文明開始には暦が必要だった、特に太陽暦は必須だった
その太陽暦は金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設で完成していた
ここの遺跡がその原点となるものと考えています。
金生遺跡の大配石での太陽暦観測は、現在でも4500年前と変らない太陽観測が出来る
縄文時代の太陽暦は現在の太陽暦と一致している
縄文時代は世界文明の基礎となる太陽暦を世界で唯一完成することが出来た新石器文化だった
世界の何処の古代文明もこれだけ正確な太陽暦の観測施設を残していないと思う
北杜市全域は縄文時代の太陽暦観測の天文台として構想されていた
ランドスケープ 茅が岳 飯盛山 甲斐駒ヶ岳
立春の日の出 立秋の日の出 冬至の日の入り
立冬 立夏
大配石 石棒 男根型石棒
立春の日の出日 立秋の日の出日
冬至の日の出を基本として、配石デザインの北限としていた
太陽観測を世界で初めて観測して 太陽暦を完成
世界の何処の文明も直接太陽観測による太陽暦を作っていない
金生遺跡は現代の太陽暦と一致する太陽観測が出来る
太陽暦を示すランドスケープと伴に観測施設を、建設当時のまま、ほぼ完全な形で残している
世界遺産として
世界標準時の天文台
子午線の原点
日付変更線の原点
これらは2022.08.07 縄文時代の暦観測後に、世界標準時の天文台にしよう会になる
太陽暦は
農業の基礎
文明の基礎
社会集団の基礎
となる技術
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
エジプトでは紀元前3000年頃、毎年初夏の雨季の頃にナイル川が氾濫して大洪水をもたらす事を、その時期の前に決まって東の空に明るいシリウスが輝き始めることから察して、1年の周期をシリウスが見え出す夏至の日を始まりとして、そこからまた見え出す前日までを1年365日とする、太陽暦の起源となる「シリウス暦(エジプト暦)」を作ったようです。
暦の変遷 | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム ...
museum.seiko.co.jp/knowledge/relation_02/
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暦とローマ帝国(ユリウス暦とグレゴリオ暦)(山脇史端)
2018-05-25
私達が現在使っている暦は、グレゴリオ暦です。
江戸時代まで使われていた太陽太陰暦(干支暦・旧暦)と対比させ、新暦と呼んでいますが、正しくはグレゴリオ暦といいます。
グレゴリオ暦とは、1582年10月15日に、ローマ教皇グレゴリウス13世が、それまで1600年以上使われていたユリウス暦を改定した暦です。
ユリウス暦
それではユリウス暦とは何かというと、紀元前45年にその名の主、ユリウス・カエサルによって制定された暦になります。
ユリウス・カエサルというと誰?と思うかもしれませんが、日本では、シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』で有名なので、ジュリアス・シーザーといったらお分かりになるでしょう。ローマ帝国の最高権力者でありクレオパトラの愛人だった、あのシーザーです。
ローマ帝国は、以前のブログでもご説明した通り、紀元前753年に狼に育てられたロムルスによる建国から、476年に滅びるまでの1000年あまり続きました。
つまり、今から1500年以上前にローマ帝国は滅亡するのですが、ローマ帝国滅亡後、ヨーロッパではギリシャやローマのことなどすっかり忘れ去られてしまうのです。いわゆる、暗黒の中世時代と呼ばれる1000年間が続きます。この時期のヨーロッパ人の精神を支配したのは、キリスト教です。
そして、13世紀に入ると古代ギリシャやローマに興味を持つ人達が登場します。その時期を、ルネッサンスといいます。
ルネッサンスは古代復興と訳されています。その古代とはいつのことかというと、古代ギリシャとローマ時代のことなのです。
ローマ帝国
ローマ帝国の特徴は、民族の違い、文化の違い、宗教の違いを認めた上で、それらをすべて包み込んだ帝国でした。古代エジプトでは被征服者は殺戮されるか、奴隷化されるかのどちらかでしたが、ローマ支配の特徴は、征服した民族の文化や宗教の多様性を出来る限り尊重し、市民権を与えてとりこんでいくという政策でした。
先日、イギリスでヘンリー王子のロイヤル上ディンが行われましたね。
美しいメーガン妃はご存知の通り、お母様がアフリカ系アメリカ人です。「英国王室の伝統にふさわしくない」、と人種差別的な意見が数多く出ていましたが、それを聞くと、果たして、人間の精神とは進化しているものかと疑問を感じます。非難をものともせずに愛を貫いたヘンリー王子の姿勢は、中世的な偏見と戦い苦しみながら、人生を駆け抜けた故ダイアナ妃の姿を彷彿とさせ、多くの国民に感動を与えたのだと思うのです。
植民地という考え方自体、非常に中世封建的です。ローマ帝国式の考え方は、征服した土地の市民を自国の市民とし、良い人材がいたら議員にまでしてしまうという考え方であり、そのようにして領土を拡大したのがローマ帝国の帝国主義でした。
実は、この同化政策を最初に打ちたてたのは、アレクサンドロス大王です。以前のブログでもご紹介した通り、アレクサンドロス大王は征服したペルシャの姫君たちと部下の結婚を強要し、自身もペルシャの王女と結婚しています。だが残念なことながら、この同化による領国拡大という壮大な構想を実現することなく、30代半ばという若さで死んでしまうのですが、その死から約300年後、彼の夢は、ユリウス・カエサル(ジュリアスシーザー)により、実現されるのです。
ユリウス・カエサルの政治は、「寛容」政策と呼ばれています。彼は、外国人はもとより、つい少し前まで敵として戦っていた民族にも、市民権を与え、優秀な人には議員権まで与えています。そもそも、ローマ帝国は、成立初期段階において権力者の血縁継承を禁止し、王・元老院・市民集会の三権分立を確立させていました。王の出身が被征服者というのも珍しくなかったのです。つまり、国家を繁栄させるために、民族の多様性を寛容に受け入れ、優秀な人材を登用するという気風が既にありました。それは古代ギリシャの影響が強いと言われています。
勿論、古代ギリシャ時代から奴隷制度の上に市民生活は成り立っていました。しかし、奴隷も一定の期間を経ると市民権を得たり、品格ある奴隷はその人間性を尊重され、解放されたりという記録が多く残っていることから、かなり流動性があったようです。
古代ローマの暦
ローマ建国の時に用いらた暦は、ロムルス暦・ヌマ暦です。1年が355日からなる太陰暦だったので、太陽の動きに合わせると、1年で11日の差が生じていました。
そのため、2年ごとに交互に22日と23日の閏月を入れて調整していたのです。22日と23日の閏月が2年毎の交互になるということは、4年で45日間、つまり年平均では11・25日になります。
そうなると、ヌマ暦の年平均日数は、355+11・25日=366.25日となり、地球が太陽のまわりを一周する太陽年の365.25日と較べると、1年間に24時間ずれるだけでしたので、気候のズレはほぼ解消していました。
このように閏月を設けて調整するように定めた暦でしたが、閏月が入ると、政治の任期も延長するため、すぐに追い落としたい政敵がいたりすると、閏月を省略してしまったりと、政治的理由で適当にされた為、カエサルの時代には、3か月以上暦日がずれてしまっていたのです。
さすがに季節のズレが3か月もあると都合が悪いので、カエサルは暦の改訂を行います。ここで行われた改暦がユリウス暦です。
シーザーというと、クレオパトラの名前が連想される方も多いかと思います。
クレオパトラは、プトレマイオス朝のエジプトの最後の女王です。プトレマイオス朝とは、アレクサンドロス大王の死後、部下であったプトレマイオスが創始した王朝です。プトレマイオスはアレクサンドロスと同郷のマケドニアの貴族の息子で、幼少期よりアレクサンドロスの側近騎兵隊将校でしたから、アレクサンドロス大王の後継者といっても良いかもしれません。
ユリウス暦のヒントはこのプトレマイオス朝のエジプトにありました。プトレマイオス朝の首都はアレクサンドリアです。アレクサンドリアは立派な図書館がある学術都市であり、このアレクサンドリアを中心にヘレニズム文化は成熟したのです。
エジプトはナイルの氾濫の時期の観測と、ピラミッド建設の必要性から天文学が大変発展していました《暦法先進国》だったのです。
エジプトへ遠征したシーザーは、クレオパトラに魅かれ、彼女を王位に復帰させるべくエジプトに長く滞在することになります。
おそらく、この時にエジプトの優れた文明に触れたので、ローマに帰国後、エジプトから天文学者のソシゲネスを招いて制定したのが、ユリウス暦です。
ユリウス暦では、それまでは3月が年初であったものを、1月を年初に改め、1年を365.25日、奇数月を31日、偶数月を30日に、2月のみ29日と制定しました。
ついでに、自分が誕生した7月に、自分の名前をつけました。それがJuliusni、つまり、Julyです。ちなみに、カエサル暗殺後、彼の跡を継いだオクタヴィアヌスは、その後ローマ帝国初の皇帝となり、アウグストゥスと呼ばれるようになってから、このユリウス暦に、7月がシーザーのJulyであるなら、8月は自分の月だということで、8月をアウグストゥスの月、Augustと改名しました。
奇数月が31日なの、偶数月が30日でした。そのため、8月は偶数月なので30日になります。皇帝である自分の月が「小の月」なのを嫌い、8月をむりくり31日にして、その分2月を1日減らして28日と制定したのです。その結果、なぜか7月と8月は大の月が続いて、2月はいきなり28日で閏年だけが29日になるという、奇妙な数字配列になったのです。以来、この改訂ユリウス歴は1600年以上も使われていきます。
グレゴリオ暦
このユリウス暦は、1年の長さを365.25日と定めました。しかし、実際の一太陽年は、365.24219878日のため、1年間に約11分14秒ずつ実際の太陽の運行からずれていきます。この誤差は小さいようにみえるのですが、128年経つと、24時間、1日になり、ユリウス暦の方が1日早くなるのです。
そもそもローマの暦は、ロムルス暦から1年の始まりは3月でした。昼夜の長さが同じになる3月21日の春分から1年が始まるというのは、極めて自然の流れです。
更に4世紀に入ると、キリスト教を国教としてから、キリスト教最大の祭り《復活祭》が、ローマ人にとっては一年の大切な節目となります。
この復活祭が同じ時期なので、《復活祭は昼と夜の時間が等分になる「春分」をすぎたあとにくる最初の満月の後の最初の日曜日とする》と、議会で制定します。
さて、それから約1600年、時代は16世紀、ローマ法王グレゴリウス13世の時代に飛びます。
ユリウス暦の1年間のズレ11秒14秒が、1600年も経つと10日あまりになっていました。
そうすると、実際に昼夜の長さが同じになる春分が、ユリウス暦上では10日早い時期に来てしまいます。つまり、ユリウス暦の上でいう3月21日は、実際の太陽の運行上は3月11日の事になります。昼夜の長さが同じではない日が、3月21日になるのです。
そうなると、復活祭の定義に大いなる矛盾が生じ、教会の権威にかかわる大問題となったのです。
困ったグレゴリウス13世は、最初は単純に1582年10月4日~15日という10日間を、暦から抜いてしまいました。その結果、春分は再び3月21日に巡ってくるようになったのですが、根本的な解決にはなっていません。
そこでグレゴリウス3世は、西暦が4で割り切れる年を閏年とする。但し、西暦年が100で割り切れても、400で割り切れない時は平年とする。という数学的ルールを設定しました。つまり、1600年や2000年は閏年になりますが、1700年や1800年は400で割り切れませんので、閏年ではなくなります。
この計算式でいけば、微妙な誤差はありますが、西暦4902年になって始めて1日の誤差が生じる範囲ですみます。
この優れた計算式によるグレゴリオ暦は、1582年に制定されます。
ローマ法王により改正された暦だったので、イタリア・フランス・スペイン・ポルトガル・オランダなどのカトリック国はすぐに採用しましたが、プロテスタントの国では宗教的な反発のため拒否され、イギリスでは18世紀後半までユリウス暦が使われていたのです。
そのため、日本でも、明治政府が国の制度を参考にした国がイギリスだったこともあり、明治6年1月1日にとりいれた西洋暦はユリウス暦でした。それから27年後の1900年にグレゴリオ暦に改暦されたのです。
さて、一気にグレゴリオ暦まで持っていきました。
如何でしたか?本当はローマについてたっぷりやりたいのですが、東洋に行かねばならないので、ここで終わりにします。
次からは、軸を西に向け、メソポタミアにもう一度戻り、ペルシャ・インド、そして当協会の暦学の誕生した中国暦へと話しを進めていきたいと思います。時々その比較として、ギリシャ・ローマ時代の思想について引き合いに出して参りますので、その都度、見直して戴けたらと思います。
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どうして暦はズレていくのか?カレンダーの世界史
2020年3月10日
普段あまり意識していませんが、それが無くなったら社会が大混乱するモノにカレンダーがあります。分刻みの電車やバス、飛行機の発車やフライト時刻、会社の出勤時間。商売相手との待ち合わせ、テレビやラジオの時間編成、また農業や漁業のような自然を相手にする仕事もカレンダーなしには、何もすることが出来ません。
日付か゛若干す゛れることに疑問を抱くキ゛リシャ人
そんなカレンダーが4年に一回、閏日を入れて、時間を調整するのはよく知られていますが、これだけ科学の発達した世界なのに、何故ズレないカレンダーを造る事は出来ないのでしょうか?今回は、長くて不思議なカレンダーの歴史を紹介します。
人類が完璧なカレンダーを造れない理由
太陰暦はどうして生まれた?
太陽太陰暦を完成させたユダヤ人
太陽暦を産み出した古代エジプト人とマヤ人
一日を24時間、一日の始まりを真夜中にしたのは誰?
kawausoの独り言
人類が完璧なカレンダーを造れない理由
地球
実は、現在科学では全く誤差が無い完璧なカレンダーを造るのは不可能です。何故かと言えば、カレンダーの元になっている太陽や月、一日の時間が決して一定になってないからです。基本的な天体周期は3つあり、それぞれが1日、1カ月、一年間の長さを決めています。
つまり、地球の自転で1日が、月が地球を一周する速度で一カ月が、地球が太陽の周囲を一周する速度で1年が計測され、カレンダーは作成されます。一見すると、それぞれ法則性がありそうな、3つの天体周期ですが、とんでもない、実は、それぞれの時間にはかなりのバラつきがあるのです。
地球平面説 天動説
例えば一日は24時間と誰でも知っていますが、これは凡おおよその数値であり、本当は23時間59分39秒から、24時間と0分30秒まで51秒の誤差があります。月の公転周期は朔望月さくぼうづきと言いますが、こちらも、29日と6時間から、29日20時間まで14時間の誤差があり、29日と12時間44分3秒というのはただの平均値でしかないのです。
最後の一年の長さですが、こちらは厄介な事に測り方が二つあります。
夜空を見上け゛る古代の人々と暴走する月(ギリシャ人)
一つは、天球上で、ある恒星の真向かいにあった太陽が再び、その位置に戻ってくるまで、これを一恒星年いちこうせいねんと言い、その長さは365日と6時間9分9.54秒です。それとは別に太陽が春分点を通過してから、再び春分点しゅんぶんてんに戻ってくるまでを一太陽年といい、その長さは平均で365日と5時間48分45.96秒です。ところが、地球の自転速度が少しずつ遅くなっているので、一太陽年もそれに従って一年で5秒の割合で短くなっています。
君主論18 kawausoさん
お気づきのように天体は決して、時間ピッタリで運動しているわけではなく、毎日、毎月、毎年、その時間の長さが違っているのです。その為、完璧なカレンダーは造る事が出来ず、常に平均値を取りながら一年を計測しあぶれた誤差については、閏日や閏秒を入れて、修正していく事しか出来ないのです。言い換えると、カレンダーとは正確に天体の運行や地球の自転を表しているのではなく、複雑な天体運航をザックリ単純化し理解しやすくした極めて作為的な出版物と言えますね。
太陰暦はどうして生まれた?
世界に初めて誕生した暦は朔望月さくぼうづきを基準とする太陰暦でした。理由は簡単で、強烈な光線を発する太陽と違い、月は容易よういに観測が可能だったからです。古代人は満ちては欠ける月を観測している間に、それは29日で一巡して新月になり、さらに新月が12回繰り返されると季節が一巡する事に気づきました。
そこで、古代人は1年を12の朔望月に分け、354日を一年としてカレンダーを産み出します。このような太陰暦を産み出した文明には、メソポタミア、ギリシャ、中国、エジプトがあり、数千年も昔から存在した事が分かっています。
太陰暦は、月の満ち欠けに関連する仕事をする漁民や遊牧民には問題なく使えましたが、一年である365日と比較すると、11日日数が足りないので、5年も過ぎるとすぐに農業に支障を来しました。そこで、四年に一回、閏月うるうづきを挿入する事で遅れた太陰暦を太陽暦に近づける太陰太陽暦が発明される事になります。
アンティキティラ島の機械
紀元前5世紀、古代ギリシャの天文学者のメトンが、太陰暦と太陽暦を換算している途中に、19太陽年が228朔望月にほぼ等しい事を発見します。228朔望月は、19太陰年である事から6726日、一方で19太陽年は6935日なので、6935-6726=209日で、その差は209日になります。こちらを7で割ると29.85になり、ほぼ太陰暦の一朔望月に近くなりました。かくしてメトンは太陰暦を太陽暦に近づけるには、19太陰年につき7回の閏月を挿入すればよい事を導き出しました。
ギリシャの人々はメトンの発見に非常な賞賛を寄せ、古代オリンピックが開かれた紀元前432年、アテネ神殿にメトン周期を金文字で刻み込みました。これは太陰太陽暦と呼ばれ、メトンの名前を冠してメトン周期と呼ばれるようになります。次第に季節がズレるのが悩みの種だった太陰暦は、こうして太陰太陽暦として生まれ代わったのです。
太陽太陰暦を完成させたユダヤ人
荒れる黄河
ところが、古代ギリシャ人はメトンを賞賛しておきながら、メトン周期を厳密に使おうとはしませんでした。閏月はたまにしか挿入されず、カレンダーはズレたままだったのです。この、メトン周期を取り込んだ太陽太陰暦を完成に近づけたのは、紀元4世紀のユダヤ人でした。元々、ユダヤ人は太陰暦を使っていましたが、ペサフという宗教儀式を行う上で、どうしても季節と暦を正確に一致させる必要があったのです。
ペサフとは、彼らの祖先のヘブライ族が族長モーゼに率いられてエジプトを脱出した時、その出発が慌ただしかったので、パンに酵母を入れる暇もなく、膨らませていないパンを食べた苦難の歴史を伝承する為の儀式でした。元々ペサフは3月から4月の二サン月、大麦が実る頃に行われていましたが、純粋な太陰暦では、太陽暦と毎年11日も日付がズレていくので、暦ではペサフになっても、まだ大麦が実っていないという事態が起こりました。そこで、最高法院は二サン月に大麦が実らない場合には、もう一度、二サン月を挿入してペサフをしていたのですが、西暦359年、大祭司長ヒレル2世がユダヤ暦にメトン周期を織り込んだ精巧な太陽太陰暦を産み出し、世界中に離散したユダヤ人に配布して、同じ日にペサフを行えるようにしたのです。メトン周期は、バビロニアや中国でも独自に発見され、太陽太陰暦は非常に使い勝手が良くなったのです。
太陽暦を産み出した古代エジプト人とマヤ人
太陽暦の時の区分は、地球の公転によっておこる太陽のみかけの運動に基づきます。そのサイクルは植物が枯れ、再び芽吹くまでのサイクルであり、1万年前から開始された農業社会に重要な影響を及ぼしました。この太陽暦は古代エジプトとマヤ文明において産み出されています。古代エジプト人は、少なくとも5000年前には太陽暦を完成させていました。エジプトもマヤも、肥沃な土地を持つ農業国であり農業を順調に営み食糧を確保する為に、太陽暦を整備する事は国家の死活問題だったのです。
古代エジプト人は、時の区分をビジュアル的に分かるようにし、カレンダーを分かりやすくする点でも大きな功績を残しました。それは、例えばナイル川の増水と天空のシリウスを結び付けた点にも見えます。
海上て゛の戦い(地図と本)
70日間天空から姿を消していた大犬座の主星のシリウスが、日の出の太陽と共に東の空から昇ってくる時期が来ると、間もなくナイル川の増水が始まる。増水が最高水位に達した時、水路を通して畑に導き、そのまま水門を閉じ深さ1メートル前後の溜池にし、40日から60日放置せよ。やがて肥えた土は畑に積もり土壌中の塩分は暖められた水と一緒に貯留水に溶け込む。本流の水位が下がったら水門を開けて一気に排水すれば、後には肥沃で塩分が適度に抜かれた農地が残るだろう。
古代エジプトでは、日の出と共にシリウスが天空に出現する7月末から8月末頃を新年の始まりの日とし、豊かな収穫を約束された日として盛大に祝いました。そして、12カ月を増水季、冬季、乾季の三季に分け、作物である麦の生育サイクルに適合させ、増水季は農閑期とし、冬季は種をまき乾季は収穫しました。こうしてビジュアルでも分かるようにカレンダーを星やナイルの増水と結びつけた事で、文字の読めない庶民でもカレンダーは理解しやすくなったのです。
ロラドフ・プレート
古代エジプト人は一年を365日と算出したものの、これは実際の地球の公転より1/4日短かく、また閏年を発明していなかったので、次第に実際の季節とカレンダーはズレて行きました。しかし、シリウスの再出現とナイルの増水が新年の幕開けというのは自然現象として一目瞭然いちもくりょうぜんだったので、カレンダーのズレは、大きな問題にはなりませんでした。
一日を24時間、一日の始まりを真夜中にしたのは誰?
始皇帝と星空
太陽暦と太陰太陽暦について述べてきましたが、では、一日を24時間と決めたのは誰なのでしょうか?
一日を24時間と定めたのは古代バビロニアの天文学者だと言われています。彼らは、12朔望月がほぼ一太陽年に当たる事から、一年が12に分かれるなら、一日も12に分けるべきではないかと考えて、昼と夜を12時間ごとにして、一日を24時間としたようです。また、古代バビロニアは60進法を使っていた事も大きな理由だと考えられています。12は60の約数だからです。
給料て゛ある塩か゛貰えす゛に困っているローマ兵
一日の始まりは、各文明により異なりました。ユダヤ、イスラム、中国の暦では、一日は日没と同時に始まり、古代エジプトやインドのカレンダーでは、日の出と共に一日が始まりました。一方で古代ローマのカレンダーでは、一日の始まりを真夜中の12時にしていました。これはローマ人の合理的な精神によるもので、一日の始まりは、昼と夜から均等に離れていないといけないという考え、それが世界標準になったのです。
kawausoの独り言
kawauso 三国志
私達にとって身近なカレンダーは、決して21世紀の天文学だけで造られたのではありません。農耕が始まるようになってより、多くの先人が無数のカレンダーを造り、無数のアップデートを繰り返して現在に至ります。面白い事に現代人は、古代バビロニア人のやり方に倣い、一日を24時間とし古代ローマ人の決めた真夜中を一日の始まりとして毎日暮らしているのです。面白いですね。
参考文献:暦の歴史 創元社
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暦 エジプト暦の変遷
暦の誕生
暦の改定
太陰暦
イスラム社会のヒジュラ暦
太陰太陽暦
中国暦
日本における暦
暦の誕生
シリウス暦
シリウス暦
暦は、原始的な狩猟文明から農耕文明に移る過程で、季節による気候の変動に対して、食物を計画的に生産し収穫・貯蔵するという知恵、すなわち、人類が生活する上での必要性の中から生まれてきました。
エジプトでは紀元前3000年頃、毎年初夏の雨季の頃にナイル川が氾濫して大洪水をもたらす事を、その時期の前に決まって東の空に明るいシリウスが輝き始めることから察して、1年の周期をシリウスが見え出す夏至の日を始まりとして、そこからまた見え出す前日までを1年365日とする、太陽暦の起源となる「シリウス暦(エジプト暦)」を作ったようです。この1年は、月の周期を基にした30日による12か月と、年の終わりの5日間の安息日で成り立っていました。この暦をもとに、1年を大きく4か月ごとに分けて、洪水・種まき・収穫時期と分けて農作業を管理していたのです。
暦の改定
ユリウス・カエサル
ユリウス・カエサル
古代ローマでは、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が紀元前46年に、エジプト暦をベースに、その暦のずれを補正するために4年に一度1日増やす閏年を設け、エジプトに始まった太陽暦がヨーロッパに広まる基となる「ユリウス暦」を作りました。
その後約1600年の間ユリウス暦が使われていましたが、ユリウス暦も128年間に1日くるうことが解ったため、西暦1582年ローマ法王グレゴリウス13世は、正確な暦でキリスト教の権威を取り戻すべく、その間に出来た13日間の誤差を修正し、現代でも世界中で広く使用されている「グレゴリオ暦」を作ります。
グレゴリウス13世
グレゴリウス13世
これは、西暦年が4で割り切れる年は閏年とするが、100で割り切れても400で割り切れない年は平年とする、というものでした。
このように暦は、民を支配する権力者・法王の象徴でした。
太陰暦
太陰暦カレンダー
太陰暦カレンダー
人類は太古より、太陽の出没にともなって繰り返される明暗を意識した生活をしてきたと同じ様に、月(太陰)の満ち欠けによる形相と明暗の変化に、大きな関心を示していました。夜間では月光を利用して、生活をしていたのです。
メソポタミア文明を築いたバビロニア人は、季節の推移が年間の太陽の高度変化の周期のみならず、月の満ち欠けの周期によっても、もたらされていることに初めて気づき、いわゆる太陰暦の基を作ったといわれています。
月が地球の周りを公転する周期は29.5日で、これを1朔望月といいますが、これだと12か月の1太陰年が354日となり、地球の公転を基にした実際の1太陽年に比べて11日も短くなってしまうために、1年365日の季節と月をもとにした月日が年ごとにずれるので、太陰暦は農耕などには適さない欠点がありました。
イスラム社会のヒジュラ暦
ちなみに多くのイスラム教社会では、現代でも、ラマダーン、ハッジなどの祭礼を行う際に、太陰暦をベースにしたヒジュラ暦(マホメット暦)を使っていますが、これは、イスラム教の預言者マホメット(ムハンマド)が、メッカからメディナへ聖遷(ヒジュラ)したユリウス暦622年をヒジュラ暦元年とした事に始まっており、このイスラム教にとっても歴史的な暦を、宗教的行事上は、未だに厳格に守っていることによります。
太陰太陽暦
バビロニア人は遅くとも紀元前2000年頃には、太陰の運行周期による1年354日の太陰暦に、太陽の運行周期による1年365日の季節変動も考慮して閏月を加えることで調整した、太陰太陽暦を使い始めたと言われています。
この暦法は、新バビロニア王国の時代に完成を見て、エジプト以外のユーラシア大陸のほとんどの地方に広まりました。これがバビロン捕囚中のユダヤ人に受け継がれて、現在のユダヤ暦に引き継がれています。
逆に現在では、ユダヤ人社会を除くと、ほとんどが太陽暦「グレゴリオ暦」であり、太陰太陽暦を用いることはなくなっています。
中国暦
中国暦
中国暦
殷代の甲骨文字が解明されて、中国では既に紀元前1500年頃には、太陰暦をもとに十干十二支で数える暦が使われていたようです。更に、今から2000年前頃には、暦と季節のずれを補正するために、二十四節気を定めました。1節月は約30日で1朔望月より長く、各節月の長さを閏月を多くすることで調整した太陰太陽暦を使い始め、中華民国が成立する1912年まで、この中国暦を使用し続けました。
中国や、ユーラシア大陸のほとんどの地方で、長く太陰太陽暦が使われ続けた背景には、月の満ち欠けや潮の干満が、大河流域での洪水による氾濫を予知するのに役立ったことや、漁民などの航海時にも重要だったことによるもので、農耕や海洋生活上必要だったのです。
日本における暦
和暦
和暦
日本では、古くは確かな暦がなく、自然現象に従っていた自然暦だったと言われており、明らかに暦が採用されたのは、中国渡来の太陰太陽暦を用いた690年からのようです。862年から800年間以上は中国の宣明暦を、その後は、1685年に初めて日本人の手によってずれを修正して作られた和暦、貞亨暦になります。その後、数度、日本人が太陰太陽暦を基に独自の暦を作りますが、明治5年に改暦となり、明治6年から西洋に合わせる形で、まずユリウス暦、その後明治31年にグレゴリオ暦を採用します。
改暦弁
改暦弁
これは、諸制度を欧米に倣ったために、暦日も合わせないと、辻褄が合わないためでしたが、実は明治6年は旧暦では閏年に当たり、西洋流を採用すると、月給を1か月多く13か月分支払う必要があり、財政逼迫に苦しんでいた新明治政府が、正月を1か月早くするという多くの市民にとっては初耳の非常手段を、何の前触れもなく採用したという、裏話がありました。
福沢諭吉が、動揺する一般市民の人心を抑えるために、太陽暦がいかに太陰太陽暦より優れているかなどを書き記した啓蒙書「改暦弁」は有名です。
改暦弁
参考文献
「時計のはなし」平井澄夫 朝日新聞出版
「時計」 山口隆二 岩波新書
「暦のすべて」 渡邊敏夫 雄山閣
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第 3 章 こよみとは何か
2 太陽暦のあゆみ
(pp. 94-97)
現在、世界中で、ほとんど統一的に使われているこよみは「太陽暦」である。正確にいえば、古代エジプトで生まれ、ローマでほぼ現在の形となり、その後少し改良されながら、全ヨーロッパに、そして全世界に広まったグレゴリオ暦という名の太陽暦である。
エジプト暦 太陽暦が、農耕と密接にかかわりをもちつつ発生したことは、明らかである。現行の太陽暦の起源となったエジプト暦を作り出した古代エジプトは、ナイル川の三角州に高度な農耕文明を築き上げていた。
ナイル川は定期的に起こる洪水によって、肥沃な土壌をエジプトの平野にもたらした。したがって、ナイル川の洪水はエジプト人にとって、災害であるより恵みであった。しかし、そのためには洪水の時期を正確に予知して、それに合わせて農作業を行う必要があった。
ナイル川は毎年、きまった季節に洪水を起こしたが、それは、おおいぬ座のシリウスが日出の直前に東の空に姿を現わすころに、はじまったという。このため、真剣な天体観測が行われた。そして、西暦紀元前四〇〇〇年ごろには、一年の長さは三六五日では短すぎ、三六五日と四分の一日に近いことを知っていた。
気がつかれたかも知れないが、シリウスと太陽との関係で一年の長さを決める方法は、厳密にいうと間違っている。このやり方で求まるものは一恒星年であって、一太陽年ではない。前章でのべたように、約一万三〇〇〇年で、星と季節との関係は逆転してしまう。したがって、このシリウスの観察による洪水の予知法が、数千年にわたって行われたと考えることはできない。
うるう年 それはともかく、太陽暦は、もっぱら季節の変化に忠実であろうとだけ努める暦法であって、月の満ち欠けは、最初から無視している。したがって、太陽暦の暦法上の技術といえば、いかに一年の長さを、一太陽年に合致させるかということのみにあるといってよい。
ところで、一太陽年の長さは三六五・二四二二 …… 日であるから、どうがんばってみても、一年を毎年同じ日数にすることはできない。そこで、三六五日の年と、三六六日の年を適当に置くことになる。エジプトの初期の民間暦は、三六五日に固定されており、ひとり僧侶階級のみが、四年に一回、三六六日のうるう年を置いていた。しかし、西暦紀元前二三九年に、四年に一回のうるう年を置くことが制度化された。
ローマ暦 私たちが使っているこよみは、ローマで制定されたものをほぼ受け継いでいる。ローマは初期には、一年が一〇ヵ月、三〇四日から成る妙なこよみを使っていたが、後に二ヵ月を加え、一年を三五五日とする太陰暦を用いるようになった。そしてさらに、ときどき、うるう月を挿入して季節と合わせる太陰太陽暦を採用した時代もあった。
追加した二ヵ月は、当然、年の終りに置かれたが、つぎにのべるユリウス・カエサルの改暦のときに、これが最初にもってこられた。つまり、現在の二月は、かっては年の最後の月であった。現在、九月 ……、一二月を表わすラテン語系の名前、英語でいえば、セプテンバー、……、ディセンバーの語幹である、セプテム、オクト、ノベム、デセムがそれぞれ、七、八、九、一〇を表わすラテン語であるのは、そのためである。
ユリウス暦 やがて、ヨーロッパを制覇し、エジプトを征服したローマは、エジプトの暦法をそのまま取り入れ、西暦紀元前四六年、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)のときに、平年を三六五日、四年に一度のうるう年を三六六日とするこよみを制定した。これを「ユリウス暦」という。
はじめのころ、運用を間違えたりしたが、西暦紀元前八年、アウグスツス帝のときに、改正を行い、その後、一六〇〇年近く、このこよみはキリスト教文化圏で用いられた。
ユリウス・カエサルのときのこよみは、一ヵ月は奇数月が三一日、偶数月が三〇日であった。ただ、最後の月の二月のみは、平年は二九日であった。ユリウス・カエサルは、七月に自分の名前のユリウス(英語のジュライ)をつけたが、アウグスツス帝もそれにならい、八月をアウグスツス(英語のオーガスト)とした。ところが八月が三〇日であったのを嫌い、七月に続けて八月を三一日とした。そして、その後の大の月、小の月も適当に順序を変え、足りなくなった一日を、かつて年末であった二月から減らした。このため、それでなくても平年には二九日しかなかった二月が、二八日になってしまったといわれている。
7 太陰太陽暦と農業
(pp. 112-114)
月の満ち欠けにも、季節の変化にも、等しく配慮をはらったこよみが太陰太陽暦である。顕著な周期である月の朔望を尊重し、かつまた、農業などを行ううえから季節を無視することのできなかった地方に、必然的に発達したこよみである。
したがって、太陰太陽暦は、世界の各地で独立に発生している。すなわち、バビロニアで、インドで、中国で。そして、それぞれ似たような発達をとげている。太陽暦のもとを作ったエジプト暦にしても、一ヵ月を三〇日にしていたから、初期には何らかの形の太陰太陽暦であったと思われるし、また、ローマも古くは太陰太陽暦を用いた時代があったことは前にのべた。
置閏法 チグリス、ユーフラテスの両河のほとりに栄えたメソポタミア支明の中でも代表的なバビロニアは、西暦紀元前三〇〇〇年ごろに、現在も用いられている星座の原形を作った民族の建てた国であるが、古くから太陰太陽暦を発達させていた。そして、西暦紀元前八世紀には、一九年に七回のうるう月を置く「置閏法[ちじゅんほう]」を発見していた。
メトン周期と一九年七閏の法 ギリシアでは、はじめ、八年に三回のうるう月を置く方法が行われていたが、西暦紀元前五世紀の天文学者メトンのときに、一九年に七回のうるう月を置く方法が採用された。一九年は、太陽年のはじまりと、朔望月のはじまりが、かなり正確に一致する周期で、メトンの名をとって「メトン周期」とよばれる。
中国でもこのことは知られていて、一九年のことを「章」とよび、「一九年七閏」の法と称して、西洋と同じく一九年に七回のうるう月を置くことが、西暦紀元前五世紀ごろから行われた。
一朔望月は二九・五三〇五八九日であるから、二九日と三〇日の一ヵ月を適当に置き、一日が朔とあまりズレないようにしていくことは、太陰太陽暦でも第一の問題点である。しかし、太陰太陽暦の、同様に重要な問題点は、季節と調和させることである。
一年を一二ヵ月とすると、三五四日ないし三五五日となり、一太陽年に一一日ほど足りない。ほうっておくと、月[マンス]と季節がどんどんズレてイスラム暦のようになる。そこで、ときどき「うるう月」なるものを入れて、一三ヵ月の年を作り、季節と合わせる。これが、一般的な太陰太陽暦の暦法である。
問題はこれをどのように入れるかだが、八年に三回置く方法では、この間の月数が九九ヵ月、平均日数が二九二三・五日であり、一方、八太陽年は二九二一・九日であるから、一・六日多すぎる。つまり、八年につき、一・六日ずつ季節が早くなる。
中国で行われた一九年七閏の法では、一九年間の月数が二三五ヵ月で、平均日数は六九三九・六九日、一方、一九太陽年は六九三九・六〇日であるから、一九年間で、わずかに〇・〇九日多すぎるだけである。約二二〇年で一日季節が早くなるだけだから、非常に正確ではあるが、これで決して満足してはいなかった。
朔のズレない、季節のズレない、そして天文現象をよく予報できる、さらに精密な暦法が、中国数千年の歴史を通じて求め続けられた。そして、その努力は、太陰太陽暦を中国から輸入したわが国でも、同様に行われた。他の国では、それほど精密な太陰太陽暦を、もとうとはしなかったようである。おそらく、月と季節とがズレてくれば、その都度、適当にうるう月を入れて調節したのであろう。あるいは、そんな季節とのズレが目立つ前に、国が亡びてしまったという場合もあろう。
8 旧暦のしくみ (pp. 114-116)
太陽にも太陰にも忠実であろうとする太陰太陽暦が、複雑な構造になるのは当然である。これを解決しようとして古来、太陰太陽暦には無数の暦法が考案された。
天保暦 その中で、もっとも完成された太陰太陽暦といわれる、日本の江戸時代末期の「天保暦[てんぽうれき]」を、ややくわしく見ることによって、太陰太陽暦の構造を理解することにしよう。
日本は推古天皇のころ(七世紀はじめ)、中国から輸入したこよみを、はじめて採用したといわれる。それ以来、中国輸入のこよみを用いてきたが、一六八五年に渋川春海によって、はじめて、わが国独自のこよみ、「貞享暦[じょうきょうれき]」が作られ、以後、宝暦暦、寛政暦と改暦を経て、一八四四年に、天保暦が作られた。
真の朔と平均の朔 中国、日本の太陰太陽暦では、月の第一日を決めるのに、平均的な朔ではなく、真の朔をもってしてきた。
平均の朔を用いる方法では、二九日の月(小の月)と三〇日の月(大の月)を交互に置き、これでは少し平均の一ヵ月が短くなりすぎるので、一六ヵ月か一七ヵ月ごとに大の月を余分に置く。しかし、この方法では、月の第一日と朔とが一致せず、日食が二日に起こったり、前月の晦日[みそか]に起こったりする。これを嫌ったのであろうか、月の第一日を平均の朔でなく、真の朔で決めるようにしたのである。
一口でこういうが、これは大変なことである。平均朔望月の長さをくわしく知っているだけでは十分でなくなる。月および太陽の運動の遅速を経験的に知って、それを考慮して、少なくとも一年先の真の朔の日付を予報しなくてはならない。これを中国および日本のこよみでは、実際に実行したのである。
The End of Takechan
古代ギリシャの天文学 と 数学
○ ダンネマン著『大自然科学史』には、古代ギリシャの天文学について、詳しく語られていました。内容は上記のものと重複しますが、引用文を再掲しておきましょう。
『大自然科学史 1』〈復刻版〉 〔フリードリヒ・ダンネマン/著〕
Ⅱ ギリシア人における科学の発展 アリストテレス以前
ギリシア天文学のはじめ1?
(pp. 282-285)
ギリシア人はこの時期に天文学では、哲学や数学の分野におけるほどの成績をあげなかった。彼らは天文学のはじめをメソポタミアの天文観測に負っている。たとえば、黄道、獣帯星座、惑星群などの知識が、それである。十二進法や六十進法、およびそれに基づく測度は、バビロニアの影響に直接接触していたイオニアの諸都市をへて、ギリシアに伝わった2?。時の計算は、ギリシア人にとっては大きな困難であった。彼らははじめのころは月の運動を土台にした。彼らは月がつぎつぎに光面の形を変えていくのを観察し、このことから、二九日十二時間四四分の長さの朔望[さくぼう]月を、きめることができた。そこで月と太陽による計算を調整しようとする最初の試みが、各月三〇日ずつの十二カ月の長さの一年の確定に導いたことは、容易に考えられる。しかし、こういう暦は天体のじっさいの運行と、あまり一致しなかったから、長いあいだにわたって、一般の要求をみたすことはできなかった。そこでもう一歩進んで、月を交互に二九日と三〇日に数えることとなった。それによって一年は三五四日に短縮された。ギリシア人はこういう暦で計算していたが、非常な開きが生じたので、ソロンのときになって、二年ごとに三〇日の完月を入れて、この開きを埋めることにした。そこで一年は平均 (354 × 2 + 30) ÷ 2 = 369 日となったが、それでも実際の長さとは非常にちがっていた。月の循環と太陽年とをいっそうよく一致させて、暦計算を調整しようと試みた(紀元前四六〇年頃)最初の一人は、天文学者のキオスのオイノピデスであった。この人の門弟のなかには、キオスのヒッポクラテスもいたと思われる。オイノピデスは七三〇太陰月と五九太陽年とを等しいとおいて、三六五・三七三日という一年の長さに達した。彼はエジプトおよびバビロニアの天文学の移植にも大いに貢献し、同じく十二宮からなる獣帯を、ギリシアに導入したと言われている。彼はまた規則的にくりかえすナイルの増水を、宇宙的原因によるととなえて有名になった。
大喜劇詩人アリストファネス3?はギリシア人の暦の混乱をからかって、こんなたよりない状態にたいして、お月さんに苦情を言わせている。紀元前四三三年になってはじめて、アテナイの数学者メトンがこの混乱を最終的に一掃することに成功した。彼は一二五「完」月と一一〇「欠」月をふくむ十九年の循環期を導入した。これによって一年は (125 × 30 + 110 × 29) ÷ 19 = 365.263 日となった4?(太陽年の真の値は 365.242 日である)。(※ メトン期は中国では十九年七閏[うるう]法として春秋時代、前六世紀頃から知られていた。)