縄文前期諸磯式土器の時期に、これまで無かった全く新しい土器形式が生まれたようだ
土器の形そのものが変化していた。
それを必要とする社会に変わった
何が原因なのか
狩猟漁労採集社会から
農耕社会に変化した
この変化はそれ以外にないのでは
その後の歴史で、弥生人が入ってきた際に、アイヌやアメリカ先住民のように土地を奪われずに、縄文人は弥生人と共存して、同化していったような話のようだから、そうだとすれば、農耕を既に行っており、土地所有の観念が成立していたのだろうと考える。
有孔鍔付土器とは
胴体には動物意匠文をはじめさまざまな装飾文様が施され、両肩部には把手が設けられている。
出土数は極端に少なく、
胎土も精選されており
出土状況も特異であり、口縁部に把手の付いた釣手土器とともに祭祀に関わる土器であると考えられている。
小孔が空けられる理由については土器の使用目的と関係して諸説あるが。
鍔状隆帯は、焼成や使用の際に自重のかかる胴体中央部の補強目的であると考えられている。という
有孔土器の歴史的変遷の経過から見ると
最後は注口土器や両耳壺形になる様子が見えるのでこうした全体の経過からは
特別な液体などを造り、保存し使うという流れが見えることから
酒造りの用途だったと言うことが正解では無いか
有孔鍔付土器の祖型とされている土器
その後の土器
図はお借りしました
引用しますーーーーーーーーーーーーーー
縄文前期後半から中部から関東地方で口唇部に貫通する孔をいくつか巡る有孔土器が出現する。
平らな口の浅鉢形であった。中期前半には、口唇部に鍔のような隆起が巡り有孔鍔付土器と呼ばれた。それには帽子の鍔のように付けられた隆帯もあり、鍔の上側から器内側に穿たれた孔を共通の特徴とする土器である。
酒造用の容器であるとか、太鼓の胴体であるとか、諸説があるが、人面や人体文など、一般的によく見られる土器とは異なる文様が付けられていることが多く、祭祀的な色彩が強い土器と考えられている。
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縄文時代前期末期の諸磯式期には有孔鍔付土器の祖形である口縁部に小孔の空いた浅釜型の有孔土器が出現する。
小孔は無文上か二条の浮線上に空けられており、鍔部の原型になる膨らみも見られる。安定性は悪く、地面に窪みを設けて安置していたと考えられている。
成立期には中間型がみられ、やがて直立口縁や鍔状隆帯が完成し、小孔数も減り胴体上方の屈曲部に一定数穿たれる。
中期初頭には橋状把手が設けられ、器種も樽型や壺型など多様化し、大型化する。
中期中葉には胴体に赤色顔料が施され、製作技術の進歩から小孔や鍔状隆帯が形式化しはじめる。中央高地から北陸、関東はじめ東日本各地に拡散する。
西日本では有孔土器はみられるものの、有孔鍔付土器は福井県と岐阜県での中期後葉段階の出土例を西限に見られない。例外として九州地方の長崎県長崎市深堀町に所在する深堀貝塚での中期後葉段階の出土例があり、これは胎土が九州西部のものであることから何らかの形で製作技術が伝来したと推測されている。
中期後葉には小孔が鍔部へ設けられるようになり、装飾文様が消失し縄文や渦巻文が一般的となる。中央高地では小孔や鍔状隆帯が完全に消失し、両肩に把手の付けられた広口壺形の両耳壺に統一されるが、関東地方では形式的な小孔が保持された。中期終期には有孔鍔付であるが注口部のあるものや、深鉢で胴体がひょうたん形に縊れたものが見られ、注口土器に至る。
また、同じく中央高地に特有的に出土し祭祀的意味のあったと考えられている人面装飾付土器(人面・土偶装飾付土器)の特徴を兼ね備えた人面装飾付有孔鍔付土器も確認されている。
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14号住居址から特別多くの土器が発見された。その中に胴部に顔面を配した有孔鍔付土器(ゆうこうつばつき)の破片が出土した。棚畑遺跡では縄文時代中期の完形に修復された有孔鍔付土器が出土し、尖石縄文考古館で展示されている。器高は、それぞれ16.5cm・13.5cm・10.0cmなどと小形である。尖石遺跡では器高51.0cm、最大幅40.0cmもある縄文時代中期前半の大形のものが出土している。有孔鍔付土器は、一様に土器の口が平らに作られている。その下に刀の鍔(つば)のような粘土の帯が付けられ、更にその上部に幾つもの小さな孔(あな)が一定の間隔であけられ貫通している。
中部から関東地方の前半期に浅鉢形の有孔土器が出現する。墓の副葬品として出土する事が多く、酒を造る発酵器と考えられ、ムラの祭りの時に使われようだ。三内丸山遺跡からは、畳3畳分の場所から植物遺体で固まった厚さ約5~10㎝の堆積層が出土した。ヤマブドウ、サルナシ、ヤマグワ、キイチゴなど「酒造用」植物の種が検出されている。そのうち大部分がエゾニワトコだった。縄文前期の秋田県大館市釈迦内の池内遺跡(いけないいせき)では、植物繊維が絡まったニワトコの果実の種が発見された。縄文人が、植物繊維で果実を絞り発酵させ果実酒造っていた痕跡であろう。
有孔土器は扁平広口で、口の周りに数多くの孔が開けられている。平らな口は蓋をし果実を発酵させて酒を作るためであり、孔はガス抜き用と考えられている。ヤマブドウなどの木の実で酒作りをしたようだ。中期前半には、口の下に帽子の鍔のような隆起が巡り、口と鍔の間に貫通孔が巡らされる有孔鍔付土器となり中部から東北地方まで伝播する。
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有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)復元展示品
『大きなものは樽形、小さなものは壺形をしている。
竹器を模したようなものもある。平らな口唇と、その直下にめぐらした鍔(つば)のような凸帯。それに接して、箸でついたような小孔が空けられているのでこう呼ぶ。井戸尻文化を最も特徴づける器種であり、酒造器とみられる。
数ある土器のなかでもことに精緻につくられ、磨き込まれた器膚は黒漆と赤色顔料で彩られている。小孔にはヤマドリの羽を挿したらしい。
酒は主作物の精粋であり、折々の祭事にあたって神や精霊と人との仲立ちをするものだった。』((2), P.26)
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中期(5,000~4,000年前): 大規模集落(100軒以上)が武蔵野台地と多摩丘陵に多数出現し、遺跡数や縄文人口の頂点(全国30万人)を迎えている。多摩川の河原石を使用して、土堀具としての多量の「打製石斧」が野川流域の遺跡(調布市深大寺裏山など)で確認されている。
縄文農耕(ヒョウタン、リョクトウ、エゴマ。シソ、ソバ、コメ、オオムギ、ヤマイモ)、
酒(長野県井戸尻遺跡<有孔鍔付土器、ヤマブドウ>、
青森県三内丸山遺跡<サルナシ、クワ、キイチゴ>)の証拠も認められ、
縄文土器も立体的な文様(勝坂式土器<国分寺市多喜窪遺跡>)を呈している。「大型土器の出現」。
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主な研究は縄文農耕論で、縄文時代晩期に九州に見られる黒川式土器と中国の黒陶との類似性や黒川式土器に籾痕がみられることから、縄文時代晩期には既に稲作が行なわれていたと主張した。 ...
藤森の縄文農耕論の特徴は、稲籾などの自然遺物に頼ることなく、考古学の正道といわれる人工遺物の存在によって農耕を証明しようとしたことにある。 ...
中期には盆地にも進出し、大規模な集落遺跡である釈迦堂遺跡群や重要文化財に指定されている精巧な土器の出土した一の沢遺跡、豊富な生活遺物が出土している花鳥山遺跡などが出現し、縄文農耕論にも一石を投じた有孔鍔付土器など学史上注目されている遺物も出土している。 ...
従来、「縄文時代は農耕社会ではない」とされてきたのに対し、諏訪市出身の考古学者藤森栄一は「縄文農耕論」を提唱していたものの、その証拠はなかった。 ...
藤森は八ヶ岳山麓地域において打製石斧や磨石、石皿の出土が多いことに着目し、1950年に富士見町の井戸尻遺跡の調査結果を踏まえて提唱したのが「縄文農耕論」であり、縄文中期に中部地方高地で特異的に出土する有孔鍔付土器の使用目的については種子の貯蔵説を主張した。 ...
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勝坂式土器は、西関東~中部地方を中心に分布した縄文中期中ごろの土器型式で、神奈川県の“勝坂遺跡”から出土した土器が標式。
器種が豊富で、大型で器壁が厚い深鉢土器のほかに浅鉢・台付鉢・有孔鍔付土器・釣手土器などが見られる。
文様は縄文の使用が低調で、太めの隆帯を多用しつつ主に沈線や結節沈線などで構成され、粘土隆帯による人体・蛇体・獣類の表現も、この勝坂式土器に多く見られる。
特に粘土ひもによる文様の割付が基本で、その中をシノ竹による文様で埋め尽くし、土器全体を文様で埋めようとする意識が強いのが特徴。
と云うように、縄文土器を代表する勝坂式土器は、縄文がなく、文様が際立って美しい土器であるとは何とも皮肉ではあるが・・・・・。
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「所有」が始まり、社会が変わる
新たな世界観の導入は、人々の生活をどのように変えたのだろうか。モデレーターを務める『WIRED』日本版編集長の松島倫明が自然と人間の関係の変化を問うと、松本氏は次のように語った。
「縄文社会に限らず、狩猟採集社会で生きている人々はさまざまな動物と人間は対等な存在だと考えています。加えて所有の概念も希薄で、すべてのものは共有されるべきだという感覚が強いと言われているんです。資源に限りのある狩猟採集社会においては、共同体を持続させるためにも所有せず共有するほうがいいですから」
そんな縄文社会の価値観は、今年度のNEC未来創造会議のキーワードである「コモンズ」の概念ともつながっているだろう。あらゆる資源を共有財とみなす視点は、現代社会から失われたものと言えるかもしれない。松本氏によれば「所有」の概念が強まったことが社会を変えていったのだという。
「農耕社会へ移行すると、農作物や土地が誰のものか決めるようになり、その権利を継承する感覚も芽生えてくる。次第に格差が生まれ、社会の階層化も進み、首長のような存在も現れます。狩猟採集社会から農耕社会への変化は、いろいろなものを共有するコモンズ中心の社会から個人の差異をよしとする社会への転換と言えるかもしれません。その変化はジェンダーとも結びついています。狩猟採集社会では生命を生み出す女性が重要な存在だったのに対し、農耕社会では力をもつ男性の方が社会に貢献する存在だとみなされ、所有の権利も男性を中心として継承されていくこととなりました」
松本氏の発言を受け、松島は「農耕社会の価値観が現代社会を規定しているのかもしれません。歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリも農耕社会への移行を『過ち』だと語っていて、農耕革命が現代へ続く問題を残してしまったといえます」と語る。NEC未来創造会議が考える「ニューコモンズ」とは、狩猟採集から農耕へ伴って失われてしまった感覚を取り戻すこととつながっているのかもしれない。
「人間の遺伝子自体はあまり変わっていないので、縄文的な思考はいまも残っているでしょう。しかし人間は道具や技術によって拡張される存在なので、石器や土器、インターネットやスマートフォンによって身体感覚が変わっていったのだと思います」
そう松本氏が語るとおり、人間の身体そのものは先史時代と比べて大きく変わったわけではない。新たな生活習慣や文化の登場だけが人間を変えるわけではなく、つねに道具や技術によって人間は変わってきた。失われたコモンズの感覚を現代社会へ取り戻すうえでも、ただ過去の価値観を紹介するだけではなく、技術によって人の感覚を変えていく必要があるのかもしれない。
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土地もヒスイも魚も、すべて自然の恵みと考えれば、そこには私有財産という概念は生じ得なかったろう。そして、その自然の恵みを人々が感謝しつつ、使いすぎないように注意深く使っている社会では、争いは生まれない。
一方、農耕社会では、自分が汗水垂らして耕して作った畑は自分のものだ、という意識が生ずる。その土地を増やそうとすると、土地を巡って隣人と争いが生ずる。
北米のインディアンは縄文人と同様の精神を持っていたようだ。イギリスからの移住者たちが辿り着いた時、彼らは「まれ人」として温かく迎えた。しかし、その移住者たちは土地を自分たちの財産と主張して、インディアンを駆逐し始める。インディアンたちは、自然の精霊が与えてくれた大地を、なぜ特定の人間が自分の所有物だと主張するのか、理解できなかった。
農業・牧畜を始めた人間は、自然環境を破壊し、土地を巡って争うようになった。そこから継承された環境破壊と戦争が、現代社会にも大きな危機をもたらしている。その一方で「円の思想」を継承した日本文化は和を大切にし、環境との共存共栄を実現している。小林教授は次のように結論づけている。
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日本列島で農耕が始まるまでの1万年以上も続いた自然との共生の体験の中で縄文世界観が醸成され、日本人的心の基盤が形成されていったと言えます。それは、文明先進国がどこも体験することのできなかった貴重な時間だったとも言えます。[4, 1317]
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そのような世界でもユニークな1万年以上もの時間を経験した我々は、そこで学んだ事を世界に示していく責務がある。
(文責 伊勢雅臣)
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すでに縄文時代から、あらゆる系統の民族が漸次的に日本にやって来て、漸次的に多民族間の混血が進み、日本人が形成されていったと見るのが実態に即した捉え方です。特定の地域の特定の民族が日本人を劇的に変えたというような動的な変化などなかったことが最新の遺伝子研究からわかってきているのです。
民族の劇的な変化には、征服や戦争が必然的に伴います。大規模な陰惨な殺し合いがなければ、民族が別の型の民族へと上書きされることなどありません。日本では、縄文末期から弥生にかけて、そうした大規模な戦争が行なわれた形跡は見つかっていません。殺人用武器や兵器なども見つかっていません(中国などでは、頻繁に発掘される)。
かつて、弥生人の人骨が面長で、縄文人の人骨が丸顔であるとする発掘調査が報告されたことがありましたが、これも実は、部分的なサンプルだけを意図的に抽出したものに過ぎません。全体の人骨を俯瞰すれば、弥生が面長で、縄文が丸顔などという定型的な区分ができないことは明らかであり、特定の時期に民族が入れ替わったことはないとわかります。文明的にも、縄文時代末期の紀元前1000年頃に、稲作文化が漸次的に普及していき、弥生時代にそれが確立したのであり、その社会的変化と移行は長期におよぶ緩やかで静的なものでした。
縄文時代末期に、北方系の渡来人がやって来たということ自体は否定できません。彼らが日本に移住し、日本人や日本社会に同化していったことは間違いありませんが、それは「二重構造説」が言うような、急進的かつ大量なものではなく、日本の古代社会を根底から覆すようなものではなかったということを強調せねばなりません。
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そんな中で、縄文時代から弥生時代への移行を主な研究テーマとしている東京大学の考古学者・設楽博己は、縄文農耕と弥生農耕の違いについて次のように述べました10。
弥生文化の農耕は,水田稲作とアワ,キビの雑穀栽培からなる体系的なものであり,それに応じて他の文化要素が農耕文化的な変容をとげている。つまり,弥生文化は様々な文化要素が連鎖的に農耕と関係している「農耕文化複合」といってよい。現象的には,食糧に農作物が多くなる,石器や木器に農具が多くあらわれる,農具をつくるための石器が増える,大型壺を含む各種の壺形土器の比率が増える,灌漑施設を伴う水田や畠がつくられ,それにより狩猟や漁撈の比重が減ったり専業化していく,生産の儀礼が農耕儀礼を基軸に展開するなど,生活のすみずみに農耕文化の影響があらわれてくる。農耕が文化のごく一部をなすにすぎない縄文文化と対照的である。
設楽の論では、縄文文化における農耕の存在を肯定しつつも、生活・文化の様相が農業中心に展開することをもって弥生時代の農耕文化の開始としています。
縄文中期に「農耕」が行われたとされる中部高地の風景縄文中期に「農耕」が行われたとされる中部高地の風景(筆者撮影)
「縄文農耕論」が始まった当初は不明瞭だった縄文時代の植物栽培の様相が科学の力で明らかにされるにつれ、「狩猟・採集」のイメージに立脚した縄文時代観は徐々に変化していきました。
さらに、「縄文農耕論」は縄文時代に続く弥生時代に対する考え方・捉え方の対しても変更を迫っています。つまり、少なくとも縄文時代と弥生時代を「狩猟・採集」と「稲作の開始」を二項対立で捉えて区分するような考え方は改められつつあるのです。
2章のまとめ
縄文時代の人々が「クリ」の林を人工的に形成・維持し、必要に応じて食料・木材として利用してきた可能性がある
縄文人は時期や用途に応じて多種多様な植物栽培を行っていた可能性がある
少なくとも縄文時代と弥生時代を「狩猟・採集」と「稲作の開始」を二項対立で捉えて区分するような考え方は改められつつある