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小竹貝塚とは 縄文時代の交流

           2024.12.03 オオツタノハについてついかしています。

小竹貝塚とは、 ウェブ掲載記事から纏めています

小竹貝塚は縄文前期中葉から後葉にわたる日本海側最大級の貝塚で、貝層の範囲は東西約50m・南北約150mの弧状に拡がっている。

 

                    図

富山県のほぼ中央に位置する呉羽(くれは)丘陵と、その北に広がる射水(いみず)平野との接点に位置し、墓域・住居域・生産加工域などをもつ通年定住型の集落であることが分かりました。
存在時期としては、小竹貝塚は縄文前期中葉から後葉にわたる日本海側最大級の貝塚である。

日本海側の前期貝塚は数少なく、福井県鳥浜貝塚が代表的な貝塚遺跡である。
小竹貝塚は、鳥浜貝塚ほど大きくはないが、内容的には鳥浜貝塚以上のものが期待される。特に、貝塚・集落(竪穴住居群)・墓などが明瞭に残っており、村の構造を把握できる例として重要である。

また、犬の骨が多く出土していることも特徴である。食料としてイヌを食べるのは弥生時代以降のことで、縄文時代は猟犬として家畜化されたものである。小竹貝塚では埋葬されておりこれを裏付ける。遺跡には多くの犬がいたことだろう。出土している糞石も、多くが犬のものとみられる。

シジミ貝 貝類はシジミ類・タニシ類など淡水産貝が90%以上を占め、
他にサザエ・ハマグリなど海水産が僅かに見られる。
魚類ではフナ属を含むコイ科とマダイ・クロダイなどのタイ科が最も多く、淡水産と外洋性の両方とも多かったと云う。

 

             図 土器分布


小竹貝塚では、各地の特色をもつ土器が数多く搬入、または別の箇所で模倣されたものが入ってきており、直接ではないですが各方面との交流や影響を受けたことが言えます。

 

           図 木製、骨製品

小竹貝塚は、縄文前期の低湿性貝塚である。低湿性貝塚では、水の存在と酸素供給が断たれ、元来腐朽してしまう漆製品・繊維製品・木製品・編組製品・樹皮製品などが残り、ありとあらゆる遺物が残っているのである。

そのほかでは、石器や玉類の石材や貝輪の素材となる貝からも遠隔地からの伝播や交流をみることができます。このことは小竹貝塚が潟湖に面しており、丸木舟で移動しやすいということも理由のひとつであると思われます。 
石器類 石鏃・石錐・磨製石斧・打製石斧・石錘・砥石・石皿などが見つかっている。
しかし漁労・狩猟・採集など食生活にまつわる労働形態を特定できるほど石器の量は検出されていない。
舟運による集散地の可能性があるのでは。

   図 オオツタノハ貝輪の出た場所

オオツタノハ貝輪が出ているのでそれまでの太平洋側から北海道へと云う経路が、九州の東名遺跡を含めて日本海側からもという産地を含めて列島全体の大きな交流が見えてきたようです。

             図 オオツタノハ貝輪

縄文前期に今の富山県中央部に生きた人々はどこから来て、どんな特徴をもっていたのか。DNA分析が可能だった13体について、母から子に伝わるミトコンドリアDNAの解析が行われた。その結果、
現代の沿海州先住民や北海道の縄文人に多く見られる北方系タイプが最も多く、
次いで東南アジア起源の南方系タイプ。
このほかも旧石器時代にバイカル湖周辺で発生したと見られるタイプや、
東南アジアから中国南部に多いタイプだった。
中国東北部や朝鮮半島に多く、現代日本人の3人に1人が属するタイプはいなかった。

これまで蓄積されてきたDNA分析で、中期以降の北海道や関東の縄文人は北方系と南方系の広い地域から遺伝子を受け入れてきたことはすでに分かっていた。小竹貝塚でも同様の結果が得られたといえる。

調査した国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長は
「形態学的には縄文前期とそれ以降では異なる形態をしているという説があったが、
(小竹貝塚での分析で)前期と中、後、晩期のミトコンドリアDNAが共通であることから遺伝的連続性が確認できた」と成果を説明する。
「また、現代日本人に一番多いタイプが見当たらないことから、これが(間接的に)渡来系弥生人によってもたらされたと判断できる」と、縄文から弥生を経て現代に続くDNAの道筋を解説する。

現代日本人で最も大きな比率を占め、渡来系弥生人の主体と推測されているハプログループD4が、小竹貝塚から検出されなかったことは、ハプログループD4が渡来系弥生人の系統であるという仮説(篠田2007)を支持している。

 

             図


中期以降関東縄文人に検出されるハプログループが、縄文時代前期に検出されたことは、縄文時代前期から中後期にかけての縄文人の遺伝的な連続性が証明されたこととなる。

また、すでに縄文時代前期において、北方(N9b、A、G)と南方(M9a、M7)という異なる起源地を持つ可能性のあるDNAの系統が混在していることが分かった。

表.ミトコンドリアDNAのハプログループの特徴
グループ 特徴
N9b 現代の沿海州先住民や北海道の縄文人に多い。
北方系。
縄文人を特徴付ける。
A

北東アジアに多く、旧石器時代にバイカル湖周辺で誕生し、この地域から南下してきた。
北方系。
M7a 現代の沖縄県に多い。
南方系。
縄文人を特徴付ける。
M7b
M7c
東南アジアから中国南部に多い。
南方系。
M9a 東南アジアに起源を持ち、雲南~チベットと東アジアの異なる地域に拡散した。
南方系。

D4
D4a
日本、朝鮮半島や中国東北部に30から40パーセントを占める。渡来系弥生人の主体をなしていた

図はお借りして補足しています


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コメント一覧

johmonkinseistar
コメント有り難うございます、後期晩期から弥生時代に掛けて、DNAの変化を、吉武高木遺跡などと絡めてどのように理解出来るものなのか興味があります。その辺りを解明できないでしょうか。また7300年前の鬼海カルデラの噴火でどのように変化したものなのかもで同じですが。
katumoku10
いい情報をありがとうございます。
縄文前期のmtDNAが「現代の沿海州先住民や北海道の縄文人に多く見られる北方系タイプが最も多く、次いで東南アジア起源の南方系タイプ。」ですか。縄文中期からだと考えていたのですが、縄文海人は隠岐の黒曜石を持って行って、嫁さんと交換してきたの証拠ですね(#^.^#)
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