金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

夏暦 夏正 夏王朝

補足しました   2022.04.07

夏王朝の夏正に関して
縄文時代の中期には太陽暦が太陰暦とシンクロ出来ることを知っていた 神秘数 3 ので
朔旦立春観測を行い年の初めを春の季節の始まり、立春として、太陽暦と太陰暦の初日を整合させていたのだろう。
チャイナには太陽暦をきちんと観測し、立春を観測していたという天文台施設は出ていないので
もし夏が夏正 年の始まりを立春とする を置いたとすれば、縄文時代からのこの伝統が伝播していたのだろう

年表での対比

                年表 追加しました。2023.05.20
引用ーーーーーー

古代の三つの王朝、夏(?-前1500頃)、殷(前1500頃-1111頃)、周(前1111頃-256)は、それぞれ建寅(立春の月)、建丑(冬至の翌月)、建子の月(冬至の月)を正月とし、その朔日を年始とした伝説があります。
それぞれ夏暦、殷暦、周暦の正月は違っていたということから、中国の戦国時代に唱えられた年始をどこに置くかについての考え方を「三正」といいます。

 夏正(建寅月が正月)=立春正月
 殷正(建丑月が正月)=↑中間↓
 周正(建子月が正月)=冬至正月

周以降、古代~前漢の時代まで冬至のある月が正月でした。

前漢の時代、太初元年(紀元前104年)に漢の武帝が「太初暦」を制定。
太初元年の前十一月の朔日が冬至であることを確認し、「十一月甲子朔旦冬至」を暦元とした。
十一月甲子朔旦冬至とは、夏正による十一月の第一日が甲子(六十干支のはじめ)であり、その日のはじめに朔および冬至の時刻が一致するという理想的な日です。
冬至を含む月を十一月と定義しており、およそ19年毎に冬至が十一月一日(朔日)になる年があります。
19年に1度という周期を「一章」といいます(一章=19年)。
一章の始まりは、最も重要な日である「冬至の十一月中」が、ちょうど十一月の朔日になる年が選ばれました。
これを「朔旦冬至」と呼び、一章の始まりであるため「章首」と称します。

また天文の研究による知識から、二十四節気という正確に季節をあらわす指標もこのとき作られました。
陰陽五行の占いにより、二十四節気の始まりは「立春」となりました。
よって「立春正月」を年始とすることに改め、冬至を十一月に固定して中気のない月を閏月とする歳中閏月法を採用。

改暦において年始を「建寅の月」とし、以後、現在に至るまで太陰太陽暦の年始には「夏正」が用いられています。
月建の順番は周正のままでしたので、正月が十二支の3番目に当たる「建寅の月」となりました。

立春を新しい年の始まりとする暦は、漢の時代の為政者が都合により農耕民族を統治しやすいように変更したともいわれています。
古代から伝承されていた年の始まりは冬至であるため、王様は冬至を年の始まりとした暦を使用し、一般民衆には立春を年の始まりとした暦を使わせていたようです。

この時代は日本でいうと、大和朝廷成立以前の邪馬台国の時代。
ちょうど中国大陸で陰陽家がいちばん盛んだった時期と重なっています...

 

 

------------------------2021.11.15 の記事です

夏の暦とは
として調べてみたが、対応するような事績は見付からなかった。
二十四節気の暦の基本は、戦国時代になって何とはなしに導入された様子のようで、縄文人の太陽暦、二至二分や金生遺跡での立春観測に対応するような事績は見つけられなかった。
縄文人は金生遺跡で冬至と春分の中間点 立春 を観測していたことは間違いないので、戦国時期を対照すれば、2000年以上先行していたとして良いのでは無いか。
二十四節気の暦は太陰暦と対応させるためとの記載もあり、これも縄文人は金生遺跡を天文台として設置する以前に知っていたものと考えられるので、これについても縄文人の先行は明らかだと思う。

チャイナの二十四節気の暦に関する内容は以下に引用した。
誰かこの辺のことについて、教えてくれる人は居ないでしょうか。

   図はお借りしました

引用ーーーーーー

二十四節気(にじゅうしせっき)とは、1太陽年を日数(平気法)あるいは太陽の黄道上の視位置(定気法)によって24等分し、その分割点を含む日に季節を表す名称を付したもの。二十四気(にじゅうしき)ともいう。
目次
1 概説
2 成立の背景
3 二十四節気の置き方
4 暦の指標
5 暦月と節月
6 一覧
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
概説
二十四節気は中国の戦国時代の頃、太陰暦の季節からのずれとは無関係に、季節を春夏秋冬の4等区分する暦のようなものとして考案された区分手法のひとつで、一年を12の「節気」(正節とも)と12の「中気」に分類し、それらに季節を表す名前がつけられている。

重要な中気である夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分は併せて二至二分(にしにぶん)と言い、重要な節気である立春・立夏・立秋・立冬を四立(しりゅう)、二至二分と四立を併せて八節(はっせつ)という。太陰太陽暦では、暦と季節のずれを正すために用いられる。

本来の二十四節気は中国の中原を中心とした地域の気候をもとに名付けられており、日本で体感する気候とは季節感が合わない名称や時期がある。違いを大きくするものとして、日本では梅雨や台風がある。

例えば夏至はまだ梅雨の真っ只中にあり、蝉はまだ鳴き始めていない。小暑では蒸し暑さは増すものの七夕を眺めるような晴れの空は期待できず、暑中ではあるのに地域によって梅雨寒となることもある。大暑は「最も暑い時候」と説明されるが、盛夏のピークは立秋の前後となる。

日本ではこのような事情を補足するため、二十四節気のほかに、土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取り入れた。なお、二十四節気や雑節は、旧暦に追記されて発行されていた。

旧暦の日付は、年ごとに月がおよそ1朔日間(およそ29.5日)の範囲で誤差が生じるため、二十四節気の日付は毎年異なる。それでも四立や八節に加えて一年の中の季節を分ける目安としては十分であった。さらに各気各候に応じた自然の特徴が記述されるものとして、二十四節気をさらに約5日ずつに分けた七十二候という区分けもあり、二十四節気と併せて暦注などに記された(この七十二候も日本の風土に合わず、江戸時代に渋川春海によって「本朝七十二候」に改訂されている)。これらは現在でも農事暦や旬を楽しむ生活暦として使われ、新暦における日付とは異なるわずかな季節の変化、すなわち微妙な季節感を感じ取ることが出来る。
++++そうなのか

日本は明治6年1月1日(1873年1月1日)以降、太陽暦をもとにしたグレゴリオ暦(いわゆる新暦)を採用したため、二十四節気の日付は毎年ほぼ一定となった一方、新暦は旧暦に対し、年初の定義の違いから来る日付のずれが発生することから、いわゆる「月遅れ」が生じることとなった。 この結果、例えば旧暦では「秋」であった「文月(7月)」が新暦では「夏」になったり[1]、7月9日頃から8月11日頃までであった二百十日が新暦9月1日になったり、盆の節会を行う時期が地域によって新暦7月と新暦8月に別れたりするなど、月遅れによるそれまでの慣習との相違が発生しているほか、前記のような元々の中国風の定義も絡み、現在でも若干の違和感が存在することから、日本のメディアでは「暦の上では……」 と前置きして説明されることがある。

このような事情から2011年、日本気象協会は現代日本の気候に合わせた新しい二十四節気を創造する事を目標とした準備委員会を設けた。一般からも意見を募り、2012年の秋頃には「21世紀の二十四節気」を発表し、周知させていきたいという意向を示していたが[2][3]、「これまで培われた微妙な季節感を混乱させる」として反対の声が多く寄せられ2012年9月に計画は中止となり、現在でも二十四節気はそのまま使われている。

一方、中国における「二十四節気」は、2016年10月31日、ユネスコが無形文化遺産への登録勧告を決定している[4]。

成立の背景
月の運行のみに基づく太陰暦では、月と日付が太陽の位置とは無関係に定まり、暦と四季の周期との間にずれが生じるので、農林水産等々の季節に左右される事象を扱うのに不便である。

閏月の挿入による調整を行う太陰太陽暦でも、最もズレの大きい閏月の前後で1か月の半分の15日程度はズレる。そこで古代中国では、太陰暦とは無関係に季節を知る目安として、太陽の運行を元にした二十四節気が暦に徐々に導入された(後述)。なお現代中国では、旧暦の太陰暦のことを「農暦」と呼ぶことがあるが、前述のように太陰暦は季節からずれることから、農業のための暦ではない。

二十四節気はある時期に突然発明されたのではなく、段階的に整備されてきたものである。二至二分はノーモン(日時計の一種)によって観察しやすいので、古くから認識されていたと考えられ、殷周時代には日の最も短い冬至頃に年始が置かれていた。甲骨文字において月名は1、2、3といった序数で表されていたが、時折「十三月」(閏月)が用いられ、冬至から始まる年と月の運行に基づいた月とを調整していた。よって殷の暦法は太陰太陽暦であったが、高度な計算を用いたものではなく、自然を観察しつつ適宜ずれを修正するような素朴な暦法であった。

なお二至二分の名称は、『尚書』堯典には夏至は「日永」、冬至は「日短」、春分は「日中」、秋分は「宵中」と書かれており、
戦国時代末期の『呂氏春秋』では夏至は「日長至」、冬至は「日短至」、春分・秋分は「日夜分」と名付けられている。

二至二分の中間点に位置する四立に関しては『春秋左氏伝』僖公5年の「分至啓閉」という語の「啓」が立春・立夏、「閉」が立秋・立冬と考えられており、『呂氏春秋』において「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の語が使われていることから、戦国時代に一般化したと考えられる。
++++そうなのか

なお、古代中国人は、一年12か月を春・夏・秋・冬の四時に分け、正月(一月)・二月・三月を春、四月・五月・六月を夏、七月・八月・九月を秋、十月・十一月・十二月を冬とした。
周では冬至を基準に年始が置かれていたが、戦国時代になると冬至の翌々月を年始とする夏正(夏暦)が各国で採用されるようになり、これにより冬至と春分の中間点が正月、すなわち春の最初の節気にあたるようになったことで「立春」と名付けられ、他の二至二分四立も春夏秋冬の名が冠せられるようになったと考えられる。

その他の二十四節気の名称は、前漢の『淮南子』において出揃っており、それまでの間に名称が固定化したと考えられる。

八節をさらに3分割したのは、月と対応させるためである。戦国時代には19太陽年が235朔望月にほぼ等しいとするメトン周期を導入した四分暦が使われており、1太陽年を12分割した中気は19太陽年235朔望月に228存在し、7回ほど閏月を設ければ月と中気が対応してゆくことを導き出した。これにより中気をもとに月名を決定することが可能になり、漢の太初暦以降、中気を含まない月を閏月とする歳中置閏法が取られた。なお当時の天球分割法の一つに十二次があったが、節気は太陽の視位置が各次の境界である初点にある時、中気は各次の中間の中点にある時とされた(『漢書』律暦志)。


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