金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

チャイナでの暦の変遷の歴史

伝説的な夏王朝の夏正が何故尊重されてきたのか
暦関係の記述を纏めてみます。

『開元占経』によれば、“古六暦”は次のように説かれています。なお「今」とは開元二年(西暦741年)です。

 ①「黄帝暦」:上元辛卯、至今二百七十六萬八百六十三算外。
   周正(子月:仲冬月(旧暦11月)を正始とする)。
   黄帝(紀元前2510年~紀元前2448年、Wikipedia「黄帝」による)。

②「夏暦」:上元乙丑、至今二百七十六萬五百八十九算外。
   夏正(寅月:孟春月(旧暦正月)を正始とする)。
   夏王朝(紀元前1900年頃~紀元前1600年頃、Wikipedia「夏(三代)」による)。

③「殷暦」:上元甲寅、至今二百七十六萬一千八十算外。
   殷正(丑月:季冬月(旧暦12月)を正始とする)。
   商王朝(紀元前17世紀頃~紀元前1046年)(Wikipedia「殷」による)。

④「周暦」:上元丁巳、至今二百七十六萬一千一百三十算外。
   周正(子月:仲冬月(旧暦11月)を正始とする)。
   周王朝(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)(Wikipedia「周」による)。

⑤「魯暦」:上元庚子、至今二百七十六萬一千三百三十四算外。
   周正(子月:仲冬月(旧暦11月)を正始とする)。
   魯(紀元前1055年~紀元前256年)(Wikipedia「魯」による)。

⑥「??暦」〔注3〕:上元乙卯、至今二百七十六萬一千一十九算外。
   秦(紀元前778年~紀元前206年、Wikipedia「秦」による) 

三正論 †
中国の古代王朝では、夏の時代は寅の月、殷の時代は丑の月、周の時代には子の月を正月とした、とする説です。
夏正=建寅正月=冬至の翌々月=立春正月
殷正=建丑正月=冬至の翌月
周正=建子正月=冬至月
三正が実際に行なわれたかは不明ですが、漢の太初暦では夏正に復帰することで王朝の正当性を示しました。
秦の??暦では建亥正月=冬至の前月を正月としており、漢の初期もこれを用いていました。

戦国時代(紀元前403年~同221年)に、 戦国各国が主として採用したのは冬至と春分の中間、立春を年始とする「夏正」でした。
漢の武帝の太初元年(紀元前104年)の改暦によって立春正月を年始とすることに改め、以後、中国の太陰太陽暦の年始は立春となりました 
魏では太和暦を改めて景初暦と曰い、その春夏秋冬や孟仲季の月は正歳(夏正)と同じでなかったとはいえ、郊祀・迎気・?祠蒸嘗・巡狩・蒐田・分至と啓閉・時令の班宣・中気の早晩・民事を授ける事[※]は皆な正歳(夏正)の建てた暦数の序列とした。

 漢の時代の以後の暦は夏正の暦(一部に例外はある)を標準とするようになり現在に至ります。
長いことずっと建寅月を正月とする夏正の暦を使い続けていましたから、いつしか「太陰太陽暦は立春付近に正月をおく暦」だと誤解されるに至ったわけで、太陰太陽暦には正月を建寅月におかなければならない理由があるわけではないのです。

二至二分の中間点に位置する四立に関しては『春秋左氏伝』僖公5年の「分至啓閉」という語の「啓」が立春・立夏、「閉」が立秋・立冬と考えられており、『呂氏春秋』において「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の語が使われていることから、戦国時代に一般化したと考えられる。

なお、古代中国人は、一年12か月を春・夏・秋・冬の四時に分け、正月(一月)・二月・三月を春、四月・五月・六月を夏、七月・八月・九月を秋、十月・十一月・十二月を冬とした。
周では冬至を基準に年始が置かれていたが、戦国時代になると冬至の翌々月を年始とする夏正(夏暦)が各国で採用されるようになり、これにより冬至と春分の中間点が正月、すなわち春の最初の節気にあたるようになったことで「立春」と名付けられ、他の二至二分四立も春夏秋冬の名が冠せられるようになったと考えられる。

その他の二十四節気の名称は、前漢の『淮南子』において出揃っており、それまでの間に名称が固定化したと考えられる。

旧暦(中国・日本の太陰太陽暦)では元日が立春前後に置かれる。それは立春のころを年初にし、春の始まりと年の始まりを一致させるためである。これを夏正(かせい)という。古代中国夏王朝の正月という意である。
太初の改暦において年始を建寅の月(正月)とし、以後、現在に至るまで2000年以上にわたって中国暦(旧暦・農暦)の年始には夏正が用いられている。

夏暦とはもともと古六暦の一つであるが、辛亥革命以後に太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されるようになると、それまでの伝統的な太陰太陽暦を総称する言葉となった。
これは、中国の太陰太陽暦が建寅の月を年始とする夏正であったためである。
また、一般的に農暦と呼ばれるようになったのは、農村で今でも広く使われているからである[注 1]。
中国国内で2006年に無形文化遺産に登録され[注 2]、2016年、ユネスコが推進する無形文化遺産に登録された[2]。

チャイナの暦はこのような歴史をたどってきた。
二十四節気の暦の成立経緯はこのように明確で無く、夏王朝以前に成立していて立春などの名称が無しに伝説的に伝えられ、伝統的に存在していたもののように見える。
これを見る限り、いずれかの王朝の太陽観測で成立したものであれば、その基準が元にされ、このように混乱することは無かったのでは無いかと考える。
黄帝暦は周の暦を示していて、周による歴史の遡上となっているので、夏王朝からと言う事になるとするのが正当と考える。
縄文時代後期までに成立していた暦が夏王朝以前にチャイナに伝わり、それなりに使われながら整理されていったもののように思う。
金生遺跡にその元となる観測の遺跡が現存してあることから、発祥は縄文人に有るものと考える。
夏王朝に先行する金生遺跡は、年代的にもそれは問題ないものと考える。

   図はお借りしました


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