刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?

2025-03-12 18:57:28 | 古代史

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#2024-08-09 17:50:56に記事にしました。百済の歴史に謎が多いのは日本書紀に基づくものが原因です。藤原不比等の系譜を隠ぺいするためだと分かりましたので、改めて検討して(注1)に4・5世紀の東アジアの図を加え、説明を加えました。ややこしい話ですので現在の推理ということで、ご理解ください。疑問などございましたら遠慮なくご指摘ください。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

#2022-09-03 03:01:11に記事にしましたが、その後分かったことを入れて追加しました。よろしければまたお付き合いください(#^.^#)

#中々、勉強が進みませんので、次の記事が書けませんでした。申し訳ないです。このテーマを前から考えていたのですが、丁度いい動画を見つけましたので、記事にすることにしました。最後までお付き合いください(*^▽^*)


百済の歴史は日本史の一部【日本古代史】~百済の歴史を取り戻そう~
社会科教室@YouTube


坂田隆「古代の韓と日本」新泉社(1996年)を参考にして考えていますが、一応、現時点での推理(仮説)を書きます。と言いますのも、百済についてのシナの史料と記紀や三国史記の内容が余りにも違うということは前から指摘されていましたが、通説では違いを無視して、矛盾がないように説明しています。三国史記は1⒉世紀の新羅の金富軾が完成させたものなので、記紀の内容とも若干ずれはあるものの、日本書紀を参照したのは明らかですから、記紀の内容が天皇の歴史書だという思い込みを捨てると、シナの史料と矛盾するならば、シナの史料をベースに検討しなければならないということなのです。

坂田氏は、この本の第一部で、「一つの百済」説では説明できない、以下のようなシナの歴史書と日本の史書で異なる内容があることを示しています。

①百済の所在地  
 シナの史書では、四世紀後半は楽浪郡に都を置き、五世紀には遼西の晋平郡晋平県を都としたとあります。日本史書はずっと半島南部尉礼(いれ、漢城)・久麻那利(くまなり、熊津)に居たことになっています。

②国力
 371年に高句麗の平壌城を攻め、高句麗故国原王が戦死して、翌年には東晋が百済王余句(近肖古王)を鎮東将軍領楽浪太守に封じています。490年には北魏が数十万騎で百済を攻めましたが、撃退しています(南斉書)でかなりの強国と見られます(注1)(2025.3.12 赤字追加)
 一方、日本史書では天皇が派遣した将軍によって王が廃立され、日本に王子を差し出していた弱小国でした。

③対高句麗敗戦と王都南遷の年代 
 百済が高句麗に敗れて南遷するのが502年以降ですが、日本史書では475年に敗れ、477年に南遷したとなっています。

④百済王の名前
 五世紀以前の十人の王名に一致するものがないのですが、従来は類似しているということで同一人物と考えています。(2024.10.11 付録に歴代百済王の年表を示す)

⑤系譜
 シナの史書に見える余慶・牟大が日本史書では蓋鹵王(がいろおう)・末多(むた)とありますが、従来は王名の類似で同一と認めて、シナの史書と日本史書で系譜が異なることを無視していました。

⑥在位年代
 蓋鹵王は諱が慶司なので、宋書の百済王余慶と同一人物としていますが、宋書で余毗の在位は430年-450年で余慶は457年ー458年在位となっていますから王位交代が日本では 蓋鹵王(455-475)の在位中に行われたことになります(坂田上掲書 pp.75-76)。

つまり一時期に別々の「二つの百済」があって、それらが六世紀初頭に一つの百済として合一したことが述べられています。

日本書紀の記述は信頼できないことが、疑いではなく完全に分かりましたので、日本書紀に基づく百済に関する情報を疑うべきです。

百済は元々北方アジアのツングース系部族の高句麗と同様に扶余族から分かれた国ですので、遼西を領有した時期があってもいいのですが、日本書紀ではそれを無視していますので、百済の歴史を詳しく説明したくないのだと分かります。それは百済がかつては楽浪を支配し、日本よりもシナから上位の冊封を受けていたことも事実であり、日本の古代史にも関係するからだとすぐに分かります。

坂田氏は日本書紀に対して疑いの目は向けるものの、完全否定までしていないので、百済が二つから一つになったと考えれば矛盾は解決するとしています。

それでは、二つの百済の正体は何だったのかですが、ひとつは高句麗と同族の百済です。『隋書』によると、高句麗の東明王の子孫の仇台が、二世紀末の遼東太守公孫度の時代に204年に帯方郡となる土地に存在していました。半島の韓人・濊人が強盛になって暴れたので、師升王の一族の支配する倭国は公孫氏の支配する楽浪郡との交易ができなくなり、衰退します。一方で旧奴国は半島南部の鉄を入手して鉄交易ネットワークを列島内に築き、隆盛になって、倭国を苦しめました。これが倭国大乱です。公孫度が仇台を懐柔するために娘を娶らせ、公孫氏は帯方郡を設置して半島の混乱は収束しました。仇台の百済は隆盛になり、公孫氏が魏の司馬懿によって滅ぼされた後も馬韓を支配し、西晋が衰退して東晋の時代に遼西も領有した強国になりました。

もう一つの百済は、日本書紀に述べられた半島南部にづっと居た百済です。三国志で紹介された馬韓五十余国の一つの伯済国です。馬韓は「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」で説明しましたように、紀元前230年頃に戦国七雄の一つである韓が秦に滅ぼされ、前223年にはが滅亡しています。滅ぼされた国の人々は馬韓に逃亡したと考えています。



実は、wiki「百済史年表」の冒頭に「『広韻』には、百済王の扶余氏は「中国呉の夫概から出た扶余氏」と記録されている。」と紹介されていました。呉の夫概を調べると、なんと、最後の呉王夫差の父闔閭の弟でした。「紀元前505年、兄が呉越の戦いの最中に、こっそりと陣払いをし、自立して呉王を名乗ったが、戻ってきた闔閭の兵に敗れて、楚に亡命した。その後、楚から領土の堂谿を与えられて、その子孫は堂谿氏と称した[2]。」とwiki「夫概」にありました。つまり、夫差の子孫が紀元前4世紀初頭に福岡市吉武・高木遺跡に降り立った天御中主ですから、同じ呉王族夫概の末裔が馬韓に逃げて伯斉国の王となったと推理できます。当然、伯斉国の人々は倭人です。天御中主が居住した地域は紀元前11世紀以前から居住していた倭人の支配地だったと考えています。(2025.3.12 赤字追加)

すでに7000年前(縄文早期末)の鬼界カルデラ噴火によって生活を奪われた中九州などの縄文人が半島に逃れて生活していましたので、半島南部の倭人は縄文人と混血していたという証拠が大成洞遺跡などの人骨を遺伝子解析したウィーン大学の研究成果から分かっています。3世紀から5世紀(日本の古墳時代前期から中期)の二人の王(首長)とそれぞれの殉葬者の人骨です。その結果、縄文関連の祖先が少なくとも紀元 500 年頃の 三国時代期までは韓国で高いレベルで存続していたことがわかったと報告されています。現在では韓半島にほとんどいませんので、白村江の敗戦以降にほとんどが日本列島に帰還したと推理できます(注2)(2025.3.12 赤字修正)

馬韓の伯済国は呉王族が支配する倭人の国だったようです。(注3)

さて、六世紀初頭に高句麗に敗退した遼西の百済が、故地の馬韓に逃げ延びたのですが、百済王が民衆に暴虐な振る舞いをするので、馬韓の国人が立ち上がり、百済王を殺して王を立てたと「日本書紀 武烈紀」にあります。殺された王が牟大(むだい、東城王、生年不詳 - 501年)です。そして、この時に百済王を名乗った伯済国の倭人が武寧王(ムリョンワン、462年 - 523年)だと推理しています。(2022.9.5 赤字追加)

wiki「武寧王」によれば、『梁書』では余隆、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、「諱は嶋王という。これは昆支王の子である。則ち末多王(東城王)の異母兄である」としながらも、「今考えるに、島王は蓋鹵王の子である。末多王は昆支王の子である。これを異母兄というのはまだ詳しく判らない[1]」としている。とあります。

日本書紀では史実を誤魔化すために、「武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。」としています。坂田氏は昆支(加須利)君の子で、末多(牟大)王とは異母兄弟と推理していますが(上掲書 p.108)、百済の遠祖の、東明王とは、まったく血はつながってはいないというのが刮目天の推理です( ^)o(^ )

半島南部の倭人国家だった任那を百済に割譲したのも、百済復興のために日本が必死になったのも、百済が、ヤマトの大王家と同じ呉王族の倭人国家だったからと考えると納得できませんか?(^_-)-☆

523年の武寧王没後、百済王を継承したのは聖王(余明)ですが、すでには513年に倭国で死去した武寧王の太子淳陀の子孫の高野新笠(たかの の にいがさ、天高知日之子姫尊あめたかしるひのこひめのみこと)が桓武天皇の生母ですから、天皇陛下とゆかりがあるのは、呉王族の子孫だったということです。あくまでも推理ですが(^_-)-☆

と書きましたが、先ほど「藤原鎌足は日本人じゃない?ブッブー!( ^)o(^ )」に訂正しました。武寧王系統の百済王族と鎌足系統の藤原氏は倭人系(O-47z)です。呉王族(原始夏人系O1a)ではないと考えています。2024.1.30 赤字訂正)

しかし、「【刮目天の古代史】天智天皇の謎?( ^)o(^ )」で明らかにしたように百済王義慈王(多良王、鎌足の父)と天智天皇(中大兄、中津王)は押坂彦人皇子(敏達天皇の皇太子、百済王武王)を父とし、母は敏達天皇皇女ではなく武寧王の子孫糠手姫皇女(百済の属国の済州島耽羅国王女)でした。ということは、天皇の皇祖神である天御中主は呉王族のY-DNA(原始夏人系O1a)と考えていましたが、半島南部で呉王族が絶えて倭人の有力者から養子を迎えて王家を存続させたので、倭人のY-DNA(O-47z)になったか、初代呉王太伯の父古公亶父(周の先王)あるいは、その先祖で、始祖神の天皇伏羲の末裔で「夏」を建国した禹貢がすでに倭人のY-DNAになっていた可能性があると考えられます。しかし、これは人間の染色体23対46本の中の1対である性染色体の1本のY-DNAレベルの話でしかなく、もっと重要で、驚くべき奇跡は日本の天皇家が四千年の伝統・文化を今日まで継承していることなのです。これは「【刮目天の古代史】中国文化の本家は日本だった?!( ^)o(^ )」で述べたとおりです。(2025.3.12 追加)



【参考記事】
渡来人は異民族とは限らない?

(注1)2025.3.12 追加

「三国史記」百済本紀によれば、高句麗長寿王が百済の首都漢城ソウル特別市)を陥落させ、蓋鹵王(余慶)が処刑されたので、子の牟都(文周王)は、熊津(日本書紀の久麻那利)に遷都しました(475年)。「日本書紀」では雄略天皇が百済の汶洲王に久麻那利を下賜して国の復興をさせたとあります。文周王は高句麗に対抗するために宋に朝貢しましたが、部下に暗殺されました。わずか13歳の長子三斤王が即位しましたがわずか3年で急死したとあります(479年)。「日本書紀」雄略天皇23年に当時倭国に人質として滞在していた蓋鹵王の孫牟大(東城王を帰国させ百済王につけたとあります。「公州丹芝里古墳群横穴墓5世紀末に東城王を護衛して百済に渡った倭人軍士のとみる見解もある(出土物のなかに倭系の須恵器とみられるものがある)[3]」とwiki「東城王」にあります。高句麗の侵攻に対抗するために、新羅との同盟を結び、495年には新羅を救援して高句麗を退けている。高句麗が北魏に朝貢するだけでなく、南朝斉に朝貢して冊封体制に入ったので、東城王も南斉に朝貢しました。北魏が百済に騎兵十万で攻撃したが大破したという記事が「南斉書」に在りますが、北魏が東城王の居た熊津(忠清南道公州市)に騎兵で攻め寄せることなどあり得ない話ですから、東城王が百済を強国と見せるために伝えた可能性が高いと考えられます。

①百済の所在地については、かつて百済が強勢だった四世紀の近肖子王時代は遼遼にまで進出していたこともあったので、南朝斉としては敵対していた北魏を政治的に抑え込むために百済に撃退されたという虚報を残したと考えられます。

ということで百済が北魏を撃退したという②国力の記述は正しくないと考えています。

また、③対高句麗敗戦と王都南遷の年代、⑤系譜、⑥在位年代については日本書紀の記述が意図的な間違いの可能性が高いと考えます。④百済王の名前については、王名がシナの史書では余句、余映 、余毗 、余慶 、 牟都 、 牟大 などとなって一致していないのですが、倭の五王でも同様です。その中で毗有王が餘毗となっていますので、すべて同一人物と考えられます。

(注2)
古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明!
2022.06.23 THURSDAY 川勝康弘@ナゾロジー
オーストリアのウィーン大は古代朝鮮(4~5世紀)の「伽耶」の古墳において、日本人に特徴的な縄文人のDNAを多く持つ人々が埋葬されていたと発表。伽耶で当時の倭国人はいったい何をしていたのでしょうか?


結果、8人中6人のDNAが現代の韓国人に類似する要素を多く持った遺伝子だった一方で、残りの2人のDNAは日本の縄文人に近い遺伝子を多く持っていることが判明しました。

現在の韓国人の遺伝子は非常に均質性が高く遺伝的に孤立しており、縄文人に特徴的な遺伝子を持った人々はほとんど存在しません。そのため研究者たちは、古代の朝鮮半島に住む人々は、現代に比べて遺伝的多様性が大きかったと結論しました。

しかし、かつては存在したはずの縄文人の遺伝子は、なぜ現代の韓国人にはみられなくなってしまったのでしょうか?

この疑問について研究者たちは、現在の韓国人の祖先を構成する、中国北部出身の集団が原因であると述べています。この集団は朝鮮半島の海岸線に沿って勢力域を拡大したと考えられており、伽耶などの地域に住んでいた縄文人の遺伝子を持つ人々は最終的に排除・吸収された可能性があるようです。


中国北部出身の集団は衛満率いる燕人の武装集団のことでしょう!箕子朝鮮を滅ぼし、半島北部先住の縄文人男性を皆殺しにした可能性があります。半島南部は倭国の勢力圏でしたので、縄文人と江南系の倭人との混血が進んだと考えています。

(注3)百済の建国について、「百済は『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国を母体として、漢城(現在のソウル)を中心として、少なくとも4世紀前半頃までには成立していたと見られ、日本の学界ではこの4世紀前半頃の成立とする説が定着している[7]。」とwiki「百済」にあります。しかしこの百済はツングース系の百済ではなく呉王族が支配する倭人の百済で、すでに紀元前三世紀には馬韓に存在していたので、三世紀末に編纂された「三国志 韓伝」にも記載があるわけです。

また、高句麗に敗けた東城王の晩年について「三国史記」は以下のように伝えているが、死去後の推移から考えて、高句麗に対抗するために武烈天皇が武寧王を強力に支援して王に立てたようなので、部下に裏切られて殺され、その部下を武寧王が討ったという話の真相は少し違うかもしれないと推理している。(2024.8.18 紫字修正)

王権と国力の回復に努め、外征にも成果を挙げた東城王であったが、在位の晩年には暗君と化した。499年に大旱魃が起こって国民が餓えたが、国倉を開いて民に施そうとするのを許さず、漢山(京畿道広州市)の民2千人が高句麗領に逃亡した。それにも拘らず500年には王宮の東に高さ5丈もの臨流閣を築き、池を掘り珍しい鳥を飼うなどの贅沢にふけり、諫言をする臣下を遠ざけた。さらに同年にも旱魃があったが、側近とともに臨流閣で一晩中の宴会をするなどしていた。こうした状況のなかで501年11月、衛士佐平の苩加[7]の放った刺客に刺され、12月に死去した。諡されて、東城王という。諡された百済王は初めてであった。wiki「東城王」より)

【付録】百済の歴史年表

※百済はB.C 18 ~ A.D 660年まで678年間31代の王が続いた。

在位(期間) 参考
1 温祚王 BC18~AD28(46) 高句麗の初代王東明聖王の息子。元々の姓は解。東明聖王の本妻からの息子(後の榴璃明王)が太子になると高句麗から南下し東ソウル(河南慰禮城)に定着した。
2 多婁王 28~77(49) 温祚王の長男。
3 己婁王 77~128(51) 多婁王の長男。
4 蓋婁王 128~166(38) 己婁王の息子。
5 肖古王 166~214(48) 蓋婁王の長男。素古王又は速古王とも言う。
6 仇首王 214~234(20) 肖古王の息子。貴須王とも言う。
7 沙伴王 234(1) 仇首王の長男。沙沸王または沙伊王とも言う。
8 古爾王 234~286(52) 蓋婁王の息子、肖古王の弟。
9 責稽王 286~298(12) 古爾王の息子。靑稽王または責贊王とも言う。
10 汾西王 298~304(6) 責稽王の長男。
11 比流王 304~344(40) 仇首王の次男。
12 契王 344~346(2) 汾西王の長男。
13 近肖古王 346~375(29) 姓名は解餘句。比流王の次男。古事記には照古王、日本書紀には肖古王と書いてある。
14 近仇首王 375~384(9) 姓名は解須。近肖古王の長男。
15 枕流王 384~385(2) 近仇首王の長男。
16 辰斯王 385~392(7) 近仇首王の次男。
17 阿莘王 392~405(13) 枕流王の長男。
18 腆支王 405~420(15) 阿莘王の長男。日本書紀には直支王と書いてある。
19 久爾辛王 420~427(7) 腆支王の長男。
20 毗有王 427~455(28) 久爾辛王の長男。
21 蓋鹵王 455~475(20) 姓名は扶餘慶司。毗有王の長男。近蓋婁王とも言う。475年高句麗(長壽王)の攻撃で没。
22 文周王 475~477(2) 蓋鹵王の息子。
23 三斤王 477~479(2) 文周王の長男。
24 東城王 479~501(22) 姓名は扶餘牟大・扶餘摩牟・扶餘麻帝など。文周王の弟である昆支の次男。※大阪府羽曳野市の飛鳥戸神社は昆伎王を祀っている。
25 武寧王 501~523(22) 姓名は扶餘斯麻または扶餘隆。日本書紀には東城王の腹違いの兄と書いてある。
26 聖王 523~554(31) 姓名は扶餘明襛。武寧王の息子。538年都を熊津(今の公州)から泗沘(今の扶餘)へ移り国号を南扶餘と名乗る。
27 威徳王 554~598(44) 姓名は扶餘昌。聖王の長男。
28 惠王 598~599(2) 姓名は扶餘季。聖王の次男。獻王とも言う。
29 法王 599~600(2) 姓名は扶餘宣または扶餘孝順。惠王の息子。
30 武王 600~641(41) 姓名は扶餘璋。法王の息子。※薯童謠
31 義慈王 641~660(19) 姓名は扶餘義慈。武王の長男。


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【衝撃?】邪馬台国丹波説がでました~(@_@)

2025-03-10 22:45:23 | 古代史

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衝撃!邪馬台国は丹波にある説|伴とし子
神社チャンネル@YouTube


興味ある話題を有難うございます。丹波説が出ましたか(#^.^#)

邪馬台国問題が解決しない理由は、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への行程記事がどのようにでも解釈できるので、自分が思う場所をなんとか理屈をつけて主張しても、他の方たちから受け入れられないからなのです。つまり行程記事はある政治的な理由で作られたようなのです。

ですから、行程記事は一旦横に置いて、倭人伝に書かれた邪馬台国の記述に合う場所を候補として見つけ出し、複数の候補でどこが一番可能性が高いのかを議論すればいいのです。

まず地理的な条件ですが、女王国の東側の海を約千里渡るとまた倭人の国が在るとあります。范曄後漢書にはその倭人の国が狗奴国とあります。范曄の時代は五世紀ですから倭の五王の使者の情報を基にして正しく書いたと考えられます。范曄の時代は千里は約450kmですからこの条件に合う場所は日本列島の中では限られています。
残念ながら、丹波説は邪馬台国の地理的条件にあてはまらないと思います(^^;)

九州説なら東側が海で約450kmの場所は纏向遺跡となり、そこが狗奴国で、女王国は逆に瀬戸内海を西に行った宇佐市周辺です。

そして、倭人伝にある卑弥呼の墓は「径百余歩の冢(ちょう)」つまり、直径約150mの円形墳墓です。卑弥呼の死の前後の記事から短期間に作られたと分かり、ただ土を盛っただけの、墳頂に棺を置いた墓のようです。

宇佐市周辺で探すと宇佐市安心院町「三柱山古墳」を発見しました。その西側の地名が「血野(現在は知野)」とあり奴婢約百人を殺して殉葬したことを示しているようです。そして東側には宗像三女神を祀る三女神社があり、日本書紀の一書にある三女神降臨の伝承地になっています。西側にV字溝があり、その中から銅鏃が見つかっていますから、兵士によって護られた城柵があったと考えられます。そこに弥生後期から古墳初期の集落「宮ノ原遺跡」があり卑弥呼のものよりも一回り小さな直径約120mの円墳などがあり、周辺に石棺群が多数見つかっています。その他にも墓の遥拝所として同名の神社があり、三女神の墓石のような三基の石塔が「三柱山古墳」に正対して置かれ、スサノヲの子孫を祭神とする摂社が在ります。しかし「三柱山古墳」を直接目視できないように土が高く盛り上げてあり、横穴が掘られていて馬頭観音などが置かれていますが、そこの地名が「ヒカケ」なのです。卑弥呼が日食が原因で殺されたことを暗示した地名のようです。他にもいろいろと面白い伝承がありますので、今のところ邪馬台国の有力な候補と考えられます。詳しくは「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」をご参照ください。

ですから、このような候補地を探して議論しないと邪馬台国問題は解決しないと思います(;^ω^)


そうだそうだ、一番大事なことを忘れていました。記紀が「天皇の歴史書」だとほとんどの方は洗脳されていますが、記紀に卑弥呼が登場しないのは藤原不比等による「勝者の歴史書」だったからです。

卑弥呼は不比等にとって都合が悪い存在なので隠しましたが、アマテラスとスサノヲの誓約で生まれた宗像三女神の市杵島姫だと分かりました。宇佐神宮の主祭神といってもいい、真ん中で祀られている比売大神です。日本全国で祀られています。

不比等が律令制度を作って神社行政まで握ったので、ほとんどの神社伝承は記紀神話に従う伝承になっていますし、神社名や祭神名まで変えられています。

丹後半島はヤマト王権成立で活躍したスサノヲの子孫の根拠地なので、周辺にたくさん神社伝承をなどを創作していますので誤魔化されます(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!(@_@)」参照)。

卑弥呼とその弟赤坂比古(和邇氏の祖、日本書紀の日触使主)を祀っていた近江八幡市日牟礼八幡宮に不比等が実際に訪れて社名を変更させた歌が残っています。詳しくは「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)」をご参照ください。

長々とお邪魔しました(;^ω^)

【関連記事】

巨大円墓は卑弥呼の一族和邇氏のもの( ^)o(^ )

卑弥呼は古代豪族和邇氏の祖ですが、和邇氏は縄文系ムナカタ海人族で宗像氏・宗形氏などと同族です。天理市和邇坐赤阪神社の祭神が市杵島姫命です。ムナカタ系の古墳は巨大円墳なので、4番目に大きな奈良市富雄丸山古墳が応神天皇の皇太子で日触使主の娘宮主宅媛(みやぬしやかひめ)が母である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が被葬者だと分かりました。宇治天皇に即位していたのですが、仁徳天皇に暗殺されたと推理しています。不比等はその史実を隠したかったので、応神天皇の崩御後の皇子たちの内紛とそっくりな、あり得ないような話を初代神武天皇でも創作しています。そこまでして不比等が隠したかった理由が分かりました。詳細は「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」参照してください。

神話が隠した不自然な史実

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【刮目天の古代史】倭国大乱の原因を理解すると卑弥呼の登場まで分かる?(@_@)

2025-03-08 22:36:33 | 古代史

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@katumoku10

いい話題を有難うございます。 倭国大乱が卑弥呼の登場のきっかけですので、原因とどういう勢力間の争いなのかを正しく理解する必要があります。 さらに、これがわかると卑弥呼の正体も日本の建国過程も解明できますよ(^_-)-☆。

原因についていくつも説があるとのことですが、本当の原因は、107年に後漢に朝貢した倭国王帥升、正しくは奴国宮廷楽師の師升と、そのクーデターを逃れた奴国王族の戦いと分かったからです。勿論、推論ですが物証もあり、倭国大乱がどこでどのような状況だったか、結果はどうだったを推理できる考古学の証拠もあるのでかなり確かな話だと考えています。

詳しくは【刮目天の古代史】蛇鈕の金印は奴国王を示す!」・【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)  

@World History man

コメントありがとうございますm(__)m 大変勉強になります。 ちょくちょく見させていただきます。

@katumoku10

@World History man さん ありがとうございます😊

古代史には謎が多く、さまざまな仮説が登場しますが、ほとんど事実で検証されませんので空想が多いですね!科学的なセンスがないと混乱ばかりです😵‍💫

その分色々と空想できて楽しいですが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果によって検証して歴史の真相に迫る科学的な手法を身に付けると楽しめますね。 疑問など遠慮なく教えて下さい。

人間には間違いがあるという立場ですので、よろしくお願いしますね🙇
 
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【関連記事】
【検証18】倭国大乱の痕跡だ!(左クリックで拡大)(左クリックで拡大)

【刮目天の古代史】空想は楽しいが・・・(;^ω^)

記紀が天皇の歴史書だという刷り込みに気づくと、様々な謎が解けてきます。

事実で文献の信ぴょう性を議論する科学的な手法が歴史の真相に迫る大事なステップです(#^.^#)

記紀神話は江戸時代にできたのです。それまでの神話は、日本書紀が創作したものに、神仏習合、修験道、道教などに影響を受けた中世日本紀だったのです。明治政府が神仏分離令を出したので、廃仏毀釈運動が起こり、神を祀る寺院が焼き討ちに遭い大事な証拠が失われてしまいました(;^ω^)

(詳しくは「天皇即位の密教の儀式の正体?」参照)

王年代紀は記紀神話を正した!

10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として倭国から日本に国号を変えたことが正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

 

 


 

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【刮目天の古代史】事実で検証しない仮説は空想?( ^)o(^ )

2025-03-06 20:52:45 | 古代史

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隋書倭国伝・多利思北孤(タラシヒコ)の謎に迫る
古代史ハルキー@YouTube

@katumoku10
いい話題を有難うございます。

史料の信ぴょう性の問題だというのは明らかで、隋書と日本書紀のどちらかが誤りだということですね。ですから、客観的に見て判断する必要がありますね。

隋書俀國伝を636年(貞観10年)に編纂した魏徴が、600年に隋の文帝に朝貢した倭国王の名前を書き加えることに何らかの動機があったのでしょうか?
630年の第1回の遣唐使から聞いたアメノタリシヒコを書き加えたのならば、それによる魏徴のメリットは何でしょうか?

しかし600年の遣使の記事で、多くの方が良く分からないと思っているのは、「天を兄、日を弟である倭王」の部分ではないでしょうか?

これは倭国王の政治理念の話なので、建国の歴史を解明しないと分からないと思いますから、ここでは触れませんが、明らかに弟の倭王は男王ですので、女帝ではないのです。ですから、男王名アメノタリシヒコは最初から書かれていたと見るのが妥当でしょう。

ということは、日本書紀では推古天皇ですから、推古天皇の遣使ではないということです。

ここで重要なことは推古天皇が実在人物なのかどうかということです。沢山記事があるから実在人物だというのはちょっといただけません。もしも実在の女帝だったら、600年の遣使は九州王朝の倭王の話ということになります。しかし、九州王朝とヤマト王朝の二朝並立が存在した考古学的な証拠はなく、日本書紀の記述が正しいという前提で作られた説なのです。倭の五王も建国の歴史を解明するとヤマトの大王だったと分かりました。

しかし、日本書紀はとても「天皇の歴史書」の内容ではないことは、冷静になれば直ぐに気づくはずです。もしも自家の歴史書を書く時に、自分の先祖のスキャンダルを面白おかしく書く人は居ません。通説でも、編纂に藤原不比等が関与したことは認めています。

日本書紀の内容を精査すれば、藤原氏が権力を持ち続けるのに不都合な史実を誤魔化して、歴史を改ざんしていることが推古女帝の話からも分かりますよ。日本書紀が「藤原氏の勝者の歴史書」だということに気付けば日本の古代史の謎はほとんど解けますよ。詳細は「【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?( ^)o(^ )」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)


@takedaharuki
そうです。この問題。隋書と日本書紀の矛盾といったところが根底にあるので、どこを疑うかといったあたりが要だと私は考えています。しかし、その疑う場所についての仮説が多くあり、どの仮説が妥当かの判断は難しいところです。それぞれの論者が持つ物差しによるところもあります。

@katumoku10
 @takedaharuki  さん 早速お返事ありがとうございます。

客観的な評価が得られる科学的な考察が仮説には必要ですよ(#^.^#)。

仮説は事実、つまり考古学や民俗学などの成果で検証すると、棄却すべきかどうか分かります。

検証できない仮説は空想と考えるのが妥当です。

しかし、もしもその仮説が正しいとしたらどういうことが起こるのかを事実で検証できますから、必ずしも空想だとは限りません。こういう作業を繰り返すことにより、帰納法的にその仮説の妥当性・蓋然性が分かります。

それもできないような仮説はさらに空想と思うべきです。神が与えたとか、原理的に検証できないものは仮説とすることはできないのです(;^ω^)

ですから、アブダクションと呼ばれるこのような科学的な手法で仮説構築する必要があります。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」をご参照ください。

【関連記事】

【刮目天の古代史】科学的な解明方法とは?(#^.^#)

この手法は、関連する事実に基づき仮説を検証し、結果によって変更・修正・拡張・詳細化を行い、検証を繰り返すことにより仮説構築する科学的な推論手法です。

【古代史問題の科学的解決手法

空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)(その2)(その3)

日本書紀が天皇の歴史書だという洗脳が解けると、古代史の謎はイモずる式に解けてきます。古事記は日本書紀が隠した史実を暴露する暗号書だったのです。暗号を解くと、不比等によって隠された二人の天皇が現れてきます。豪華な副葬品で話題になった富雄丸山古墳の被葬者もこのような検討によって判明しています。これによって倭の五王はヤマトの大王(オオキミ、天皇)であることが分かり、九州王朝説は架空の仮説だと分かりました。

【刮目天の古代史】天智天皇の謎?( ^)o(^ )

600年に遣隋使を送ったアメノタリシヒコは欽明天皇崩御後に即位した敏達天皇でした。日本書紀はこの時代に、物部・中臣氏と蘇我氏の崇仏廃仏戦争があったとされていますが史実ではなく、蘇我馬子とされた応神天皇の子孫が敏達天皇を討ってヤマトの大王を取り返した用明天皇のことだと推理しました。607年に隋の煬帝に送った有名な聖徳太子の手紙から、用明天皇が送ったものだと判明しました。つまり、アメノタリシヒコは二人いたのです(詳細は「【わかった!】アメノタリシヒコの正体!」参照)。しかも二人ともヤマトの大王ですから九州王朝説は成り立ちません(;^ω^)

幻の九州王朝説がなぜ生まれるのか?(;^ω^)

九州王朝説も、日本書紀はヤマトの大王の系譜を正しく述べた天皇の歴史書だという思い込みが根底にある、つじつま合わせの仮説だったのです。不比等の意図を推理して仮説を事実で検証すれば、継体天皇も筑紫の磐井の乱も持統天皇も創作だと分かります(詳細は「「継体持統」によって架空の天皇を示唆したのか?」参照)。

日本の古代史はヤマト王権の成立過程を解明すると九州王朝は存在しなかったと分かります。

最後まで読んでいただき、心より感謝します。

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【ほとんどの日本人が知らない】建国の本当の英雄?( ^)o(^ )

2025-03-05 22:56:39 | 古代史

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#多くの皆さんは表題からヤマトタケル(日本武尊)を思い浮かべると思います。でも、ヤマトタケルの武勇伝は日本書紀で創作された物語です。本当の英雄をモデルにしていますので、その話をしましょう(#^.^#)

下図は卑弥呼の死の直前の状況ですが、それは死の直後の話から始まります。狗奴国の実力者で、狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)と同族のニギハヤヒ大王の子アメノカグヤマの子孫の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、記紀の仲哀天皇)が率いる狗奴国軍が倭国(奴国)に到着すると、倭国の実力者で卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主、和邇氏の祖)が姉の死を知って戦意喪失したので、倭国王難升米(帥升の子孫)は逃亡します。無傷で倭国を手に入れた乎止与命は捕らえた魏使張政の甘言で倭国王に立ったのです。奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った帥升の子孫から奪い返したので、狗奴国王を裏切って倭国王に立ったと推理しました。

それに不服だった副将として参加した、日本海沿岸のムナカタ海人族を束ねる王久々遅彦(王の襲名、豊岡市久久比神社祭神、スサノヲの子孫高野御子)が反発しました。従兄弟だった赤坂比古はかつての主筋の久々遅彦に加勢して、乎止与命を討ちました。狗奴国の実力者の尾張王を倒したことで、狗奴国王から処分されるのを怖れて、また、捕らえた張政の進言を受けて、卑弥呼の宗女で13歳の台与(近江・越を根拠地とするムナカタ族息長氏の祖息長宿禰王・神話の少彦名命の姫)を女王に立てて魏を後ろ盾にして狗奴国王を裏切ります。久々遅彦は楽浪郡・帯方郡と交易を開始し、半島南部の鉄資源も独占して隆盛になりました。当時の最先端技術の高温鍛冶技術を傘下に惜しげもなく与えたので吉備から畿内と東海の狗奴国勢以外は久々遅彦に従いました。久々遅彦は記紀神話で大国主と呼ばれました。

 

大国主の裏切りによって狗奴国は劣勢に立たされて、倭国に呑み込まれる寸前でした。大国主への恨みを晴らすために、丹後半島から山陰までの無防備な大国主側の集落を襲いました。鳥取市青谷上寺地遺跡では老人や女性、赤ん坊まで100人くらい無差別殺人をしています(通説では弥生後期としていますが、古墳時代初頭270年頃の事件です。詳細は「【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`)」参照)

大国主は高良山に立派な居城を作り倭国を支配していたので、父を殺された尾張王建稲種命は仇討ちを決行しました。その話が日本書紀で景行天皇の九州遠征の話になって詳細に語られていますので、物証となる鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて、ほぼ景行天皇のルート上で戦の跡を発見しました(「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」参照)。

(左クリックで拡大)

山口県防府市から福岡県東部に入り、当初福岡市を目指したと思われますが、守りが厳しいので、大分県の方に南下し、大野川流域で激戦の末にほぼ半数の兵力を失い、宮崎県に落ち延び新富町川床遺跡で兵士を葬ったと推理しています。

円形、方形周溝墓44基、土壙墓149基で構成される集団墓で、鉄刀、鉄鏃などの鉄製品が91点副葬されていた。弥生時代後期の遺跡らしい。個々の墓の副葬品は少なく各墓で1,2個、殆どの土壙墓では鉄鏃1個が副葬されていた。また、周溝墓では鉄刀などが副葬されているが、宗教的な豪華な副葬品はない。その様式は北九州のものらしい。tonomuraのブログ より)

44基の周溝墓は将校のもの、149基の土壙墓は兵卒のもので、合計193基です。周溝墓ですから、様式は恐らく北九州のものではなく畿内のものと考えられますので、尾張勢だけではなく畿内勢(後の物部氏)も併せて恐らく四・五百人の軍勢だったのが半減させられたのではないかと見ています。そして南九州で増援を待って、恐らく1年後に再び熊本県南部から攻め上ったようです。

苦難の末に、油断していた大国主を久留米市高良山で討ち取ったと推理しています。大国主は高良山の西麓の久留米市祇園山古墳に葬られたと考えています(詳細は「大国主の墓はここ!(^_-)-☆」参照)。初期の神籠石は大国主のものでしょう(詳細は「「神籠石は最初に誰が作った?( ^)o(^ ) 」」参照)。また、鳥栖市安永田遺跡を根拠地とした赤坂比古も討たれて、卑弥呼の墓に次ぐ大きさの直径約140mの円墳(鳥栖市愛宕神社古墳)に葬られたと推理しています。

吉野ケ里遺跡の謎の石棺は息長宿禰王(少彦名命)のものですが(詳細は「【吉野ヶ里遺跡】少彦名命の正体?(#^.^#)」参照)、この時に尾張勢に討たれたのかははっきりしません。

女王台与は伊都国で辰砂の取引など対外交易を担当していたようです。この地で物部勢に包囲されて、剣を振り回して抵抗したので、葬られた糸島市平原王墓の棺の上に素環頭大刀が一振り置かれています。この史実から男勝りの女傑の神功皇后のイメージができたようです(「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆」参照)。

大国主と台与と赤坂比古を討って、見事に仇討ちを成功させた尾張王建稲種命は、九州の支配を物部勢に任せて、纏向遺跡に凱旋したようです。そこで狗奴国王から大国主の傘下を平定するように命令されました。早速、東海道から遠征する途中の駿河で戦になり流れ矢に当たって戦死したと推理しています。伝承ではヤマトタケルの副将として参戦し、帰る途中で駿河湾で水死したとあります。沼津市高尾山古墳に葬られたと推理しています。詳しくは「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」をご参照ください。

この後は尾張王尾綱根命が父の遺志を継いで物部勢と一緒に遠征し、大国主の傘下を平定したようです。記紀で崇神天皇の四道将軍の話となっています。そのルート上に鉄鏃・銅鏃が出土していることから判明しています(「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。
(左クリックで拡大)。

記紀では日本統一の戦いを大国主の国譲り神話としています。高天原の命令でタケミカズチとフツヌシが活躍して国つ神の大国主から天照大神に葦原中国(あしはらなかつくに)を譲ったとしています。藤原氏の春日大社では祭神として第一殿に武甕槌命 (タケミカズチ)と第二殿に経津主命(フツヌシ)を祖神として祀っていますが、尾張王建稲種命と物部氏の祖神フツノミタマが正体です。お隠しして大変申し訳ありませんが、藤原氏に祟らないで下さいねという気持ちからでしょう(#^.^#)

尾張王建稲種命は、大和盆地では天理市の全長183mの前方後方墳「西山古墳」で改葬されたと推理しています。後方部の中段から上は前方後円形となる特殊な墳形をしていますので分かります。渋谷向山古墳(山邊道上陵)が景行天皇陵に治定されていますが、応神天皇陵ではないかと推理しています(詳細は「真の応神天皇陵を推理する!」参照)。

また、地元尾張ですが、名古屋市熱田神宮では、妹でヤマトタケルの妃宮簀媛命(みやすひめのみこと)とともに祀られていますが、長久手市景行天皇社で景行天皇として祀られていることは余り知られていないと思います。景行天皇社の元の場所は長久手市根の神にあったと考えています。現在、根の神に隣接した蟹原に道了山大雄院が建立されていますが、建稲種命の居館があったと考えています。

父の乎止与命は娘の宮簀媛命が祀られている氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)を居城にしていたと考えています。記紀神話ではタケミカズチの父となる火の神カグツチとされ、愛知県で最も数多く見られる秋葉神社で祀られています(詳細は「天香山のひみつ(#^.^#)」参照)。

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