刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

「複雑怪奇な紀年論」から脱出する方法?(^_-)-☆

2024-06-26 10:32:29 | 古代史
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#とても上手に解説された、いい動画を見つけましたので、いつものようにコメントしました。



有難うございます。「複雑怪奇な紀年論」ですが、前提となるものが思い込みに過ぎないと気づかないから、いつまでたっても解決しないのだと思います。

二倍年歴が間違った発想だということは、日本書紀の本文を見れば明らかです。1年おきに春・夏の記事と秋・冬の記事になっていません。魏略の記事の「倭人は1年を春と秋で数える」というのを都合の好いように曲解しています。二倍年歴のことではなく1年の二十四節季の祭祀を正しく行っていないという意味なのです。天皇の平均在位年数の前提も、すべての天皇は実在したという思い込みなのです。

つまり、現存する最古の歴史書「古事記」や正史「日本書紀」が天皇の歴史書だと信じているので古代史が謎なのですよ。天武天皇が編纂を命じましたが、日本書紀は崩御34年後に完成しています。

また、712年に完成したとされる古事記について正史に記録はないですし、日本書紀で参照した痕跡すらないのですよ。

日本書紀は当時の権力者藤原不比等による勝者の歴史書なのです。
古事記は日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られることのないように暴露する暗号書だったのです。

これによって、卑弥呼が隠された理由も、富雄丸山古墳や吉野ヶ里遺跡の謎の石棺の被葬者も判明します。

また、邪馬台国問題も同様の思い込みから抜け出せないので解決できないのですよ。

共通するのは「1次史料は正しく書かれているので、正しく解釈すれば真相が分かる!」という思い込みなのです。

魏志倭人伝が何のために書かれたのか、どういう史料をもとにしたのかが分かると、
史料の信ぴょう性は考古学や民俗学の成果、つまり事実から、編纂者の目的を考えて、ウソを見抜いて古代史を推理できますよ。

こういう科学的な手法で古代史を解明しましたので、よろしければ拙ブログ「刮目天の古代史」をご参照ください。失礼しました(;^ω^)

【関連記事】
史料を参考にして事実から推理する
文献史料を好きなように解釈して仮説を立てても真相には到達できませんのです(;^ω^)

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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倭人語解明のヒントだ!(^_-)-☆

2024-06-25 11:50:27 | 古代史
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#【狗古智卑狗】に久久比神社の写真を掲載しました。よろしければ、またご覧ください(;^ω^)

#魏志倭人伝に記載された倭国内の国名、人名(役職名)などは本当の倭国王難升米(注)が帯方郡太守劉夏とその上司司馬懿の功績を魏第一等に持ち上げるために談合して漢字を当て嵌めたと推理しています(「イトコク」を「伊都国」と書いたことから判明した。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。それぞれの言葉(倭人語)は、倭人の発音から難升米自身が漢字を当てはめたものですので、その漢字から倭人語の発音を推理できます。難升米は糸島市(伊都国)の三雲遺跡を王宮とし、番上地区に楽浪郡などの華僑を居住させているので、北方シナ語を話すシナ人と交流し、「史記」「孟子」などを読む教養人でシナ語に堪能であったと推察している。

今回は、すでに分かっている地名・人名から倭人語を解明するヒントについて、主として安本美典「倭人語の解釈」(勉制出版)を参考にして、述べます。今後、追加してゆく予定です。なお、言語学について理解が乏しいので素人解釈になります。間違いなどお気づきの点について、ご指摘ください。よろしければ、お付き合いください(#^.^#)

【卑弥呼】
読み:ひみこ
意味:①ヒメゴ(姫御=高貴な姫君を呼ぶ言葉)、②ヒメミコ(姫巫女=巫女の役割を持つ姫君)
   宗像女神イチキシマヒメ。先代赤坂比古(和邇氏の祖)の娘。太陽神が憑依し神の言葉を告げた。父がシャーマン王であり、太陽神のお告げを解釈し、部下や民衆に伝え、政治を行うシステム。奈良県唐古・鍵遺跡の線刻土器に見られる。琉球神道に名残が見られる。
漢字「卑」:「ヒ」(呉音・漢音)ー>シナ語上古音*pe、中古音pijieは使われていない。
漢字「弥」:ミ(呉音)ー> ビ(漢音)は使われていない
漢字「呼」:コ(漢音)であるがク(呉音)に近い発音



【邪馬台国】
読み:やまだいこく・やまたいこく(後で、「やまど」、「やまと」に変化したか)
意味:ヤマこくの女王、またはその居所。宇佐市安心院町は和名抄「野麻郷」に比定されている(宇佐市史)
漢字「邪」:ヤ(呉音・漢音) ジャと発音される場合もあるが「ヤ」と発音している
漢字「馬」:マ(慣用音)メ(呉音)バ(漢音)ではない。上古音: *mˁraʔ に近い。中古音 mæX ではないようだ。
漢字「台」: ダイ(呉音)タイ・イ(呉音・漢音) 意味から「台」をあてはめた。
漢字「国」:コク(呉音・漢音)上古音: *kʷˁək {*[k]ʷˁək} 中古音: kwok



【伊都国】
読み:いとこく
意味:倭国王の王都(糸島市)。「伊」は聖職者を意味し、殷(商)王朝初期の政治家伊尹(いいん)が都に定めた場所(「史記」「孟子」より)
漢字「伊」:イ(呉音・漢音)
漢字「都」:ト(漢音)ツ(呉音)であるので「イツコク」に近いのかも知れない。
漢字「国」:同上



【狗奴国】
読み:くなこく
意味:旧奴国のこと。二世紀初頭に宋史王年代紀第18代奴国王スサノヲが奴国宮廷楽師師升の反乱で殺された。奴国から逃亡した弟ニギハヤヒが母方のムナカタ族の支援で裏切り者の吉備の勢力を討ち、隆盛になって奴国を再興した。第19代王天照大神尊(先代旧事本紀 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)。難升米が狗コロの奴国とした。
漢字「狗」:ク(呉音)漢音が「コウ」なので呉音で発音されている。漢字「旧」の慣用音「ク」(呉音「グ」漢音「キュウ」「キウ」)を「狗」に宛てて貶めた。
漢字「奴」:ヌ(呉音)ナーガ(nag、龍蛇神)の意味であることは西暦57年後漢光武帝から賜った金印に彫られていたことや奴国の在った地名「那珂」などからわかる。したがって当時は「ナ」と発音していたと分かる。 漢音「ド」は使われていない。
漢字「国」:同上



【狗古智卑狗】
読み:くくちひこ
意味:狗奴国の官で王よりも先に紹介された狗奴国の実力者で重要人物。豊岡市久久比神社の祭神久久遅彦(久久遅命)。日本海沿岸部を根拠地とする縄文海人ムナカタ族を束ねる王の襲名。倭国の南(熊本県山鹿市)方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡などを前線基地として倭国の領土(佐賀平野・筑紫平野など)を襲撃し、難升米を苦しめた。「久久能智神」(くくのちのかみ)は木の神として現代まで行われている上棟式の祭神とされている。スサノヲの王子五十猛神(イタケル)が木霊とされるので、その子孫であると分かる。
漢字「狗」:同上
漢字「古」:ク(呉音) 漢音「コ」ではない。
漢字「智」:チ(呉音・漢音) いい意味の言葉だが「古智」として古臭い知恵の男(縄文系の男「彦(比古)ヒコ」)と蔑んでいる。
漢字「卑」:同上
漢字「狗」:同上


[久久比神社の本殿略記に、「胸形(宗像)大明神と称され木の神久久遅命を奉斎した」とある。]

【伊聲耆】
読み:いせぎ(いせうぎ)いせじ
意味:聖職者を表す「伊」+声を意味する「聲」から【卑弥呼】で説明したシャーマン王を意味する。「耆(ぎ)」は老人を意味するので、卑弥呼を外交上女王に共立したとする玄界灘を支配するムナカタ族の王先代赤坂比古(卑弥呼の父)と考えられる。正始四年(243年)倭国の正使として魏へ朝貢したが、官職や印綬を賜っていないので、途中で亡くなったと推理している。安心院町宮ノ原遺跡「奥城古墳」に葬られたと推理している。
漢字「伊」:同上
漢字「聲」:シヨウ・シャウ(呉音)セイ(漢音) 伊勢(イセ)の元の意味がシャーマン王と推理できるので、漢音「セ」に近い発音「セウ」と思われる。
漢字「耆」:ギ・シ・ジ(呉音)キ・シ(漢音) ジは「爺」の訓読みで老人(じじい)か(おやじ)という意味。

【掖邪狗】
読み:ややこ
意味:ややこは稚児の意味。赤坂比古の子でイチキシマヒメ卑弥呼の弟。正始四年に副使として朝貢し、率善中郎将の官位と印綬を賜った。難升米は正始四年の直前に若造の副使(わきやく)だったのでバカにして「ややこ」と書いて連絡した模様(詳細は「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」参照)。日本書紀で日食で難升米に卑弥呼が暗殺された事件に因む日触使主(ひふれのおみ)を和邇氏の祖としている。近江八幡市日牟禮八幡宮に祀られており、多分元の名称が、日蝕社(ひはえのもり)だったと思われるが、藤原不比等が日群社(ひむれのもり)と変えさせた記録が残っている(詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)」参照)。
漢字「掖」:ヤク(呉音)エキ(漢音)正使を助ける副使の意味だが読みは「ヤ(ク)」。
漢字「邪」:同上
漢字「狗」:同上


取り合えず以上ですが、今のところ、概ね漢字の呉音が使用された模様ですが、現代に残っている呉音とは一部異なるものもあるようです。倭国女王に「卑」をあてて貶めています。味方であっても漢字を読み書きできない縄文系の人物やその地名には、いわゆる「卑字」が多用されていると推察できます。しかし、例えば縄文系の人物「伊殸耆」などのように必ずしも「卑字」ばかりではないので、意味も考慮して、漢字を選んだと考えられます。今後も追加の予定です。ご意見などお送りください(#^.^#)

【関連記事】
「呉音」はいつ日本に入って来た?
280年、西晋により呉が滅ぶと、倭人を頼って呉人(倭人O-47z)が列島に流入してきたと見られます。7-8世紀に漢音(長安付近の音韻)が伝わるより前にすでに日本に定着していた漢字の読みは呉音と言われるものですから、前10世紀ごろから列島に来た倭人(呉人)が漢字のもとになった文字(西周・春秋時代の金文)の発音を伝えたものではないでしょうか?

(注)「難」は「儺」のニンベンを省略されたもので、意味は鬼やらいです。奴国宮廷楽師師升が大王スサノヲを倭国から追放した故事を意味します。つまり放蕩者の王を追放した伊尹の事績と重なります。儺升は「鬼やらいの升」という意味ですので師升の一族ということです。「米」は「め」と読み、「頭目」や「かしら」という意味になりますので、難升米はスサノヲを殺して倭国を奪った師升一族の頭(かしら)という名前です。魏志倭人伝で卑弥呼の政治を補佐する男弟とした伊都国男王です。恐らく、王の襲名で、先代はすでに亡くなって、三雲遺跡の王墓に師升と共に甕棺で葬られていると思われます。師升は室見川銘板から西暦125年までは存命だったと見ています。魏志倭人伝に登場する難升米は師升の孫ではないかと思います(詳細は「【検証22】難升米という人物は?(その1)~(その3)」参照)


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【刮目天の古代史】仮説を検証する!(^_-)-☆

2024-06-24 17:01:49 | 古代史
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#2023-09-23 11:07:59に記事にしましたが、リンクが切れているところを修理しました。また、北部九州から東北・北海道までの土器編年併行関係表に本仮説による歴年代を修正し、末尾に掲載しました。よろしければ、お好きなところからご覧いただき、分かり難い箇所などご意見を頂けると有難いです。お願いいたします(#^.^#)

#2022-01-14 10:17:55の記事を改訂しましたのでよろしくお願いします(/・ω・)/

刮目天が行った検証作業

お好きな記事からお付き合いください( ^)o(^ )

【検証1】佐賀に近江の土器が?(^O^)/
     佐賀県に近江発祥の前方後方墳がなぜ?
【検証2】前方後円墳のルーツ?
     纏向遺跡の最初の前方後円墳はどこがルーツ?
【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎 
     何で沖ノ島で祭祀をしなければならなかったのか?
【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆
     古墳時代初頭に盛行した割竹形木棺の底の朱が決め手だった!(^_-)-☆
【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)
     定説は根拠を疑いましょう(*^^)v
【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*)
     ヤマト王権が成立するまでの百年間に三回の大乱があったのだ!<工事中>
【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)
     子供向けの昔話に古代史解明のヒントがあった
【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`)
     大国主が魏使張政の進言を却下すれば虐殺の悲劇は起こらなかったが、成り行き上、仕方なかったとも言える!
【検証9】奴国時代の話(その1)(その2)
     記紀が天皇の歴史書じゃないと分かれば、通説となっていた奴国に対する考えが変わるはず(^_-)-☆
【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?|д゚)
     ヤマトは誰の祟りにおびえたのか?
【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆
     【検証5】を深堀り!
【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)
     通説ではヤマト王権の成立を説明できないぞ!
【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?
     【検証17】まで5回に渡り最新の北部九州の考古学成果で仮説をチェック
【検証14】奴国~邪馬台国時代のつづきだよ(*^^)v
【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ(^^)/
【検証16】3世紀後半の伊都国だよ(*^^)v
【検証17】狗奴国は纏向の旧奴国だよ(*^^)v

【検証18】倭国大乱の痕跡だ!
     弥生後期後半の鉄鏃・銅族の出土状況の調査結果から分かりました
【検証19】日本建国のための戦いだ!
     三世紀後半の鉄鏃・銅族の出土状況の調査結果から分かりました
【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)
     尾張王建稲種命(熱田神宮祭神)が父の仇討ちで遠征した史実でした
【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?
     記紀神話は吉武高木遺跡に降り立った呉王族の史実を隠しました
【検証22】難升米という人物は?(その1)(その2)(その3)
     奴国を滅ぼした宮廷楽師師升の一族という名前だったのですよ(@_@)
【検証23】魏使張政って?!(*^▽^*)
     この人物が難升米と一緒に帯方郡に帰還していてくれたならば日本の歴史は大きく変わっていたはずです(;´Д`)
【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)(その3)狗古智卑狗の霊ライン?
     日本建国の主役の大国主と呼ばれた人物の父は倭国大乱の英雄だったのです(^_-)-☆
【検証25】水田稲作が日本へ伝来したルートは?
     列島に運んできたのは江南出身の倭人か半島南部で混血した縄文系倭人ですから、渡来人は今の半島人ではないのですよ(^_-)-☆
【検証26】建稲種命の終焉の地は?
     日本建国の英雄とされたヤマトタケルのモデルが尾張王だったのです(^_-)-☆


【関連記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆
【刮目天の古代史】謎を解明する!(^_-)-☆
鉄鏃・銅族の出土状況のデータ共有(2021.8.23 公開)





(左クリックで拡大)

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【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ(^^)/

2024-06-23 12:10:41 | 古代史
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#2021-11-16 15:47:29に2020-05-24 10:28:04 の記事を大幅に修正しましたが、さらに、先日【検証16】で北部九州の土器編年を見直しましたので合わせて、関連の図を改訂します。前々回【検証13】から久住猛雄「3世紀のチクシと三韓と倭国」によって検証しています。少し専門用語が出て来て分かりにくいかも知れませんが、刮目天のような土器の素人でも分かる内容です。仮説の重要な検証ですので、もしも気が付かれた点があれば更なる解明に繋がりますので、遠慮なくお寄せ下さい。よろしければ、またお付き合いください。(*^▽^*)

3.3世紀前半〜後半(弥生終末期新相/古墳早期〜古墳時代初頭)の北部九州と「狗奴国」の再検討
(1)奴国の台頭と博多遺跡群の鍛冶工房群
 「伊都国」の平原1号墓が、<初代>「卑弥呼」墓である可能性を示したが、その後の北部九州ではなぜか「奴国」が主体的勢力となる(久住 2004・2012b)。それを示すのがⅠB期新相築造の全長 85m の那珂八幡古墳である(図 23)。


すでに「卑弥呼の墓は見つかってるよ」で述べていますが、卑弥呼の墓は宇佐市安心院町三柱山の直径約150mの円墳です。方形周溝墓である平原1号墳は卑弥呼のものではなく女王台与が270年頃(ⅡB期新相)に戦死して葬られた墓です(「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」)。

那珂八幡古墳の図23は【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?で示しましたが、纏向勝山古墳と驚くほどきれいな相似形なっています。



那珂八幡古墳は纏向型前方後円墳ですから狗奴国(纏向遺跡にあったヤマト王権の国、以下単に「ヤマト」とも記すが狗奴国のことです)の勢力が伊都国に侵入して台与を殺し、北部九州の倭国を占領した時期のヤマト勢のものだと分かります。大国主と台与を討ち、倭国を滅ぼして北部九州を占領したヤマトの将軍の墓としてⅡB~ⅡC期に築造されたものです。

 ⅠB期の比恵・那珂を中心とした福岡平野中枢部(博多、比恵・那珂、雀居)では、畿内大和中枢(纒向遺跡群周辺)の土器様相の影響を受け、真正の庄内甕を伴う「庄内式」(筆者の「C系統」)を受容し始める(久住 1999・2017)(図 25)。大和型庄内甕の技法系譜下にやや変容した「筑前型庄内甕」が作られ、普及し始める。ただしⅠB期では比恵も含めて在来系土器が優勢である。ⅡA期になり畿内系土器群が優勢になり、筑前型庄内甕を母胎に大和の「布留0式」甕(布留傾向甕B類)の影響を受け「北部九州型布留甕」が成立する(図 25)。



このように北部九州に畿内の土器が相当出ていますが、纏向には九州の土器がほとんど出土していません。 九州の勢力が大和に来たという神武東征や邪馬台国の東遷説は事実ではないとわかります。そして、纏向のヤマト王権が一方的に北部九州の倭国を攻め滅ぼしたとする刮目天の仮説を支持するものなのです。以下の文章に沿ってもう少し詳しく説明します。

このⅡA期までの分布は福岡平野の一部と筑前・筑後北部・肥前東部(佐賀平野の「夕ヶ里式古相」)での点的分布に留まる(久住 2017、蒲原宏行 2017)。畿内系土器群への変容を畿内勢力の「入植」や「征服」の証拠とする論者もいるが、たとえば比恵・那珂に多い井戸祭祀は庄内式の受容時期のⅠB期は伝統的な在来系壺主体であることや(ⅡA期に変化する)、比恵・那珂の首長墓への土器供献が、
①在来系主体+「B系統」少数(ⅠA期の比恵 120 次周溝墓)→
②在来系+畿内系(B・C系統)半々(ⅠB期古相の比恵 36 次周溝墓)(①②は図 16)→
③畿内系(B・C系統)主体+在来系少数(ⅠB期新相の比恵6次ほか比恵1号墳、那珂八幡古墳)→
④畿内系土器群(C・D系統)のみ(ⅡA期の那珂 62 次 SX028 周溝墓ほか)、
という段階を経ている事実をそうした説では説明しにくい。在地の文化変容とするのが穏当である(久住 1999・2005)。


下の年表の右にこれらを描き入れましたので、①~④について順に見て行きましょう。



①は卑弥呼が女王に擁立された時代です(実際に倭国を統治していたのは伊都国男王の難升米で、239年の魏への朝貢の際に政治的な理由から卑弥呼を対外的に女王としただけ。卑弥呼は倭国内では太陽神のお告げを伝える姫巫女で宇佐市安心院町三柱山が居城です)。「魏志倭人伝」に記された奴国の長官兕馬觚(しまこ)などの有力者の墓なので、ほとんど在来系土器が供献されています。少数の「B系統」ですが、畿内系の伝統的V様式の系統ということだとありました(次山淳「古墳出現期の社会と土器の移動」2014,p.27)。卑弥呼のムナカタ海人族は狗奴国を裏切って倭国側についたので、少数の畿内の人が卑弥呼側に加わったということだと思います。

②は倭国が魏に朝貢して強力な後ろ盾を得た時代で、国内外の交易センター(楽浪郡・帯方郡との交易は伊都国今宿五郎江遺跡など、半島南部や列島内の交易は奴国比恵・那珂遺跡群)を整備した模様ですので、畿内の人々も交易にやって来る人が増えたようです。在来系の「A系統」と畿内の土器(「B系統」と「C系統(庄内式)」)が半々ということですから、畿内の人が「魏志倭人伝」にある奴国長官クラスの有力者に何らかの縁故があり、その葬儀に訪れたということを示しています。多分、奴国の長官は赤坂比古配下のムナカタ族だったので、そのつながりで畿内の人々の奴国への出入りを許可していたからでしょう。また、纏向の初期段階(関川1・2式)で阿波・讃岐の土器が出ていますが3式では見られませんので(注1)、交易センターにやって来て倭国側に将来性があるとみて狗奴国を見限ったものと思われます。(2024.6.23 青字追加)

③は卑弥呼の死の直後に狗奴国ヤマトの倭国征討軍が到着し、在地系の人々が奴国から逃げたことを示しています。邪馬台国連合倭国が解体され、ヤマト勢が北部九州を占領し、征討軍の主将だった尾張王(仲哀天皇のモデル)が倭国王に立ったが、それに反発した山陰・北陸・近江勢や狗奴国大王に近い河内・吉備勢が大国主久々遅彦(狗古智卑狗)の軍勢に加わり内戦状態になり、かなりの人数が戦死しました(第二次倭国大乱)。尾張王も鳥栖市で殺されたと推理しました(「愛宕権現の正体は赤坂比古か?」)。結局内戦に勝利した大国主が近江・北陸を支配する縄文海人ムナカタ族の姫巫女台与を女王に立てて倭国を支配したので、大国主に味方した河内や吉備の兵士が居たので、かなりの畿内系の土器が流入したということです。すでに、「【検証1】佐賀に近江の土器が?」/で見たように、近江の将軍が使用する手あぶり土器や近江・尾張が起源と考えられる前方後方墳の出現によって、この時期(ⅠB期新相)に近江や東海勢が北部九州に来たことは分かっていました。(2024.6.23 赤字修正)

写真は古墳時代初頭に持ち込まれたS字甕と呼ばれる土器です。東海地域にみられる口縁部が「S」字状に屈曲する脚台がつく煮炊き用の甕で、この時期に尾張勢が北部九州に来たことを示す貴重な証拠です(早野浩二「東海系土器を基軸とした東西広域編年の実際」『西相模考古学研究会・兵庫考古学談話会編「弥生時代の東西交流」六壹書房2020.5』 pp.199-204)。この時期の東海系土器は列島各地に移動していますので、「日本書紀」 崇神紀の四道将軍や景行紀の天皇九州遠征・日本武尊の遠征などの記事は、尾張勢が日本建国で中心的な役割を果たした史実から創作された作り話だということが分かります。

東海地方のS字甕 (福岡市埋蔵文化財センターより)

④は、さらにヤマト勢が大国主・台与の倭国を滅ぼした時期(ⅡA~B期)の話です。ヤマト勢が北部九州を完全に支配しました。ヤマト勢の将軍クラスの墓は前方後円墳です。方形周溝墓であればそれらの被葬者は大国主か台与の部下の将軍たちの墓でしょう。台与の平原1号墓も方形周溝墓でした。円墳は卑弥呼の弟赤坂比古(和邇氏の祖)の部下のものでしょう。(2024.6.23 赤字追加)

以上の説明から、在地の文化変容が何故起こったのかについて、ヤマト勢が北部九州の倭国を滅ぼして支配下に入れたとする刮目天の仮説によって説明できました。さらに、久住氏により当時の鉄器生産などの以下のような重要な指摘がされてますので、仮説の検証を続けます。

 ⅠB期までの須玖岡本に「弥生系」青銅器の生産集中があるが、ⅠB期の中で終了する。その代わりに奴国の「基幹産業」となるのが鉄器生産である。弥生時代中期末以来、須玖岡本周辺で、レベルの高い鉄器生産が行われた可能性があり(鉄戈や剣類の製作など)、それに関連する工房遺跡があるが(赤井手、仁王手、須玖唐梨)、大規模で集約的な生産ではなかった。しかし、ⅡA期に始まる博多遺跡群での鍛冶は生産規模(工房範囲)が大きく(久住 2007、比佐陽一郎2010、次山淳 2015)、さらには断面蒲鉾形羽口を用いて原料鉄の精錬鍛冶も行ない、その推定生産量から古墳前期の各地鍛冶遺跡は「博多遺跡群経由の鉄素材への依存度も高かった」と評価される(村上恭通 2000)。(2024.6.23 赤字に変更)

この時期は台与を女王に立てた大国主久々遅彦(狗古智卑狗)が卑弥呼の倭国の版図に山陰・北陸・近江を加えた列島のほとんどの地域を支配した時代に該当します。大国主は半島南部からレベルの高い鍛冶製鉄の技術を取り入れ須玖岡本周辺で工房を造ったのだ。大分県大野川流域から熊本県阿蘇西山麓と菊池川流域で多数の鍛冶工房を作り鉄鏃などの武器を生産する軍事基地を維持し、狗奴国への備えとしました(「【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ」)。ですから、上の赤字部分の記述は「ⅡA期に始まる」ではなく「ⅠB期の後半」になりますよ(^_-)-☆(2024.6.23 青字追加)


この図が正しいことは日本書紀崇神天皇の四道将軍から景行天皇九州遠征・日本武尊の遠征などのルート上で、三世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況で調べた戦跡が見つかっていることから分かります(詳細は「崇神紀四道将軍も景行天皇・ヤマトタケルの遠征も全て古墳時代初頭の出来事だった」参照)。(2024.6.24 青字追加)

「【検証11】定説の根拠を疑え」ですでに述べましたが、纏向勝山古墳で見つかったこの断面蒲鉾形羽口の破片ですが、270年頃(ⅡA期)ヤマト勢が北部九州を占領し、纏向に持ち帰ったものです。(2024.6.23 赤字訂正)

「ヤマト政権」が「配布」したともされる古墳副葬品鉄器も、たとえば定角式鉄鏃については博多遺跡群で製作されている(久住 2007、比佐 2010)。定角A1・A2式、定角B式(川畑純 2014)、大型柳葉式、圭頭鏃は確実に生産し(図 26)、さらに大型砥石(50㎝長)の存在から刀剣類も生産された可能性がある。

おそらく古墳副葬品の鉄製品には、直接各地首長が博多の「市」で入手したものと、ヤマト政権(倭王権)が一括注文して、各地に再配分したものの両者があるだろう。

ⅡB期以後の話です。この頃に三角縁神獣鏡が作られて、ヤマトに従う地域の首長墓などに恭順の証として副葬させたのだと考えられます。だから景初三年と正始元年の紀年銘ある三角縁神獣鏡が見つかっていますが、ヤマト政権が卑弥呼を継承した倭国だと偽装するために作ったものだと考えています。つまり、纏向をヤマトと呼んだのと同じ理由からなのです(「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」)。(2024.6.23 赤字修正)

弥生終末期〜古墳前期に北部九州から中国四国地方に分布する「曲げた剣」は、畿内にはほとんど出土せず、その製作技術の高さ(村上恭通 1998)や、那珂(62 次、ⅠB期?)や博多(62 次、ⅡB期)での出土から、須玖岡本や博多での製作が考えられる。唐津の中原 SP13231(ⅠB期)にもこれがある。この場合、古墳前期も含めてヤマト政権が関与しない副葬鉄器の交易があり、おそらく「奴国」が基点となる首長間の贈与交換の存在は確実である。

これも上で述べたように、250年から270年頃(ⅠB期後半)、大国主がその支配下の地域の首長に与えたものでしょう。この時代は大国主が狗奴国(纏向ヤマト)を裏切って対立していたので纏向付近では出土しないはずです。狗奴国は西晋との交流は勿論ないですが、呉が後ろ盾になっていたと考えられます。呉の紀年銘の鏡が二面だけ見つかっています。(2024.6.23 赤字訂正)

「三国志」には直接狗奴国と接触した記事はないですが、229年呉の皇帝となった孫権が翌年列島内の勢力を味方にしようと部下を派遣したが、失敗したので部下を処刑したという記事があります。ですから、その後狗奴国と呉が同盟していた可能性があります。一方、魏は正規軍の旗を倭国の大夫難升米に与えたわけですから、狗奴国をライバルの呉が支援する列島内の一大勢力と見ていたのでしょう。倭国と狗奴国の抗争は魏と呉から見ると代理戦争だったと考えられます。

 博多でⅡA期に始まる高度な鍛冶は、ⅡA期かその直前に新たに朝鮮半島からもたらされた新技術であるが(村上恭通 1998・2000)、その技術はすでに須玖岡本遺跡群で受容されていた可能性がある。

上述のとおりⅠB期後半に大国主が半島南部までも支配して、半島の製鉄技術を北部九州に導入していたが、270年頃(ⅡA期)にヤマト勢に大国主・台与の倭国が滅ぼされたので、畿内にそれがもたらされたということです。

なお次節で述べるが、「博多湾貿易」最盛期を象徴する西新町遺跡への韓半島系土器の集中と多数のカマド付住居の造営はⅡB期(≒布留0式新相)以降であり(ⅡA期のカマドはごく僅か)、博多の鍛冶工房群の開始が先行し、時系列的に捉える必要がある。

ヤマト勢が北部九州を占領した270年頃(ⅡA期)から、伊都国の対外交易センターが使われなくなって、福岡市の西新町遺跡に対外交易センターを遷したことは「【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?」)で説明しました。(2024.6.23 赤字訂正)

これからもまだ細かい検証は続くと思いますが、よろしくお付き合いください(#^.^#)

(注1)纏向の外来系土器を見ると1・2式の段階で西部瀬戸内となっているのが、正しくは阿波・讃岐とあります。しかも、今まで讃岐のものだったのが阿波のもので、阿波10点に対して讃岐は1点の割合とあります(石野博信「大和・纏向〔第三版〕」学生社2011,pp.468-470)。
(左クリックで拡大)

また、第二次・第三次倭国大乱期(250年ー280年)の纏向3式には阿波・讃岐と和歌山は全く消えているので、その前段階の卑弥呼が魏に最初に朝貢する239年頃にはすでに倭国側に寝返って247年の内戦で勝利した大国主の倭国にそのまま従ったと考えています。というのも、270年ころに尾張王建稲種命(記紀で景行天皇とされたが、建国の英雄ヤマトタケルのモデルでもある)が九州遠征を行い大国主と台与を討ち取った後に、尾張勢は大和に戻り、倭国側についた諸国の遠征を行っていることが鉄鏃・銅族の出土状況から分かりました(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」参照)。(2024.6.23青字追加)

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





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【葦嶽山の秘密】多婆那国は丹波の奴国!の巻( ^)o(^ )

2024-06-22 14:46:47 | 古代史
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#追加した奈具神社境内の石塔の写真を見直したところ四面体ではなく、五面体だったようですので、写真を改訂し、注記しました。

#2024-06-14 21:03:33に記事にしましたがスサノヲの足跡を巡る話を早足でしたので、文末に追加しました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

#前回「【葦嶽山の秘密】能ある鷹は爪で指す?の巻!」でご報告したとおり、実際に葦嶽山に登り、この日本ピラミッドが奴国大王スサノヲの霊を祀る祭祀場だったことを確認しました。

スサノヲを葦嶽山で最初に祀った人物は「日本ピラミッドの謎?(@_@)?」で述べたとおり、奴国のクーデターを逃れた弟のニギハヤヒと推理しています。この山頂でストーンサークルを造ってスサノヲを弔う祭祀を行い、裏切り者の吉備の勢力を討ったと推理しています。吉備津彦として隠されたニギハヤヒ所縁の場所にはストーンサークルが見られます(詳細は「備後・吉備のストーンサークルと日本ピラミッド葦嶽山」参照)。ニギハヤヒはまだ幼いスサノヲの王子イタケルを伴って、かつての部下の宮廷司祭師升らに恨みを晴らす誓いをしたと思われます。拝殿があるのが鬼叫山(ききょうざん)ですから、雰囲気が分かりますね(*´Д`)

父伊弉諾尊の代に瀬戸内海航路の要衝の吉備を任された勢力が奴国を裏切って師升の倭国に出入りして交易している情報を得たので、ニギハヤヒはムナカタ族の支援を受けて吉備を平定し、奴国を再興しますので、スサノヲの跡を継ぐ奴国大王天照大神尊(先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)とされます。このニギハヤヒの伝承が「桃太郎の鬼退治」として民話になっています(詳細は「【大発見!】日本の天皇のルーツだ!」参照)。

葦嶽山山頂付近や鬼叫山の巨石群の設置には多大な労力と時間が費やされますので、この時にニギハヤヒ自身が造ったのか、あるいは後に、イタケルの子孫の出雲・丹後王国三代の王である八束水臣津野命(以下、八束命と略記)・日高彦・高野御子が造ったのかよく分かりません。スサノヲ大王終焉の地である奴国の丘の北側の熊野神社を鷹岩の西側突起の「鷹の爪」が指していることを考えると、米神山では大国主高野御子が大々的に月の神谷の石柱群を父の終焉地に向けていることを突き止めていますので、なぜ誰でもがはっきりと分かるように鷹の頭か顔をスサノヲの終焉地に向けなかったのだろうか?という疑問が残ります。

そう考えると、「奴国乃大王」の鳥居と同様に、藤原政権の時代かそれ以降にスサノヲ大王の縁者らが遠慮しながら設置したのかも知れません。その秘密を解く手がかりは鬼叫山の方位岩などの方角かも知れないので、さらなる調査が必要だと考えています。

いずれにしてもスサノヲの終焉の地から葦嶽山への霊ラインを延長すると豊岡市気比の銅鐸出土地に誘導され、スサノヲの代表的な活動拠点が豊岡市気比であったことが分かりました。今回は、スサノヲの足跡を早足で辿ることにしましょう(^_-)-☆

豊岡市気比からは前回見たように銅鐸が4点出土しており、この地でスサノヲによる縄文系の祖霊祭祀が行われたと分かります。そこから約200m川上の地点に五十茶狭沙別命(イササワキノミコト)を祭神とする気比神社があり、社伝によると、和銅2年(709)の創祀だそうです(注)。また、現在の気比川河口から500mのところに戎岩(恵比須岩)があります。鳥取県から丹後半島の西海岸までの東西約120km、南北約30kmのエリアが、山陰海岸ジオパークとなっていて、2000万年まえからの日本列島の形成が分かる天然記念物があります。きれいな石の柱(柱状節理)のある玄武洞、気比の戎岩や砂岩が波で浸食された多数の奇岩や珍しい生態系が残されており、ユネスコに登録されています。その東側の小山の上にも気比神社がありますのでスサノヲが王宮とし滞在したのでしょう。その他、京都府京丹後市にかけてスサノヲに関係する史跡や神社が下の図のとおり、数多くあります。今回の旅行では全部回り切れませんでした。新たな発見があるかも知れませんので、また行きたいと思います( ^)o(^ )



それで、本題ですが、すでに八束命の国引き神話でお話ししたとおり、「新羅の岬」は項浦(ポパン)市虎尾岬だと推理しました(詳細は「国引き神話は史実だった?(その1)(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」参照)。対馬から海流に乗って容易に?到達できる岬はここでしょう。その東側にかつての新羅の王都のあった慶州市があります。新羅が成立するのは四世紀ころですが、それ以前の原三国時代から盛んに製鉄が行われていたのが慶州市隍城洞遺跡です。高慶秀「韓国における祭祀遺跡・祭祀関連遺物-沖ノ島祭祀の位置づけのための比較検討資料-」(平成23年「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告Ⅰ 抜刷)にも紹介されていますが、製鉄炉、溶解炉、精錬・鍛錬鍛冶炉などの遺構が見られ、四~五世紀において製鉄が本格的な体制で行なわれたようです。13世紀末に成立した「三国遺事」に見られる昔氏の始祖脱解尼師今が治めた辰韓斯盧国です。新羅の第四代王で在位:57年 - 80年とされています。倭国の東北一千里の多婆那国で誕生したという伝承です。スサノヲとほぼ同じ年代ですのでスサノヲがモデルの伝承と考えていいと思います(詳細は「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)。

ずっと気になっていた葦嶽山の天狗岩の方向が分かりました。300度よりもわずかに小さかったと思います。今度行ったときにはもっと正確に測ってきたいと思います。


<クリックするとMyMapにジャンプします>


MyMapで見ると分かりますが、最高倍率に拡大してもかなり精度よく遺跡などを通過します。三点をGoogleMapの最高精度で正確に通るように設定するのはかなりしんどいですよ。つまり霊ラインはその人物にゆかりのある地点三点を恣意的に引こうとしてもなかなか難しいのですよ。ですから、偶然ではない、何かがありますので、霊ライン上に新たな発見ができるかもしれないと、毎日嵌っています。時間がいくらあっても足らない感じですよ(;^ω^)
ご興味がわけば一緒に古代史の冒険をしませんか!
勿論、信じるか、信じないかはアナタ次第ですが(#^.^#)

(注)気比大神の正体がスサノヲであることは「すべては古事記の中に」に詳しく在ります。応神天皇が大神と名前を取りかえた「名易え」説話が古事記にありますが、これは応神天皇がスサノヲの子孫の大国主の子であることを暗示しています。古事記が藤原氏に隠された史実を暴露するための暗号書だと分かる例のひとつです。

また敦賀一宮気比神宮の例祭「敦賀まつり」は敦賀に秋の訪れを告げる北陸随一の盛大なまつりですが、「長まつり」と呼ばれています。「長」はナーガ(龍蛇神)です。気比神宮の祭神を仲哀天皇としていますが、日本書紀で創作された天皇です。卑弥呼の死後に倭国王に立った尾張王ヲトヨノミコトをモデルとした天皇ですから応神天皇の本当の父ではないのです。気比神宮のご祭神気比大神はナーガ(奴)国大王スサノヲなのですよ(^_-)-☆

【追加】
甲山熊野神社

古代祭祀場跡があるとGoogleMapにあったので、下側のルートを車で登りました。駐車場に着くと、そこから先は800m歩いて登るようです。しかし、上のルートを車で行けば熊野神社の傍まで行けたようです。今回は30km先の竹野神社まで行って、竹野川の横の道を下って、奈具神社に行く予定でしたので、次回にまわすことにしました(;^ω^)

奈具神社
上のリンク先に神社の御祭神や由緒と本殿の左右の末社の写真があります。

下の写真は今回撮影したものです。若宮神社とされた末社にスサノヲが祀られており、新羅神社と書かれた板がありました。これで新羅明神は奴国大王スサノヲと判明しました。脱解王のモデルであることも間違いないと思います(^_-)-☆

そして、申し訳ないですが、奴国大王スサノヲ(新羅明神)が奈具神社の本当の祭神です。奈具は奴=ナーガ(龍蛇神)の意味なのです。

藤原政権がスサノヲとその子孫の出雲・丹後王国三代の王(八束命・日高彦・高野御子)を隠すために、豊受大神(うかのみたま)を主祭神としています。境内に置かれた石塔の五面に神名を刻んでいますが、正面が天照皇太神と彫られています。女神アマテラスではなく、初代応神天皇の本当の父大国主高野御子なのですよ。

右横面の倉稲魂命(うかのみたま)と埴安姫命(はにやすひめ)は主祭神とされた大国主の妃で応神天皇の母の神功皇后台与(とよ)なのです。日本書紀の崇神天皇紀で武埴安彦命と埴安姫命が反乱を起こします。大国主と台与のことなのです。崇神天皇から応神天皇即位までの約350年間の話が三世紀後半の建国の史実を隠すための作り話だったとわかるのです(^_-)-☆

また、左横面の大巳貴命(大国主)と少彦名命は国造りのパートナーです。神話の少彦名命は台与の父息長宿禰王がモデルです。吉野ケ里遺跡の謎の石棺から分かりました(詳細は「【吉野ヶ里遺跡】少彦名命の石棺だ」参照)(^_-)-☆


(注:申し訳ありません!うっかり撮った写真を見落として四面体としましたが、正面左側に大巳貴命と彫られた写真がありました。少彦名命と埴安姫命が隣り合わせですので五面体だと思います。もしも間違いであればお教えください(;^ω^)

由緒書にありますが、申し訳ないですが、台与をモデルにした天女の羽衣伝説なども建国の真相を隠すための後世の創作ですよ(;^ω^)

末社(右殿)の秋葉神社の祭神カグツチは大国主に殺された尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)です。ですから、この地はやはり、国譲り神話の舞台なのです。大国主に国譲りさせたのはタケミカズチ神ですが尾張王建稲種命がモデルです。建稲種命あるいは跡を継いだ尾綱根命の軍勢が豊岡市竹野町から丹後半島にかけて占領し、そのまま住み続けたようです。崇神天皇紀の四道将軍のひとり丹波道主命とされています。

しかし、お隣の豊岡市竹野町鷹野神社と同様で尾張王を祀っているのですから分かります(建稲種命タケミカズチの父乎止与命カグツチですが、それぞれ祖父景行天皇と孫仲哀天皇として誤魔化しています。詳細は「国譲り神話は都合の悪い史実を隠すためだった!」参照)。豊岡市竹野町竹野の方言は「にゃー・にゃー」という猫の鳴き声のようで、どうも尾張弁のなごりのようです。あの可愛いキューピーの寝姿の猫崎半島の名前はどうやら、その方言から採ったのではないかと思います。(;^ω^)

丹後半島も天橋立の横の籠(この)神社には海部氏系図が残されています。三世紀末に尾張王に従ってこの地にやって来た海部氏の末裔ですよ。この地でも尾張弁との類似が言われているようですよ(^_-)-☆

丹後、尾張弁「どえりゃー」似てる 京丹後市、共通性調査 京都
産経新聞2014/8/5 03:41
 「うみゃあ」「ええがや」「どえりゃー」-など丹後弁と尾張(名古屋)弁に多くの共通の方言があることから、京丹後市は4日、丹後と東海の両地方の文化的なつながりを探る方言調査を行うと発表した。同市は「交流促進のきっかけになれば」としている。
                   ◇
 舞鶴若狭と京都縦貫の両自動車道の整備などにより、丹後と東海を結ぶ交通アクセスが改善することから、親交を深めようと市が愛知県教委の協力を得て、文化や方言の類似点に関する調査を今月から実施する。

 両地方には、「あすんどる」や「おみゃあ」「ぬくとい」「ほうか」など共通の言い回しが多い。

 京丹後市教委によると、弥生時代の首長墓とされる赤坂今井墳墓(同市峰山町赤坂)から東海地方で製作されたとみられる土器が出土したことや、両地方が古代赤米の産地であることなどから、古くから文化交流があったと指摘されているという。

 龍谷大の糸井通浩名誉教授(国文学)が中心となって調査し、文化交流の起源などを探り、今年度内に報告書をまとめる予定。

 市は「方言など文化的な共通点を確認することで両地方の親しさが増し、交流促進につながれば」と話している。(西家尚彦)
                   ◇
 同日、名古屋市で記者会見した中山泰市長は「お互い関心を持ち、兄弟のような交流がいろんな分野で進む一つのきっかけになれば」と話し、同席した大村秀章愛知県知事も「必要な協力をしていきたい」と応じた。



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初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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