金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

文明とは何か 定義

追加しました 2023.04.18

                       

初稿 2022.09.23

次のように云われているようだ---
文明が発生するには、まず前提として農耕による食糧生産の開始と、それによる余剰農産物の生産がなければならない。

最初期の農耕はオリエントの肥沃な三日月地帯において11,000年前、パプアニューギニアで9,000年前の証拠が発見されている。これらは、2万年前に最も寒くなった最終氷期の終わり、1万年前に相当する時期に当たる。この時期は紀元前5300年頃にはメソポタミアにおいて灌漑施設が建設されるようになり、ウバイド文明と呼ばれるメソポタミア最古の文明が成立した。その後、紀元前4000年ごろからはウルやウルクといった都市がメソポタミア南部に相次いで建設されるウルク期と呼ばれる時期に入り、紀元前3200年ごろには楔形文字が発明された。
なぜ人類社会が高度に組織化され文明が発生するようになったのかは明確にはわかっておらず、いくつかの説がある。この中で、乾燥化や地球寒冷化などによって人々がより条件の良い土地に移住して集中するようになり、その人口を支えるために大規模な農耕がおこなわれ、文明が成立したとする説がある。---引用ここまで

金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設を発見してから、更に大変なことが分かってきた。
文明とは、何を指しているのか。
これまでの文明の定義には、何故太陽暦の開発が入っていないのか。
農業生産の基本は栽培暦を作り、農業生産を画期的に増大したことから始まったものでは無いのか。
太陽暦と太陰暦を最初に開発したのは誰なのか、これまではっきりしていなかった。
ここでそれをはっきりさせたいと思う。
金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設の存在を見ると、太陽暦の起源は縄文時代にあり。世界の歴史の上で、太陽暦開発は曖昧なものとされてきた。縄文時代の暦開発が分っていなかったことから、これまで文明の定義さへ出来ていなかったということが分ってきた。


人類史もやっとそのことが分ってきたのでは無いか。
世界の有名な大文明に於いて、太陽暦の起源を明確に示すことが出来たものはこれまでない。
文明とは何か、それは太陽暦の開発に発するものとして良いのでは無いか。
都市が幾ら発展しようが、どれほど大きな廃虚を残そうが、それは文明なのか。

 

 

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

これを追加しました

人間が人間らしくなった「大発見」
ダニエル・ブアスティンというアメリカの歴史家が『大発見』という本に、人間はあるものを発見して人間になったと書いています。何だと思いますか? 火。ああ、必ず出てくる答えの一つです。知性。それから言語、道具。なるほど。文字もあるね。文化。人間が生きるためにつくる社会の活動から生まれるすべてのものを文化というんですね。

どれもある程度あたっているかもしれない。でもブアスティンさんが書いたのは、「時間」です。人は時間というものを見つけ出して、人間らしくなった。文化も時間を使えるようになってから生まれました。

古代文明が興ったエジプトではナイル川が一年のある時期に必ず洪水を起こし、その後に肥沃な土地ができることから、その時期を予測することで農耕が発達し、高度な文明が築かれたと言われています。

ナイル川沿岸の人たちは、洪水の時期で時間を意識したのかもしれません。人間が時間を意識した証(あかし)は、暦です。研究者はまず、その文化が暦を持っていたかを調べるそうです。時間を意識することで、過去と現在と未来を視野に入れて考えることができるからです。

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穏健なる哲学の話

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文明とは何か?文明を簡単に解説!文明のプラス面とマイナス面
2017/10/23 概念

人類は文明のある社会を築いてきましたが、

文明とは一体何なのでしょうか?

なぜ人類だけが文明社会を築くことができたのでしょうか?

文明には良い面だけでなく悪い面もあると思いますが、

ここでは文明について考えたいと思います。

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文明とは何か?文明を簡単に解説!人類が築き上げてきた文明とは?
文明とは何か?文明のプラス面とマイナス面
文明とは何か?文明で生活は楽になる?
終わりに
文明とは何か?文明を簡単に解説!人類が築き上げてきた文明とは?

(出典「photoAC」)

文明は人類がこれまでの歴史で培(つちか)ってきた技術や知識の積み重ねと言えます。

技術や知識を積み重ねることができるようになってきたのは、まず人類が農業をはじめ蓄えることを知り、
一部に余裕のある人ができたことで、考えること、研究することができるようになったことから文明が生まれたと考えられます。

もしも人類の祖先が農業を知らず、狩りをするなどして食べ物を探す暮らしを続けていれば、
物事を考える余裕や、何かを研究する余力は生まれなかったと考えられます。

?
また文字の存在は記録を残し、後世の人に伝えることに有益で、

例えば地図を作ることにした場合、自分が調べた範囲について文字で記録しておくことで、

次の世代の人たちは、その先を調べれば良いことになりますので、最初から調べるという手間が省けることになります。

そのように同じ分野の研究者たちが、地道に調査や研究を続けてきた積み重ねとして、技術や知識が蓄えられることになりますので、

文明は技術や知識の積み重ねと言えます。
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文明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、都市や社会などの高度な文化体系について説明しています。その他の用法については「文明 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ピラミッドとスフィンクス。エジプト文明はメソポタミア文明と並ぶ世界最古の文明のひとつである
文明(ぶんめい、英: civilization、ラテン語: civilizatio)は、人間が作り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す。

文明の概念
文明の発生
文明が発生するには、まず前提として農耕による食糧生産の開始と、それによる余剰農産物の生産がなければならない。最初期の農耕はオリエントの肥沃な三日月地帯において11,000年前、パプアニューギニアで9,000年前の証拠が発見されている。これらは、2万年前に最も寒くなった最終氷期の終わり、1万年前に相当する時期に当たる。この時期は紀元前5300年頃にはメソポタミアにおいて灌漑施設が建設されるようになり、ウバイド文明と呼ばれるメソポタミア最古の文明が成立した。その後、紀元前4000年ごろからはウルやウルクといった都市がメソポタミア南部に相次いで建設されるウルク期と呼ばれる時期に入り、紀元前3200年ごろには楔形文字が発明された。

なぜ人類社会が高度に組織化され文明が発生するようになったのかは明確にはわかっておらず、いくつかの説がある。この中で、乾燥化や地球寒冷化などによって人々がより条件の良い土地に移住して集中するようになり、その人口を支えるために大規模な農耕がおこなわれ、文明が成立したとする説がある。

地球寒冷化によってそれまでの分散していた生活環境が苛酷になった為、河川周辺への人口集中が促されるなど、文明の発生に大きな役割を果たすという説[注 1][注 2]。
サハラ砂漠は2万年を頂点に12,000年前まで乾燥し、その後、7000年前まで森林が増え、5000年前まで森に覆われていた。その後、乾燥により砂漠化が今も進行している。砂漠化により、砂漠にとどまるものと、ナイル河畔に移動したものにわかれた。移動と共に生活様式を変えたものが、ナイル河畔で文明を創ったという説がある[注 3]。
文明の特徴
西欧語の "civilization"(英語)などの語源は、ラテン語で「都市」「国家」を意味するキウィタス(civitas)に由来する。ローマ時代の文明とは、字義通りに都市化や都市生活のことであった。

文明の要素
マルクス主義の考古学者ゴードン・チャイルド(1892年-1957年)の定義では、文明と非文明の区別をする指標として次のものを挙げている[1]。

効果的な食料生産
大きな人口
職業と階級の分化
都市
冶金術
文字
記念碑的公共建造物(ピラミッドなど)
合理科学の発達
支配的な芸術様式
上記の定義は、ひとつの連続する過程として説明することができる。まず農耕が開始され、効果的な食料生産によって農耕民たちは大きな人口を抱えるようになる。またこれによって大きな余剰農産物が生まれ、その富を元にして農業以外を生業とするスペシャリストが生まれ、多様な職業に従事する人々が生まれる。同時に、食糧生産をより効率的にするためには灌漑施設の建設などの土木作業が不可欠であり、これを可能にするために社会の組織化が推進される。

こうした事業はしばしば豊穣などを神に祈るための信仰と結びつき、食糧余剰を管理しより増産を進めるための機構として神官団が生まれる。また、食糧生産の過程で富の偏在が生まれ、富裕なものは他者に対し優位に立つようになる。

この2つのシステムは結合し、こうして政府と階級が生まれる。上層の階級のものはその村落のみならずやがて周囲の村落にも影響を及ぼすようになり、一つのまとまった支配圏が誕生する。こうしてより富が集積されるようになり、さらに増えた人々やスペシャリストたち、そして支配階級のものがまとまって居住する支配や交易の拠点、いわゆる都市が誕生する。

支配層が統治の必要から社会システムを発展させていく中で、文字や記念碑的公共建造物、芸術様式を発達させていき、一つの文明が成立することになる。ただし上記の指標はすべてそろっていなければならないわけではなく、たとえばアンデス文明は文字を持たなかったし、アンデス文明およびアステカやマヤといったメソアメリカ文明においては冶金術も鉄器レベルまでには達していなかった。

チャイルドの定義以外に、すべての文明に共通するものとして次がある。

小麦、コメ、トウモロコシといった穀物の栽培は、その貯蔵のしやすさや大量に収穫できることなどから、多くの文明の基盤となるものだった。
また、ほとんどの文明においては家畜化された動物が一種類ないし数種類存在し、食糧供給源、動力、移動手段として大きな役割を果たした。

広範囲な貿易。文明以前から、世界各地において広範囲の交易ネットワークは成立しているが、文明の成立とともにこれはより大規模なものとなっていた。シュメールでは、国家管理された貿易商の集団が設置されていた。
単一の定住に比べてより広域な地域にまたがる組織や民族[注 4]。
文明の機構
チャイルドは文明を構成する要素に注目したが、機構に注目すれば以下の定義により、政府やネットワークが浮かび上がる。
大きな人口を維持するには効果的な食料生産と食料分配の制度や分業・階層化を可能にする中心機構を持った政治システムが必要で、「文明とは国家という政治システムを持つ社会」という定義[2]。
いろいろな文化のサブ・システムを包含する、広域的ネットワークとして、広い範囲に普遍的に広がり、大規模で高度な組織、制度、統合がなされているという定義[3]。
文明の変遷と完成、文明の型
文明のゆるやかな成立
新石器時代の狩猟採集から、原始的な農業を経て、村、町、都市へとゆっくりと発展して、文明が成立していくため、文明が一気に成立するわけではなく、文明に至る階段を登ることになる。例えば、シュメール文明は最古の文明の一つであるが、紀元前5300年頃のウバイド文明から、ウルク期の紀元前3200年の文字の発明まで2000年を要している。原始的農業を経て灌漑技術を生み出し、都市を構成し、冶金技術も生まれ、神官階級が文字を生み出し、歴史時代が始まる[4][5]。
また、アンデス文明は、紀元前1000年ごろに文明が発生し、1500年ごろ滅んだが、この文明において文字は存在しなかった。冶金術はメソアメリカ文明ではあまり発達しなかった[1]。
灌漑と文明
「四大文明」および「四大河文明」も参照
シュメール文明の成立以前の、肥沃な三日月地帯にあった新石器時代のエリコやチャタル・ヒュユクのような初期定住社会は文字を持たない。これに対し、灌漑文明であるシュメール文明は文字を持ち、記念碑的施設を持っていた[6]。メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明[注 5][注 6]は、灌漑文明で[13]、都市への定住と分業、パピルスや粘土板、竹簡に記された文字などの共通の特徴を持つ。

上記の四大文明はすべて大河の流域に存在しており、エジプト文明はナイル川、メソポタミア文明はティグリス川とユーフラテス川、インダス文明はインダス川、黄河文明は黄河をその存立基盤としていた。特にエジプト文明においては、ナイル川の氾濫は上流から肥沃な土を運んでくるものであり、その定期的な氾濫を利用した氾濫農耕が文明の基盤となった。そしてこの氾濫を管理する必要性から、文明が徐々に発達してきた。これに対し、特にメソポタミア南部のシュメール人居住地区ではナイル川流域に比べ氾濫が強力なものであり、このため氾濫は利用するよりも制御されるべきものとなって、かわりにこの地域には広く灌漑網が張り巡らされ、その灌漑農耕の管理を通じて文明が成長していった。

ただし、大河の存在は必ずしも文明成立の必須要件ではなく、メソアメリカ文明やアンデス文明においては文明圏内に文明すべてを支えきれるような大河川は存在していなかった。しかし大河がないからと言って灌漑がおこなわれていなかったわけではなく、上記文明以外でもすべての文明は食糧供給の基盤として灌漑農耕を据えており、これはアステカやインカといった新大陸の文明も例外ではなかった。アステカはチナンパ農耕と呼ばれる湿地での優れた灌漑農業システムを保持しており、また山岳地における用水路を利用した灌漑農耕も行われていた。インカにおいても各地で灌漑は行われていた。マヤ文明においても灌漑用の水路は概して規模は小さいものの各地で見つかっている[14]。

文明の種類

サミュエル・P・ハンティントンの『文明の衝突』の世界地図[15]
これまで独自の文化圏を持つとして文明に分類されたものをあげる。

メソポタミア文明
シリア文明
エジプト文明
インダス文明 (インド・パキスタン文明)
中央アジア文明
スキタイ文明[13]   
ギリシア文明
ミノス文明
ヘレニズム文明
ローマ文明
ヨーロッパ文明 (西欧文明)
東欧文明(東方正教会文明=ギリシア正教文明)    
イスラム文明
アフリカ文明
中国文明
黄河文明、長江文明、遼河文明
日本文明
中央アメリカ文明
メソアメリカ文明
アンデス文明
文明論
文明論の概要
文明論の始まり
歴史学や考古学は、歴史の始まりを画すものとして文明を眺めた。もう一つは、直接文明を対象にするのではなく、未開に関心を寄せた文化人類学であった。両分野は手法と対象は異なるものの、文明の始まりという同じものを見ようとする。
フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー『ヨーロッパ文明史』、ヘンリー・バックル『イギリス文明史』などがある。近代ヨーロッパの考古学では人類の初期の古代文明のうち、特にエジプト文明の研究などから、「肥沃な三日月地帯」や「文明のゆりかご」(Cradle of civilization)という概念で研究した。福沢諭吉は、1875年(明治8年)、『文明論之概略』で西洋文明と日本文明を比較した[注 7]。
哲学者の和辻哲郎は1935年(昭和10年)に『風土 人間学的考察』で、モンスーン(日本も含む)、砂漠、牧場の三類型の風土において独自の文化が形成されたと論じた[18][19]。
挑戦と応戦
20世紀、オスヴァルト・シュペングラーは、『西洋の没落』において、ヨーロッパ中心史観・文明観を批判した。アーノルド・J・トインビーは、文明とは、個人が強く識別する、最も広範囲なアイデンティティーに相当し、家族・部族・故郷・国家・地域などよりも広い、強固な文化的同一性であるとした[注 8]。そして、多くの文明[注 9]への、「挑戦と応戦」の過程で、文明は発生し、興隆し、やがて終末を迎える。文明の終末において、新たな文明を生む繭が生まれ、古い文明を崩し文明を再生する。例えば、キリスト教会が、崩壊してゆく古代ローマ文明の中で繭として成長し、新しい文明を築いたと主張した。
文明の舞台と環境

世界最初の文明は巨大河川での、灌漑であった。
1944年、カール・ポランニーは『大転換-市場社会の形成と崩壊』で資本主義社会の市場構造の分析をした。
1949年、フェルナン・ブローデルは『地中海』で文明における海の役割を際立たせた。
1957年(昭和32年)、梅棹忠夫は『文明の生態史観』で砂漠の決定的な重要性について指摘している[注 10]。
1974年、イマニュエル・ウォーラーステインは、資本主義経済を史的システムとする『近代世界システム』を打ちだした。ブローデルの影響が濃い。
1988年(昭和63年)、梅棹は、環境に制約された文明は、やがて環境の制約を離れて環境に情報が取って代わり、情報を中心とした文明になると、『情報文明論』で述べた[20]。
1997年(平成9年)、川勝平太は、インド洋から東シナ海を中心とした交易圏の中での日本の文明の役割を文明の海洋史観として提示した。
1997年、ジャレド・ダイアモンドは、文明を成り立たせる要素及び人間の考え方が文明の成立や構造にどのような影響を与えるか、『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』で考察した。
文明の遷移と系列
日本において、梅棹忠夫は文明の変遷の原理をしめした。梅棹は1957年(昭和32年)に著した『文明の生態史観』[21]で、生態学的気候区で「ユーラシア両端、日本・欧州」と、「ユーラシア中央部」とに2分し、2つの文明の型で遷移が異なるとした。砂漠の遊牧民が農耕地帯を征服し、文明が瓦解し、大陸中央部は遷移が起きず振り出しに戻る。これに対し、遊牧民の征服をまぬかれた日本と欧州は、文明が破壊されず遷移を繰り返し、平行進化するとした[注記 1]。文明とは、環境からの離脱の過程であり、装置群、制度群が次第に発達し、情報文明にいたるとする[注 11]。
2000年(平成12年)頃、梅棹の文明論を批判した多くの「…史観」が現れた。川勝平太は、歴史主義を標榜し、梅棹には理論がないと批判した[注 12]。そして、川勝は、ヨーロッパと日本が、海洋交易や技術進歩で、大陸中央部を追い抜いていったとする『文明の海洋史観』を示した[注記 2]。川勝の背後には、ブローデルの地中海があり、大きな影響を受けたと述べる。
また、村上泰亮の日本の家社会を例とした、文明はいろいろな系の間の移行により発達の経路が異なるという、文明の多系史観が発表された。村上は、梅棹の遷移理論に対し、文明発展の経路が偶然により異なり、また系の間を移ることがあり、一度経路が決まると、次の分岐点まで文明の型は変わらないとした。
経済の構造
マルクス系のポランニーは、労働と土地は再生産出来ないが、資本主義の市場は再生産できない財を市場で取引するという特徴があり、資本主義体制の市場は普遍的なシステムではないと指摘した。そして、古代や未開民族の経済を調べ、いろいろな経済社会システムがあり、市場がなくとも経済構造を維持できることを示した。
その他、および時評としての文明論
安田喜憲の文明環境史観、森谷正規の文明技術史観、文明のエネルギー史観、嶋田義仁のアフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明論がある[注 13]。
「帝国」の概念と「文明」がオーバーラップするとしてノーム・チョムスキーは、500年にわたる西洋の帝国を経験的に記述した。アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは、共著『帝国』で、より理論的な分析を展開し、諸文明の同時代的な分析を構成している[注 14]。東西冷戦が終わると、アメリカの勝利が明白になり、フランシス・フクヤマは『歴史の終わり』(1992年)で、民主主義と自由経済が文明の最終形態で、王朝の交代や、革命という大変革は起きないとした。その後、アラブの問題が生起し、サミュエル・P・ハンティントンが、『文明の衝突』で、キリスト教やイスラム教などの宗教を中心とする文明間の対立や摩擦が21世紀の国際政治の特徴になると主張した。
文明と野蛮・未開
伝統的に、文明は野蛮や未開と対置されてきた。ここには、高い文化を持つ文明の光と、その光が届かない野蛮や未開の闇という世界像がある。都市生活の素晴らしさや、野蛮・未開の劣等性を知識人たちが疑わなかった時代には、文明とは何かという理論的問題は発生しなかった。しかしそこが疑われるようになると、自民族・自文化中心主義をとりはらった文明の定義が求められるようになった。20世紀前半まで圧倒的に主流を占めたのは、劣った野蛮に対する優れた文明という見方で文明を定義するものである。歴史や社会の発展段階論に結びつくと、野蛮は未開とも呼ばれる。この見方は、ギリシャ、ローマと西欧(ローマ人対蛮族)に共通のものであり、また、中国の中華思想、朝鮮の小中華思想、華夷の別は王化に浴するかどうかで本国(いわゆる中国)と周辺服属国(夷)、独立地域を分けた。

これらの思想は自文明中心主義と結びついて周辺支配のためのイデオロギーとなった。文明概念は、文明人は野蛮人より、文明国は未開社会より、優れた道徳的規範を持ち、優れた道徳的実践を行なうと想定する。文明は、人道的、寛容で、合理的なもので、逆に野蛮は、非人道的で、残酷で、不合理なものとされた。文明側の自己讃美は、それが文明人の間の行動を規制するために主張されたときには、道徳性を強める働きをしたが、野蛮人や未開人に対して主張されたときには、文明人による非人道的で残酷な行為を正当化することがしばしばあった。

しかし、同じ分類方法をとりながら、野蛮や未開の方が逞しさ、自由、道徳性の点で優れていると考える人々もいた。高貴な野蛮人という言葉で要約できるこの考えは、ローマのタキトゥスにその片鱗を見ることができ、後に西洋近代にロマン主義として一大流行になった。とはいえ、この考えが主流派に対する異議申し立ての地位を越えた時代はない。

近代西欧における「歴史の進歩」という考えは、未開から段階を踏んで高度な文明に達するという時間的区別と、文明的西欧、半未開あるいは半文明のアジア諸国、未開のその他地域という地理的区別とを重ね合わせた。啓蒙主義の時代には、文明は野蛮を征服し教化するものであり、またそうすべきであると考え、また対外的な侵略と支配を正当化した(帝国主義)。19世紀には進化論が大きな役割を果たし、社会進化論を生み出して、文明と野蛮について説明するようになった。本来「進化」には下等から高等へ一直線に段階を経るといった意味はなく、また進化しなかったものが即劣っているというわけではなくそれぞれの環境においてどのように適応出来たかというのを考察するものであった。

日本や中国などは、近代化にあたって文明と未開の二分法はそのままに文明の内容を西洋文明に置き換えた。明治日本では「文明開化」とよばれた。

近代以後におけるドイツになどにおいては、内面的・精神的な「文化」に対して、外在的・物質的なものを指して「文明」と捉える考え方も広がった。
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文明とは何か【文明の語源と発祥・成り立ち】
歴史
 2021.03.09
 この記事は約8分で読めます。
世界史を勉強し直すために、パラパラと本を読んでいます。
そこに描かれているのはいわば人間の栄枯盛衰の歴史。文明の発展と衰退の歴史です。
……と、書いてみてふと抱いた疑問。


そもそも文明ってなに?

改めて問われると、上手く説明できる気がしません。。

そこでまずは、本村凌二さんの『教養としての「世界史」の読み方』を参考にしつつ、文明の語源や成り立ち、その具体例について整理してみます。

目次
「文明」の語源
文明の発祥と発展の条件
文明化の必須条件は「乾燥化」
文明の発展に馬がはたす役割
「四大文明」は日本限定
まとめ
「文明」の語源
文明 civilization という言葉は、civitas(キウィタス)という言葉が元になっています。
これは、直訳すると「civis(キウィース:市民)たるべきこと」という意のラテン語で、市民による「都市」「国家」といった政治共同体や、その「市民権」といった意味。

ここから出てきた文明という言葉は、基本的に、国や市民の集まる都市をその前提としていると考えられます。

ちなみに、文明と字面や意味の似ている文化 culture という言葉は、ラテン語で「耕す」を意味するcolere からきています。
文明が集団や都市と結びつくのに対し、文化は農耕との関わりが深く、その土地の自然や風土の影響を色濃く受けるものだという点で、両者は大きく異なります。

文明の発祥と発展の条件
文明の定義については種々意見があるそうですが、よく言及されるのは「文字の発明と使用」。
わたしたちは歴史というと、「縄文土器」「弥生土器」に代表されるような土器の作成や使用も思い浮かべますが、その当時まだ文字が発明されていなかったことを考えると、こうした道具の使用は、必ずしも文明化に発展するわけではないようです。

では具体的に、どんな要素が文明の発生や発展をもたらすのでしょうか?

文明化の必須条件は「乾燥化」
古代エジブト文明で知られるアフリカ北部。
そこに広がるサハラ砂漠はもともと、地球環境の変化に伴い、何度も湿潤と乾燥を繰り返してきた地域だったそうです。
現在は広大な砂漠ですが、この砂漠化が始まったとされているのは前5000年頃。
それ以前のサハラは緑に覆われていたと考えられ、「グリーン・サハラ」と呼ばれています。
当時の人々は、水や動植物に恵まれた湿潤な気候風土の中で生活していたようで、その様子はサハラに残るタッシリ・ナジェールの洞窟壁画から窺い知ることができます。


世界遺産センター 公式サイト掲載画像
前5000年頃からはじまった乾燥化は、アフリカ北部?中東、ゴビ砂漠を通って中国にまで至りました。
乾燥化が進むと、そこに住んでいた人々は水を求め、大きな川や水のほとりに集まります。そしてやがてはその中でも、さらに立地条件の良いところに集中していきます。

こうやって人口が一ヶ所に集中すると、水をはじめとした限られた資源をどのように活用するかという問題が生じます。
すると必然、水をめぐる争いを防ぐための水活用システムが生まれ、それらを記録する必要から、文字が生まれます。実際、古代の記録には、取引記録など事務的なものが多いそうです。

逆に日本は、温暖湿潤な環境で動植物に恵まれていたため、そういった必要が生まれず、文字の登場は中国からの漢字の伝来を待たねばなりませんでした。


厳しい環境を克服しようと知恵を絞ることで、はじめて文明が生まれるんだね。

文明の発展に馬がはたす役割
こうして生まれた文明は、どのようにして発展していくのでしょうか。
コロンブスがアメリカ大陸を発見した当時、先住民と彼らとの間には、大きな技術力の差がありました。
この差はどうして生じたのでしょう?

筆者である本村氏によると、その鍵を握っているのはなんと馬。
曰く、文明が発達するスピードが馬の有無によって大きく変わることは、ドイツの哲学者カール・ヤスパースも、その著書『歴史の起源と目標』で指摘していることなのだとか。
馬は、人や物資をより遠くに、より早く届けることができるだけでなく、戦車や騎馬隊に用いれば大きな武力につながります。
つまり、人々の生活における物流のスピードを高める上でも、政治的な版図を拡大する上でも、重要な役割を果たしているということ。
このように馬の活用は、人間社会が文明を発展させる上で大きな牽引力になるのです。


でも、西部劇とかに出てくる先住民は馬を使ってるよね?
アメリカ大陸にも馬はいたんじゃないの?

中には、そんなふうに考える方もあるかもしれません。
実際、アメリカ大陸でも馬の化石は多く出土しており、一万年前まで遡れば、馬はたくさんいたと考えられています。
しかしそれらは、人類がアメリカ大陸に住むようになって数千年の間にみな食べ尽くされて絶滅してしまっていたのだそう。

アメリカ大陸には、前1000世紀に南米を中心としたメソアメリカ文明が生まれています。
しかしこの頃には既に、馬は絶滅していました。
つまり、彼らは馬を持たなかったのです。

この結果として、彼らの文明の発展はごく緩やかなものになりました。
人や物、情報の交流が少ないと、土着の文化は育てど、自然風土の制約を超えたものは生まれにくいです。
これが、コロンブスが新大陸を発見した頃の、先住民と移民たちとの技術力の差を生んだ一因であると考えられます。


ただし、こうした「文明」の捉え方は、あくまでヨーロッパ的な価値観に根ざしたものです。
それぞれの文明や文化には、異なる価値基準で考えればそれぞれに見るべきものがあり、安易に優劣で語るべきものではない点は、心に止めるべきことでしょう。

「四大文明」は日本限定
「四大文明」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
現在はどうかわかりませんが、私が小中学を過ごした1990年代には、世界の文明について習うとき、この括りがよく使われていました。

四大文明とは、紀元前5,000年から前2,000年にかけて、大河流域で発生した4つの文明を総称する言葉です。

その内訳は西から順に、

前3000年頃、ナイル川流域に栄えた古代エジプト文明(ヒエログリフ)
前3000?前2700年頃、ティグリス・ユーフラテス川流域に栄えたメソポタミア文明(楔形文字)
前2300年頃、インダス川流域に栄えたインダス文明(インダス文字)
前5000年頃、黄河流域の黄河文明(甲骨文字)
となっています(括弧内は使用されていた文字)。

しかし実際には、これらとほぼ同時期やもっと古い時代に、他にもいくつもの文明があったことが知られています。
1990年頃に連載されていた、浦沢直樹の『MASTERキートン』第3巻では、考古学研究者の顔を持つ主人公が「少なくともこの時期に20の文明はあった……これが今の考古学の定説です」と語っていました。
そしてそもそも四大文明という括りは、日本の歴史教育を整備する過程で独自に作られたもので、海外では使われていないのだそうです。

文明といえば四大文明、という感覚は、あくまで学びの足掛かり程度に認識するのが良さそうです。

まとめ
文化が自然風土に根差す土着なものであるのに対し、文明は、厳しい環境で多くの人が集まることで生まれる、地域性に縛られない知恵と工夫の集約です。
その発祥には、乾燥化による人の集住と、それに伴う灌漑の必要が関与しており、発展のスピードには馬が大きく寄与していることがわかりました。
教養としての「世界史
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2017-02-12
文化と文明について
キーワード
オンライン辞書から
私の定義
文明:ゴードン・チャイルド氏の10項目
文化と文明
峻別できない「文化と文明」
訳語「文明」の出現
訳語「文化」の出現
「文化と文明」―対立か、連続か
文化・文明という言葉には注意が必要
オンライン辞書から
ぶん‐めい【文明】
人知が進んで世の中が開け、精神的、物質的に生活が豊かになった状態。特に、宗教・道徳・学問・芸術などの精神的な文化に対して、技術・機械の発達や社会制度の整備などによる経済的・物質的文化をさす。

出典:文明<デジタル大辞泉<小学館<コトバンク

次に文化。

ぶん‐か〔‐クワ〕【文化】
人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。(中略)

[用法]文化・文明――「文化」は民族や社会の風習・伝統・思考方法・価値観などの総称で、世代を通じて伝承されていくものを意味する。◇「文明」は人間の知恵が進み、技術が進歩して、生活が便利に快適になる面に重点がある。◇「文化」と「文明」の使い分けは、「文化」が各時代にわたって広範囲で、精神的所産を重視しているのに対し、「文明」は時代・地域とも限定され、経済・技術の進歩に重きを置くというのが一応の目安である。「中国文化」というと古代から現代までだが、「黄河文明」というと古代に黄河流域に発達した文化に限られる。「西洋文化」は古代から現代にいたるヨーロッパ文化をいうが、「西洋文明」は特に西洋近代の機械文明に限っていうことがある。(以下略)

出典:文化<デジタル大辞泉<小学館<コトバンク

「それぞれの民族・地域・社会に固有の文化」とあるが、ここらへんがクセモノで、「東京の下町文化」という小さい地域から「西洋文化」という大きな地域まで言うことができる。

なぜそれが可能かというと「外の地域」が存在するからだ。西洋の外があるから外と比べれば内の西洋の共通の文化が挙げることができるから「西洋文化」という言葉が成立する。

だから「地球文化」という言葉はおかしい。仮に地球外に知的生命体が存在して文化があることも分かれば、それに対比した「地球文化」が成立するだろう。

私の定義
以上も踏まえて私なりに二つの言葉を定義すると以下のようになる。

「文化」とは慣習である。文化=慣習とは、生活上の習慣(挨拶、食事など)から冠婚葬祭、ものの考え方(mindset、習性となった考え方,思考態度[傾向] )などが含まれる。


「文明」とは利器である。文明=利器とは、人の生活を向上させる道具のことであり、大きくわけてハードウェアとソフトウェアの二つがある。
ハードウェアは、古代からあるものは城壁や道路などのインフラなど、現代においてはコンピュータや自動車など。
ソフトウェアはシステムと言い換えることもできる。古代からあるものは文字システムや王政、民主制など、現代においては金融ネットワークシステムや大戦を抑止する国連・G7・G20などがそれである。
ただし文明が興る時は、その興った地域の支配民族or多数民族の文化が土台となって誕生する。

例えば文明のカテゴリーに入る法律は、その支配民族or多数民族の文化(=慣習・常識)が土台となって誕生する。

文明:ゴードン・チャイルド氏の10項目
文明に対する厳密な定義というものはないようだ。

ある地域が文明の段階にあるのかどうかを判断する場合、幾つかの「文明的な要素または指標」というものがあり、これらが幾つあって、どのような状況かを見て各学者が判断している。学者たちの間で判断が違うことも少なくない。

ここでは、古いが有名な都市(化)の指標(要素)であるゴードン・チャイルド氏の10項目(Childe 1950: 9?1 6)*1を見てみよう。

大規模集落と人口集住
第一次産業以外の職能者(専業の工人・運送人・商人・役人・神官など)
生産余剰の物納
社会余剰の集中する神殿などのモニュメント
知的労働に専従する支配階級
文字記録システム
暦や算術・幾何学・天文学
芸術的表現
奢侈品や原材料の長距離交易への依存
支配階級に扶養された専業工
上の指標は西アジアとヨーロッパの考古学における指標なので、他の地域に全て当てはまるかどうかは分からない。また地域によってこれら以外の指標が存在するはずだ。

さらには古いとか時代遅れだとかいう批判もあるようだ。

しかしこれに取って代わるような使いやすい指標が登場していないので、今だにこの指標が存在意義を持っている。

文化と文明
峻別できない「文化と文明」
「文化と文明」の違いについて詳しく区別できないようだ。

幅広く用いられていた「文明」という言葉
フランス語のcultureという単語には、20世紀の初め頃まで、現在の「文化」という単語が持つ「一時代、一国家における文学・芸術・宗教・道徳などの精神活動全体」という意味が含まれていませんでした。その代わりに用いられていたのは、civilisation(文明)という単語です。フランスの人々はこの一語によって、人間の活動の物質的な成果と精神的な成果の両方を表そうとしました。フランス的「文明」は「普遍性」「進歩」「人類」などの価値を重視していましたが、それは時に、文明のない地域を啓蒙するという理屈から、植民地主義と結びつく傾向にもありました。

フランス的「文明」とドイツ的「文化」の対立
一方、隣国のドイツでは、kultur(文化)とzivilisation(文明)という言葉が併用されていました。当初、両者の意味に大きな違いはありませんでしたが、kultur(文化)がzivilisation(文明)より価値が高いとする傾向は存在しました。フランス的「文明」が「普遍性」「進歩」「人類」などに価値を見出していたのに対し、ドイツ的「文化」は「個別性」「伝統」「民族」といった価値を重視しました。
やがて、フランス的「文明」とドイツ的「文化」は、明確に対立する二つの言葉として、敵対するフランスとドイツの価値観の象徴となり、第一次世界大戦における両国間の凄惨(せいさん)な戦いにつながっていきました。

出典:フランスには「文化」が存在しなかった?<夢ナビ 執筆:鈴木啓二

以上を踏まえて、二つの言葉が日本で(訳語として)生まれた頃の話をしよう。

訳語「文明」の出現
新装版 比較文明 (UPコレクション)
新装版 比較文明 (UPコレクション)

作者:伊東 俊太郎
出版社/メーカー: 東京大学出版会
発売日: 2013/07/24
メディア: 単行本
伊東俊太郎氏は*2、「日本において“文明”を最初に論じた書物は、福沢諭吉の『文明論之概略』(明治8年、1875)だといってよい」と書いている*3(ただし福沢がこの言葉をつくったとは書いてなかった)。同時代の西周(にしあまね)は文明ではなく“開花”という言葉をつかったが、明治の中頃から大正にかけて文明という言葉が定着した*4。

訳語「文化」の出現
文化の誕生の瞬間もよく分からないが、伊東氏によれば明治の中頃から大正にかけて使われだした*5。三宅雪嶺の『真善美日本人』(政教社 1891)に見られるという。

この「文化」の意味は上で紹介したとおり、ドイツから流入したものだ。当時の明治日本は西洋文明の輸入先をドイツに傾けていったようだ。

1871年(明治4)、普仏戦争でドイツの前身であるプロシアが勝利した結果、日本政府は陸軍の組織や戦術をフランス方式からドイツ方式へと変えた。[中略]

陸軍、医学、語学の分野でドイツからの文化導入が大きくなったことにより、哲学や法律、さらには経済といった分野まで、日本はドイツの影響を強く受けるようになった。昭和になると、まさにドイツの教育制度をそのまま入れたかたちで国民学校が設立された。

そして、日本人が最初にドイツ哲学を学んだとき、そこでは歴然と「文明」というものと「文化」というものを分けていた。つまり、「クルツール」という言葉を使っていた。その訳語として、初めて日本人が民族に固有の生き方を「文化」という言葉で捉えようとしたのである。

出典:松本健一/砂の文明 石の文明 泥の文明/岩波現代文庫/2012(2003年の新書の文庫版)/p27

上の話でいくと、「文化」という言葉が定着したのは昭和に入って以降ということになる。

砂の文明 石の文明 泥の文明 (岩波現代文庫)
砂の文明 石の文明 泥の文明 (岩波現代文庫)

作者:松本 健一
出版社/メーカー: 岩波書店
発売日: 2012/08/18
メディア: 文庫
「文化と文明」―対立か、連続か
以上のように文化と文明はその言葉の生い立ちも含めて対比される言葉ではある。

しかしこれと異なり、文化と文明は連続するものという捉え方がある。例えば古代イラク(メソポタミア)ではウバイド文化からシュメール文明に変わり、古代中国においても複数の◯◯文化が黄河文明を生んだ。ここで使われる文化・文明は以上のような対比する意味では使われていない。

結局、“文化と文明”については二つの考え方があることになる。一つは、文化と文明は本質的に連続したものであり、文明は文化の特別発達した高度の拡大された形態であるとするものである。したがって最初の原初的な状態は“文化”であり、それがある高みにまで発展して、広範囲に組織化され制度化されたものになると“文明”になるという考え方である。たとえば「エスキモー文化」とはいうが、「エスキモー文明」とはいわない。またアフリカのマンデ族の文化とはいうが、マンデ族の文明とはいわない。また石器時代の「アッシュール文化」とはいうが、「アッシュール文明」とはいわない。それに対してもっと広範囲に発展して高度に組織化され、もっと全体的な大きなボディをなしてきたものには、たとえば「エジプト文明」「中国文明」「ヨーロッパ文明」というような言い方をする。これが主としてアングロサクソン系の文化人類学などで用いられる用法ではないかと思う。

もう一つの“文化と文明”に対する考え方は、“精神文化”と“物質文明”というように、これが連続的なものではなく、かえって対立したものとして捉えるものである。つまり哲学、宗教、芸術のような精神文化と、科学、技術というような物質文明は本質的に異なっており、一方は内面的なものであり、他方は外面的なものであり、一方は個性的なものであり、他方は普遍的なものであり、一方は価値的なものであり、他方は没価値的なものである、というような対立でとらえていく。これは主としてドイツの文化哲学や文化社会学の用法で、これが日本語の“文化”や“文明”のニュアンスにも入っているのではないかということは前にも述べた。もっとも日本語のなかには第一の“文化”や“文明”の意味も、はっきりと自覚されてはいないが、やはり併存しているように思う。

出典:伊東氏/同著/p13-14

文化・文明という言葉には注意が必要
文化と文明の両方はヨーロッパ文明の言葉からの訳語だ。両者の意味は、辞書の定義でも事足りるとは思うが、上のような経緯を知っているとより深く文章を読むことができるのではないか。もっとも、書き手/読み手がどれほどの知識を持っているかという問題もあるが。


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