刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

「倭の五王」は九州王朝の大王ではなかった!(;^ω^)

2024-12-26 09:39:52 | 古代史

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九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ)がその首都であったとする説であるwiki「九州王朝説」より)。戦前から学者の間でも主張されていましたが、古田武彦「失われた九州王朝」(朝日文庫 1993)が大人気となり、学者・アマチュアによってこれに派生する様々な仮説が登場しました。しかし、学会で論争となり、安本美典「虚妄の九州王朝」(梓書院 1995)などによって九州王朝説が批判され、現在では古田氏の説を継承する「古田史学の会」などで研究活動が続けられています。この会の事務局長正木裕氏が以下の動画で文献や考古学資料をもとに「倭の五王」が北部九州の大王と主張されていましたので、いつものように不躾なコメントをしました。よろしければまたお付き合いください(#^.^#)

本当の「倭の5王」 -- 不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル古代ミステリー 正木裕講演@YouTube

とても参考になるいいご講演を有難うございます。

現存する最古の正史「日本書紀」は天皇の歴史書ではなく、藤原不比等が不都合な史実を隠すために捏造した勝者の歴史書だということが分かりました。現存する最古の歴史書の古事記は、9世紀の学者が日本書紀の勉強会で突然表に出してきたもので、正史に記録はありませんし、日本書紀が古事記を参照した痕跡もないのです。基本的に日本書紀に添って日本書紀とは異なる話を入れることにより隠された史実をそれとなく暴露する目的の暗号書だったと分かりました。

この暗号を解くと、高天原に最初に降り立った天御中主神は宋史王年代紀の初代奴国王天御中主で、狗邪韓国(任那)から福岡市吉武高木遺跡に遷都した呉の王族だったということが分かります。つまり日本は古の倭の奴国でした(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」「「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?」参照)。

スサノヲが高天原を追放される時に、八百万の神々から拷問を受けて、全財産を取り上げられて追放された話を古事記が書いていますが、史実は107年に後漢安帝に160人の生口を献上した倭国王帥升(正しくは、奴国宮廷楽師の師升)が反乱を起こし、金印の在りかを白状させるために十八代奴国王スサノヲを拷問したと分かりました。これによって倭国大乱の原因も判明し、考古学の成果から卑弥呼の正体まで推理できました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。また、三世紀後半の日本建国の戦いの痕跡も考古学の成果から分かり、日本書紀が崇神天皇の四道将軍から応神天皇即位までの約350年の話に引き延ばして創作したことも判明しました(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

地図をクリックするとGoogle Mapに飛びますのでお楽しみください(#^.^#))

さらに古事記の崩年干支から空白の150年に隠された二人の天皇と倭の五王の正体も分かりましたし(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」参照)、アメノタリシヒコが二人いたことも、天武天皇と兄弟にされた天智天皇の系譜も古事記から推理できました(詳細は「【刮目天の古代史】天智天皇の謎?」参照)。不比等が隠したかったことを推理すると古代史の真相が分かってきました。

 

ということで、スサノヲ・大国主の子孫の応神天皇系ヤマトの大王と、吉備・北部九州を拠点としたニギハヤヒ大王を祖とする狗奴国(旧奴国)王の勢力との権力争いが四世紀から七世紀まで続いたので、九州にあたかも別の王朝があったように見えたと考えられます。詳しくは刮目天の古代史をご参照ください。お邪魔しました。


(左クリックで拡大)

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消された皇祖神ニギハヤヒはスサノヲの弟?!(^_-)-☆

2024-12-24 19:32:05 | 古代史

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【ゆっくり解説】おとぎ話で語れない恐ろしい末路!吉備・温羅伝説の謎!!

にっぽんぽん【ゆっくり日本史解説】@YouTube

いい話題を有難うございます。これは日本書紀で吉備津彦とされた一般には物部氏の祖神ニギハヤヒの吉備平定の史実を誤魔化した話ですよ。

日本書紀は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと騙されていますが、崩御して34年後に藤原不比等によって完成させられた勝者藤原氏のための歴史書でした。

平安時代の貞観年間の前あたりから地殻変動や火山活動が活発になって地震や津波や噴火が頻発し、世の中が乱れたので、備中国一宮吉備津神社の吉備津彦には特別な神階が与えられていることから、天智天皇の孫光仁天皇から今上天皇までの歴代天皇の祖神だったと分かったのです。

ニギハヤヒ大王は吉備で奴国を再興して、ヤマト王権の基礎を築いた人物です。楯築王墓に葬られています。楯築神社のご神体の亀石というヘビを象った弧帯文石に人の顔が彫られていますが、奴(ナーガ・龍蛇神)国王ニギハヤヒ大王の顔ですよ(^_-)-☆

この人面蛇体の神はシナの三皇神話の筆頭、人類の始祖神とされる天皇伏羲と同じなのですから、天皇のルーツだと分かりました(詳細は「【大発見!】天皇家のルーツの証拠!(*^▽^*)」。
 
話が長くなったので、つづきはブログ記事にしました。よろしければご参照ください(#^.^#)
 
何故吉備なのかですが、ニギハヤヒの兄が、宋史 王年代紀十八代奴国王スサノヲだったのです(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)。スサノヲは丹後半島で玉造工房を整備し、半島南部の鉄を仕入れて、奴国を隆盛にした大王でしたので王宮を留守にすることが多く、宮廷楽師らの反乱で殺されて、倭国を乗っ取られた史実があったのです。


古事記がこの史実を暴露していました。乱暴者の神スサノヲを八百万の神々が捕まえて拷問し、全財産を贖罪として奪って高天原を追放したと書かれています(注1)。
 
107年に後漢安帝に生口を献上した倭国王帥升の正体が奴国宮廷楽師の師升だということが文献から分かりました。江戸時代に発見された金印ですが、反乱を起こした師升が奴国王にすり替わるためにスサノヲを拷問して金印の在りかを聞き出そうとしたものだと分かります。ところが、いち早くスサノヲの部下が持って逃げる途中、志賀島によって埋めて隠したものだったのです。そのために捕らえたスサノヲの部下160人を奴隷として献上して倭国王に認められたということだったのです(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)」参照)。
 
この史実の発見は古代史の謎を解く最初の大きなカギだったのです(^_-)-☆
 
この師升らの反乱から弟ニギハヤヒと王子イタケルらは祖母イザナミの実家の縄文海人ムナカタ族の手助けで妻木晩田遺跡(むぎばんだいせき)に逃げました。イタケルは出雲を与えられて成長しましたが、ニギハヤヒは、父王イザナギ(十七代奴国王伊弉諾尊)に吉備を任されたかつての部下が旧奴国(狗奴国)を裏切って倭国の交易センター比恵・那珂遺跡群に出入りして交易で隆盛になっていたので、討伐したと推理しています。
 
出雲王イタケルの子八束命がムナカタ族を束ねる王となって、スサノヲの縁故で半島の鉄を仕入れて隆盛になり、倭国攻略の戦略で大分県大野川流域から阿蘇山麓に鉄製武器製造の鍛冶集落群を造りました。一方、後漢王朝の衰退で半島が混乱して倭国が衰退していたので、八束命の子日高彦(狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久久比神社祭神の久久遅彦は王の襲名)が菊池川流域に前線基地を作り、倭国の佐賀平野・筑紫平野などを攻撃し、で倭国を滅亡寸前まで追い詰めました。倭国大乱です。ところが半島を平定した公孫氏が帯方郡を設置し、倭国王難升米は公孫氏の支援を受けて、油断していた菊池川の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡などを襲撃して、油断していた日高彦を討った事件がありました。
 
これによって日高彦のナンバー・ツーのムナカタ族赤坂比古(和邇氏の祖)が狗奴国を裏切り、卑弥呼が登場します。赤坂比古と娘卑弥呼の居城が宇佐市安心院町宮ノ原(みやのはる)遺跡です。倭国大乱に二は海に面した不弥国(うみこく、宗像市田熊遺跡群)から要害堅固な山城に疎開していました。三女神社が卑弥呼の宮室とされた場所だと推理しています。
 
卑弥呼の死後に狗奴国の追討軍が倭国に到着しましたが、先代赤坂比古の後を継いだ卑弥呼の弟赤坂比古が卑弥呼の死を知って戦意喪失したので、倭国王難升米は金印を持って半島に逃亡した模様です。
 
無傷で倭国を手に入れた追討軍の大将の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、ニギハヤヒ大王の子孫、記紀のカグツチ)が狗奴国王を裏切って倭国王に立ったので、日高彦の後を継いでムナカタ族の王となって副将として参戦していた高野御子(記紀の武内宿禰)がそれに不服として、内戦が起こりました。高野御子に加勢した弟赤坂比古の活躍で尾張王を討って、高野御子が倭国を取り戻しました。丁度倭国に来ていた帯方郡使張政の進言で十三歳の台与(記紀の神功皇后のモデル)を外交上、卑弥呼の後の女王として魏を後ろ盾として、結局、狗奴国を裏切ってしまいます。高野御子は列島に散らばっていたムナカタ族を傘下にしたので、後世に大国主と呼ばれます。
 
大国主の倭国に押し潰されそうになった狗奴国は、腹いせに大国主傘下の無防備な集落青谷上寺地遺跡などを襲撃して、老人・女性や子供まで虐殺しています。そして父の仇討ちのために尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、ヤマトタケルのモデル)が九州遠征し、苦難の末に大国主・赤坂比古そして台与を討ち、九州を参戦した狗奴国王の部下(物部氏の祖)に占領した北部九州の統治を任せて、纏向遺跡に凱旋します。卑弥弓呼大王から直ぐに、大国主傘下を平定する命をうけて東国遠征の途中で戦死します。尾張王のあとを継いだ尻綱根命が尾張勢を率いて、丹後半島や北陸道などを鎮撫し、狗奴国王(記紀の崇神天皇)が日本を統一します。
 
ところが、280年に呉が西晋によって滅ぼされ、シナが統一されましたので、西晋に朝貢していた倭国を討ったので仕返しを怖れて狗奴国は大混乱したようです。大国主・台与の祟りということで狗奴国王は大国主と台与の子ホムダワケを探し出して、大国主と台与の鎮魂のためにヤマトの祭祀王(応神天皇)に即位させて、箸墓で台与を、桜井茶臼山古墳で大国主を改葬しました。つまり、西晋の追討を逃れるために、狗奴国を邪馬台国の後継国として、狗奴国の王都(纏向遺跡)をヤマトと呼ぶことにしたと推理しました。なお、仲哀天皇が応神天皇の父というのは誤魔化しですよ(詳細は「仲哀天皇の謎?( ^)o(^ )」参照)。
 
以上がヤマト王権成立の仮説の概略です(文末の図参照)
 
日本書紀では尾張王建稲種命の仇討ちを景行天皇の九州遠征の話として誤魔化していますが(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」参照)、民話の猿カニ合戦はこの史実から作られたものです(詳細は「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その2)抹殺された尾張氏の謎(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。また、崇神天皇紀の四道将軍、日本武尊の東海遠征や仲哀天皇の熊襲征伐、神功皇后による応神天皇の即位までの約350年の話を創って、三世紀後半の日本建国の史実を誤魔化したということが考古学や民俗学などの成果から判明しました(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。
 
712年に完成されたとされる現存する最古の歴史書「古事記」は、九世紀の日本書紀の勉強会で突然表に出されたものなのです。正史に古事記の記録はなく、日本書紀で参照した痕跡も見当たりません。日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書だったのです(詳細は「「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?」参照)。
 
最初の暗号は高天原に最初に降り立ったのが天御中主神としています。紀元前4世紀初頭の福岡市吉武高木遺跡で日本最初の王墓群が発見されています。初代奴国王天御中主、二代王天村雲尊、三代王天八重雲尊と王妃や王族の墓がありました。天村雲尊の木から三種の神器が揃って見つかっています。四代王天爾聞尊(あめのににぎのみこと)の墓は春日市須玖岡本遺跡の最古の王墓だと推理しています。祖父から王権の印(レガリヤ)として後に草薙剣とされた天叢雲剣を与えられて福岡平野を平定した史実から、日本書紀の天孫降臨神話が創作されたのですよ(詳細は、「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。(2024.12.25 赤字訂正)
 
初代奴国王の天御中主の名前は、ナーガ(龍蛇神)を信奉する倭人の王という意味なのです。紀元前473年に滅んだ呉の王族が半島南部の倭人に助けられて逃げ、恐らく寒冷化による治安の悪化の影響で九州に遷都したのでした。ここから日本の歴史が始まったわけですが、日本人の本当の神話は、上で述べたように中国(なかつくに)の三皇神話だったのです(詳細は「中国神話は日本人の神話だった?」参照)。
 
初代奴国王天御中主の子孫のニギハヤヒ大王は宋史 王年代紀の十九代奴国王天照大神尊、先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命だったのです。神武東征神話ではヤマトに先に降り立っていた天孫で、逆らう義理の兄のナガスネヒコを斬って神武天皇が即位する話は、ニギハヤヒの子孫が大国主(トビ・トミで蛇神)を討って初代ヤマトの祭祀王が即位した史実から創作しています。古事記はナガスネヒコが大国主(トビヒコ)と暴露しています。大国主の国譲り神話も、高天原から送り込まれた神タケミカズチとフツヌシはそれぞれ尾張王建稲種命と狗奴国王の部下(物部氏の祖)のことなのです(詳細は「国譲り神話は都合の悪い史実を隠すためだった!」参照)。
 
これで記紀神話の正体がお分かり頂いたと思います(^_-)-☆
 
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於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐その後、八百万の神々一同は相談して、須佐之男すさのおにたくさんの贖罪の品物を科した。また、髭と手足の爪とを切ってはらえをし、高天原たかまのはらから追放してしまった。)」(「古事記」上巻、訳は 「古事記・現代語訳「上巻」天照大御神と須佐之男命より引用)
 
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銅鐸文化が消える頃、何があった?(^_-)-☆

2024-12-22 15:21:56 | 古代史

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【都市伝説】卑弥呼が宇佐神宮の祭神?!( ^)o(^ )

2024-12-21 11:55:37 | 古代史

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宇佐神宮の二之御殿の祭神比売大神は宗像三女神とも伝えられていますが、宗像三女神の降臨伝承地が宇佐神宮の奥座敷宇佐市安心院町下毛の三女神社です。

地元では「さんみょうじんじゃ」と呼んでいますが、「三は妙だ!女は少ない」という謎かけだったのです。一の鳥居に「二女神社」とありますから、その先の社殿には一人だけです。それが卑弥呼だったと突き止めました。

社殿の西側に深さ1m、幅2.5mのV字溝があり、その中から銅鏃が1こ見つかっていますから、城柵になっていたはずです。神社の南側は崖になっていて下に深見川が流れています。神社の東側の参道には高さ2mくらいの土塁になっています。

北側は弥生後期の宮ノ原(みやのはる)遺跡があり、この周囲には石棺群が8つ発見されていますが、その一つが奥城古墳で、直径約120mで高さ約10mの円墳です。現在ブドウ園の展望台になっています。その東側にも少し小振りの円墳の大平古墳があり、石棺からこの遺跡では一番沢山の副葬品が出土しています。中に三角縁神獣鏡の破片があるので、卑弥呼の死後にヤマト王権から派遣された同族の水沼君のものと考えられます。この地で宗像三女神の奉斎を行っていたと日本書紀にあります


(詳細は「本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)」参照)

さて、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓「径百余歩の冢」(直径150mの塚)が三女神社の西500mに在りました。ただ土を20m位盛り上げただけの円形墳墓「三柱山古墳」ですが、墳頂に石棺があったようなのですが、家族旅行村の建設工事で石棺が壊されて、円墳の裾部分に置かれています。蓋のような石板が二枚墳頂付近にありました。裾部分にはバンガローがいくつか作られており、宿泊施設になっています。

三柱山古墳の西側の原野の地名が「血野」なのです(現在「知野」)。地元では、戦国時代の安心院氏の若様が惨殺されたとありますが、恐らく卑弥呼の奴婢約100名が殉葬のために殺された場所だと推理しています。三柱山古墳の南400mの河原に同じ三女神社があり、石塔が三つ古墳に正対して置かれており、墓の遥拝所になっています。そして、神社の上の道に土が高く盛り上げられて、横穴が見られます。ヒカケ横穴群と呼ばれていますが、一つの横穴の入り口に馬頭観音像が置かれていますので、女神アマテラスの岩戸隠れを連想するものです。地名のヒカケは日欠けつまり日食のことだと思います。卑弥呼が日食が起こったために殺された史実から、天岩戸神話が作られたと分かります(詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」参照)。

多くの皆さんは、記紀神話が江戸時代にできたと言ったら驚くと思いますが、本当ですよ。

それまでの神話は日本書紀の神話が、神仏習合、修験道や道教の影響を受けて、ナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀に変貌していたのです(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」講談社現代新書)。明治時代に廃仏毀釈運動が全国で起こって、ほとんど打ち壊されて、記紀神話に基づく国家神道が創設されて、学校で国史が教えられたので、戦後の日本人も太古からの伝承だと思わされています。

でも、事実、つまり考古学や民俗学の成果とほとんど合わないのです。日本書紀は天武天皇が編纂を命じた現存する最古の正史と習っていますが、崩御して34年後の720年に時の権力者藤原不比等が完成しているのです。712年に完成したとされる古事記ですが、9世紀の日本書紀の勉強会で突然表に出てきたものなのです。正史に記録はないですし、日本書紀が参照した形跡もないのです。日本書紀の神代や人代に合わせて作られていますが、所々内容が異なります。事実から不比等が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書だと分かりました。不比等の意図を推理して、暗号を解けば古代史の真相に近づけることが分かりました。記紀は天皇の歴史書ではないのですよ。詳細は「刮目天の古代史 記紀に基づく想像は古代妄想だった?(;´Д`)」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

【関連記事】

邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!

考古学や民俗学などの成果に加えて、卑弥呼の巨大円墳が見つかっていますので、可能性が高いと思います(^_-)-☆


(詳細は「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。

魏志倭人伝の真実?(^_-)-☆

魏志倭人伝の行程記事は政治的に作られたものなので、いくら正しく解釈しようとしても、みんなが納得する倭国女王卑弥呼の邪馬台国にはたどり着けませんよ(;^ω^)。

ですから、魏志倭人伝の邪馬台国を特定する記述や考古学や民俗学の成果から候補を探す必要がありますよ(詳細は「【邪馬台国問題】誰もが納得できる解決法とは?(#^.^#)」参照)。


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小銅鐸は奴国の宮廷祭祀用か?!(^_-)-☆

2024-12-20 21:14:24 | 古代史

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結局馬の渡来よりも銅鐸の方が早く来ちゃったので、なんの道具かわからずに、楽器にしてしまったように思います。 で、日本国内で再現したときに、飾りをつけたり、大きくしたりしたんじゃないかな? 当然馬に装着するとは思ってない様子。 なんとなく、祭祀というよりはイベントのときに鳴らすものだったように感じます。なのでだんだん大きくなっていったんじゃね? 三種の神器とか十種の神宝には「入ってない」のをみるに、実は思ったほど重要ではなかったのかもしれませんなぁ。

@katumoku10
YOさん、こんばんは!

小銅鐸は、周代以前から楽師が祭祀で音を鳴らす楽器編鐘の一部だと思います。日本では全部そろったものは発見されていませんので、多分、一個か二個でやっていたのかも知れませんね(注1)。(2024.12.21 赤字修正)

倭国王帥升ですが、帥姓の本は師姓で、西晋時代に司馬師の諱を避けるために帥姓に変えられたと文献にあります。その師姓は「風俗通義」によると殷王朝時代から楽師の官位を表す姓とありますので、師升は奴国宮廷楽師だったようです(注2)。

それが反乱を起こして奴国王(宋史王年代紀十八代王素戔嗚尊)を殺して倭国王に認められるために160人ものスサノヲの部下らを生口として献上した人物です。

聖職者だった証拠が1948年に室見川河口で発見された黄銅製文鎮のような金属板「室見川銘板」で、延光四年125年と彫られており、金文の内容が祭祀を整えたというものなので、伊都国を王都とした師升王が作ったと分かりました。師升の祖先は恐らく徐福が連れて来たシナ人と推理しています。王殺しは平気ですから( ^)o(^ )(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)

スサノヲを拷問して全財産を贖罪としたことが古事記にありますので、恐らくスサノヲの部下のアズミ族(江南系倭人)がいち早く金印を持ち出し、逃げる途中で志賀島に埋めたようです。それがたまたま江戸時代に発見されたのでしょう。漢代の金印の金の純度が95%もあるなどというのは、現代になっていくつか金印が出土して分かったので、贋作などは不可能でしょう。もしも贋作ならば、職人に作らせるための指示書が見つからないとダメですね。これは河村哲夫先生の動画で勉強しました(;^ω^)

 

(注1)

1.韓国式小銅鐸……宇佐市別府遺跡(参照:史料5
 1977年に発見されたこの小銅鐸はわが国発見韓国式小銅鐸の第1号で、以来後続資料の発見はない貴重品である。後原総高11.6センチで、韓国慶尚北道月城郡入室里遺跡発見の第1号小銅鐸と形状・法量ともに最も近似している(「北部九州(大分)の弥生文化と半島系遺物」より)。

紀元前473年に滅んだ呉の王族が半島南部に逃れて、祖霊祭祀に使用したと推理しています。元々は呉の宮廷で以下のような編鍾を使用していたと思われますが、逃避先では資力もないので大掛かりなものは作れなかったので、1・2個で代用したのではないかと考えています。

wiki「編鍾」によると、「1978年湖北省随県戦国時代初期の遺跡曾侯乙墓で出土したもので、鐘ですから舌があって揺らすと音が出る楽器」で、「春秋時代ごろに出現した。上流社会で使われ、権力の象徴でもあった。」とあります。中段のものはハンドベルのようなものですが、下段の大きなものと上段の小さなものは握りがないし、舌の下のヒモもないようですので、棒で叩いて鳴らしたのでしょうか。韓国式小銅鐸は木の枝などに吊るし、舌の下のヒモを引っ張って鳴らしていたようですが、大きさと形状が上段のものに近いです(^_-)-☆

(注2)シナ版wiki(维基百科)「帥姓」によると「西晋の武帝司馬炎は、叔父の司馬師の後を継いで晋の景帝となり、世に「師」という名前を使うタブーを避けるよう命じたため、師の姓を持つ一部の人々が改名されました。」(Google翻訳)とあり、帥升は奴国宮廷楽師の師升です(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

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王年代紀が古代史の謎を解く!

10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が倭国から変わったことが正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

師升らのクーデターで奴国王スサノヲを捕らえて拷問して殺したことが古事記にあります。金印の在りかを白状させて、奴国王に成りすますためですね。「於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐(その後、八百万の神々一同は相談して、須佐之男すさのおにたくさんの贖罪の品物を科した。また、髭と手足の爪とを切ってはらえをし、高天原たかまのはらから追放してしまった。)」(「古事記」上巻、訳は 「古事記・現代語訳「上巻」天照大御神と須佐之男命より引用)

帥升が奴国宮廷楽師だったと分かる物証がこれですよ(^_-)-☆

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