金生遺跡・大配石での太陽と月の観測
飯盛山
この写真は飯盛山です
縄文時代には太陽暦を作るための、太陽観測天文台に適合する立地を世界各地で探し続けていたものと考える。
縄文時代前期には後にチャイナで四立八節の暦と呼ばれた太陽暦が開発されていたと考える。
これは夏至冬至と春分秋分の暦の4分割に加えて、各季節の始まりを区分した立春、立夏、立秋、立冬として暦を作った。暦はそれまで春分を計ってから作成されていたので、冬至から91日後になっていたものが、立春の45日には暦は作成できるので、大変な社会進化に成ったものと思う。
海辺では太陰暦も作られていたが、太陽暦とはシンクロさせることが難しかったため、内陸と海辺の交流の妨げとなっていたものと思う。
しかし太陽暦はその後45日を 1/3 とすることで月の暦とシンクロさせることが工夫され、二十四節気の暦が作られることになった。
そして、太陽と月の周期の観測から朔旦立春を観測することにより、太陽と月の暦がシンクロできることが分かり、内陸と海辺の暦の不都合は取り除かれることとなり、交流は非常に容易になったものと考える。
世界各地で天文台の立地を探してきた結果として、金生遺跡はこの朔旦立春観測のための太陽観測天文台として最適な立地として選択されたものと考える。
この立地では半年の暦の齟齬をチェックするため、立春に加えて立秋の朔旦立秋観測を可能とするため笠無山の観測点も整備されていた。
笠無山・立秋 茅が岳・立春
金生遺跡・大配石は世界標準時天文台 太陽暦観測天文台
金生遺跡の立地は、二十四節気の暦作成のための太陽暦観測に、最適な天然の地形の中に存在する
北杜市は全域が世界標準時天文台の観測施設の地形になっている
2023.11.16 飯盛山は間違いだったため、山名を笠無山に変更しました。