刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】中国文化の本家は日本だった?!( ^)o(^ )

2025-03-04 00:00:06 | 古代史

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【海外の反応】「日本文化なんて全部中国のパクリだろ!」普段何気なく使っていた漢字が実は日本からの逆輸入だったと知った瞬間、中国人が絶句…
魂JAPAN@YouTube


@katumoku10
いい話題を有難うございます。

みなさん驚かれると思いますが、中国神話の三皇五帝の筆頭の神が人類の始祖神で、日本の天皇のルーツだった証拠が倉敷市楯築王墓で見つかっていますよ。

墳頂の神社の亀石というご神体が天皇伏羲と同じ人面蛇体(人首蛇身)だったのです。

亀石の顔は被葬者なのです。日本書紀は吉備津彦と誤魔化していますが、今上天皇の皇祖神だということが、平安時代の朝廷が備中国一宮吉備津神社吉備都彦命に特別な神階「品位(ほんい)」を贈っていますので分かりました。

品位は現在までにたった四柱しか送られていませんよ。

よろしければ詳細は

【大発見!】天皇家のルーツの証拠!

中国神話は日本人の神話だった?

をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

新唐書・宋史 日本伝にあるとおり「日本は古の倭の奴国」ですので、初代奴国王天御中主(あめのみなかぬし)は周の先王古公亶父(ここうたんぽ、武王の曾祖父、呉の太伯は長男)の子孫の呉の王族です。呉王は長江河口や江南などの倭人を統治していましたので、紀元前473年に呉が滅んで倭人の助けを借りて半島南部から福岡市吉武高木遺跡に落ち着いたことから日本の歴史が始まりました(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。


古公亶父は、夏王朝を建てた「禹」の子孫ということになります。つまり倭の奴国(中国=なかつくに)の王も禹王の子孫で間違いないのです。だから、日本書紀は藤原氏のための歴史書だった」で述べたとおり、日本人は今まで藤原不比等によって藤原氏に都合の良いデタラメな日本神話を押し付けられていますが、中国神話こそが龍蛇神(ナーガ)を信奉する倭人の中つ国神話だったということです。

龍蛇神(ナーガ)は、日本列島の先住民縄文人も蛇信仰でしたから受け入れられています。第十七代奴国王伊弉諾尊(イザナギ)が縄文海人ムナカタ族の王女伊弉冉姫(イザナミ)を娶って生まれたスサノヲとニギハヤヒの兄弟が天皇の皇祖神ということなのです。

Wiki「神階」によると、六国史終了時点(887年)で以下の四柱にだけ特別な神階「品位(ほんい)」が与えられていることにより、日本の建国の真相がわかります(括弧【】内は『延喜式』神名帳での鎮座国と現神社名)。ただし、天安三年(859年)1月27日に伊佐奈岐命に一品、吉備都彦命に三品から二品に、天慶三年(940年)に一品 とされています。四柱の神のそれぞれの正体を略記しています(^_-)-☆

一品
伊佐奈岐命 淡路国 伊弉諾神宮】17代奴国王伊弉諾尊・記紀の国生みの神・皇祖神
八幡神・八幡比咩神 豊前国 宇佐神宮】18代王スサノヲの子孫応神天皇の父大国主高野御子・宗像女神市杵島姫卑弥呼
二品
吉備都彦命 備中国 吉備津神社】ヤマト王権を成立させた狗奴国王(記紀の崇神天皇)の祖神ニギハヤヒ大王(19代奴国王天照大神尊・先代旧事本紀 の物部氏の祖神天照国照彦天火明櫛玉饒速日命)

中国というのは日本の古名の「なかつくに」です。

二・三世紀の日本の建国時代に奴国(ナーガ・龍蛇神国・中国)の王族が活躍した出雲・吉備の地域を今でも中国地方と呼んでいます。

中国(なかつくに)文化は春秋時代まで大陸にあった古い文化で、BC.473年に滅んだ呉の倭人(Y-DNA O-47z)はほぼ半島と列島に逃れて、さらに七世紀の白村江の戦いの後は半島の倭人(百済人など)がほとんど日本に引き揚げています。(「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)。

したがって、以下のような古(いにしえ)の中国文化が今でも日本に残っています(^_-)-☆

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【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?

子供のおとぎ話のもととなったのは奴国宮廷楽師の師升らのクーデターを逃れた奴国王族ニギハヤヒが、吉備の裏切り者たちを討った史実だったのです(以下の吉備平定ルート図の詳細は「日本ピラミッドの謎?(@_@)?」参照)。

【刮目天の古代史】消された吉備の大王ニギハヤヒの謎?( ^)o(^ )

ニギハヤヒは師升らに殺されて奴国を奪われた18代奴国王スサノヲの弟です。ニニギの弟というのは日本書紀の誤魔化しだったのです。宋史 王年代紀には19代王天照大神尊とあったので、日本書紀が女神アマテラスにすり替えたのですよ(^_-)-☆

【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?( ^)o(^ )

ほとんどの日本人は記紀が天皇の歴史書だと洗脳されているので、古代史の謎がロマンなのです!もう目を醒ます時期ですよ。日本が消えてなくなるる前に!^)o(^ )

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆

10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として倭国から日本に国号を変えたことが正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)






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【刮目天の古代史】国宝金印の偽造説は陰謀論?(#^.^#)

2025-03-03 00:00:04 | 古代史

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#江戸時代に志賀島で発見された、范曄後漢書に書かれた「漢委奴国王」の金印をニセモノとしたい人がいて困ります。国宝金印が本物だという決定的な証拠があります。偽物だという決定的な証拠はないのですから、これこそ陰謀論の典型だと思います。

文献に書かれた内容と物証が一致するので、史実が存在した学術的にとても重要な証拠なのです。

ですから、YouTubeで偽造説を蔓延させるような動画を見つけましたらその都度反論コメントしています。今回もまた以下の動画に、ご迷惑とは承知で反論のコメントしましたら、問答無用で削除されてしまいました(^^;)

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古代中国から贈られた金印から明らかになった古代日本の歴史の真実…99%の日本人が知らない隠蔽された古代中国との関係と歴史を覆す驚愕の真実とは【ぞくぞく】【ミステリー】【都市伝説】
ぞくぞく家族団RUN@YouTube

@katumoku10

いい話題を有難うございます。ぞくぞくさんも本物だと考えておられるので安心しました。
でも偽造説が横行しているので、国宝金印がニセモノだと思われている方も少なからずおられるはずです。

しかし、本物である決定的な事実ですが、蛇鈕と書体などを学術的に調査した明治大学の石川日出志先生が江戸時代に後漢時代に作られた金印を再現できないと結論付けておられます。

国宝の金印が偽物、ではないことがわかった 石川 日出志 明治大学文学部 教授 2021.11.10

また漢代の金印の金の純度が95%もあることは、現代になって別の金印も発見されて測定した結果わかったので、これも江戸時代には知り得ない情報なのです(石川 日出志『3.「漢委奴國王」金印―真贋論争から璽印考古学へ―』)。

もしも偽造したのならば、職人に金の純度・寸法・蛇鈕を指定しなければニセモノはできませんので、その指示書が無ければ贋作ということができないと河村哲夫先生も主張されています第1回志賀島の金印論争と奴国その1 河村哲夫の日本古代史チャンネル@YouTube)。

偽造説の方はこれらの主張に反論することなく、決定的な証拠もなしに怪しいと主張されているわけですので、陰謀論という結論になります。

そして、何よりも重要なのは范曄後漢書に書かれていた実物が発見されたということですから、そういう史実があった、学術的に重要な物証なのです。

加えて、「倭」のニンベンを省略した「委」を使う減筆は1世紀から3世紀の流行だということも分かっています。

実は延光五年(125年)の銘のある、現存する日本最古の金文が1948年に発見された室見川銘板です。北京大学が鑑定したところ、当時の日本人は漢字を読み書きできないはずだから清朝の時代の偽造だとされてしまいました。

でも、最近すでに弥生時代に文字を使用していた証拠がたくさんあることが分かりましたので鑑定は見直すべきです。

この銘板には「高暘左 王乍永宮齊鬲」とあり、「左」は「佐(たすける)」、「乍」は「作(つくる)」の減筆だと分かりました。

そしてこれも范曄後漢書にある107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(正しくは奴国宮廷楽師だった人物で、伊都国王師升)の史実を証明するものだったのです。

また魏志倭人伝に登場する倭大夫の難升米の「難」は「儺(な)」で、師升の史実を証明する人名(役職名)で、本当の倭国王だったと分かりました。ですから、卑弥呼が倭国を統治する女王だというのは政治的に作られたものだったのです。魏志倭人伝のデタラメな行程記事を作った人物と分かりました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

つまり、金印に「委」と彫られたことも証拠のひとつなのです(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)。

それではどうして志賀島で発見されたのかについては「【刮目天の古代史】蛇鈕の金印は奴国王を示す!(^_-)-☆」に詳しく述べていますので、よろしければご参照ください。
どうも、お邪魔しました(#^.^#)

 

【関連記事】

【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?( ^)o(^ )

記紀を天皇の歴史書だと思い込んでいるから古代史が謎のままなのです!( ^)o(^ )

 

王年代紀は記紀神話を正した!

10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として倭国から日本に国号を変えたことが正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

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【刮目天の古代史】空想は楽しいが・・・(;^ω^)

2025-03-02 00:00:02 | 古代史

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#ANYAさんは活発に邪馬台国論を発表されていますので、時々反論コメントして、最初はお返事くれたのですが、最近は無視されて残念です。消すことまではしないのは紳士的ですが、ちょっとこの先が心配になりましたので、申し訳ないですがしつこく以下の動画にコメントしました。

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③【阿波説 討論】 歴史妄想 VS ANYA

ANYAチャンネル@YouTube

みなさんは驚かれるかと思いますが、いま語られているような記紀神話は江戸時代に本居宣長が古事記を発掘して絶賛し、独自に解釈した神話なのです。
 
それまでは720年に完成した日本書紀が創った日本神話が、神仏習合、修験道や道教などの影響で記紀神話とは全く異なる、ナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀に変貌していたのです。詳しくは斎藤英喜「読み替えられた日本神話」(講談社現代新書 2006)にあります(注1)

(詳しくは「天皇即位の密教の儀式の正体?」参照)
 
712年に完成したとされる古事記は9世紀の日本書紀の勉強会(日本紀講えん)で突然表に出てきたもので、正史に古事記の記録もなく、日本書紀が参照した痕跡もないものなのですから偽書なのです(注2)。
 
しかし、多くの日本人は天皇の歴史書だと刷り込まれているので、記紀神話を太古からの伝承だと考えています。 日本書紀は天武天皇が編纂を命じたのはいいと思いますが、完成したのは崩御の34年後なのです。時の権力者藤原不比等が、権力を将来に渡り握り続けるために不都合な建国時代の歴史を神話を創って誤魔化し、人代もかなり改ざんしていることが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から判明しています。
 
 
アブダクションと呼ばれる最近注目されている科学的な推論法に従って、事実に基づき仮説を構築しています(詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」参照)。
 
事実に基づかない想像は空想ですが、空想に凝り固まって反論を受け付けないのは妄想という病気の症状です。余計なお世話かもしれませんが、ANYAさんも仮説を事実でもっと検証した方がいいと思います。
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(注1)この本のレビュー日本神話はトンデモない!? 豊饒な「日本書紀」、天皇が発する「勅語」という神話」(2017.2.8)がありますのでどうぞ(;^ω^)。しかし、記紀神話が偏狭なナショナリズムを生み出し、多くの日本国民を不幸にした大東亜戦争とその敗戦の元凶のように考えられていますが、それも一方的な偏った見方ではないかと思います。その時代にはその時代の考え方があり、封建社会から近代化に向かい、列強が支配する世界の荒波の中を生き抜く知恵として記紀神話が使われたことも事実です。歴史を知ることは未来を如何に賢く生きるかを教えてくれるものですから、前向きにポジティブ思考で考えてゆけばいいのだと思います(^_-)-☆

今、一番興味を持っている霊ライン解明の糸口になるかと思い、田畑誠(まこちん)「宇宙一わかりやすい「量子力学」大全」KADOKAWA 2024)を読み始めたのですが、すべての現象は各自の脳内で素粒子が作り出す情報でしかないと知って、少しショックを覚えています。学生時代には量子力学を独習しようとして途中で投げ出した覚えがあります。でも、もう一度勉強しなくてはならない予感がしています。頭が錆びついていますのでもう遅いかも知れませんが(;^ω^)

(注2)日本書紀が完成した翌年養老五年(721年)が最初とされますが、この時は講師を決めずにお披露目しただけです。その後、弘仁三年(812年)・承和十年(843年)・元慶二年(878年)・延喜四年(904年)・承平六年(936年)・康保二年(965年)の計7回行われたものと、史料などから考えられています。その弘仁三年の講師が多人長です。サブテキストとして古事記の存在を明らかにしましたが、序文はその内容から人長が書いたものとされています。通説では本文は、何らかの原本があったと見られていますが、すでに大和岩雄「古事記成立考」(大和書房 1974岡田英弘「倭国の時代」(文芸春秋 1976)で偽書と論証されているのです。これらを受け入れられないのは、多くの方が「記紀が天皇の歴史書」だという思い込みからでしかないのです(詳細は「【刮目天の古代史】日本書紀のひみつ?( ^)o(^ )」参照)。

古事記は、日本書紀が隠した史実を、日本書紀に沿いながら違えることによってそれとなく史実を暴露する暗号書だったのです。以下に主な内容を示します。

(1)王年代紀は記紀神話を正した!

新唐書・宋史が記した王年代紀で示した初代奴国王天御中主を、日本書紀で高天原に最初に登場する神として古事記でも登場させ、日本書紀の神代七代前に五代の別天神を紹介することによって、神代の高天原の神々が、宋史王年代紀に記載した倭国を支配した奴国王のことだと示唆した(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)

(2)倭王帥升(すいしょう)は何者だ?

高天原を追放された乱暴者の神が、八百万の神々に髪の毛をむしられ、手足の爪を剥がされ、全財産を没収されて追放されたと書くことによって、107年に後漢に朝貢した倭の伊都国王師升が第十八代奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った史実を示唆した(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

(3)ナガスネヒコの正体は大国主トビヒコだよ!

日本書紀の神武東征神話が真の初代応神天皇の即位の史実を誤魔化す話であることを示唆した。日本書紀で登場するナガスネヒコの別名をトビヒコと明かすことにより、トビヒコの正体の大国主がヤマトのニギハヤヒ大王の子孫に殺された後に大国主の祟りにより、大国主の子(応神天皇)が祭祀王として纏向遺跡に呼ばれてヤマト王権が成立した史実を示唆した(詳細は「ナガスネヒコの正体は大国主トビヒコだよ!」参照)。

(4)日向三代神話は出雲三代がモデルだった!

日本建国の主役であったスサノヲの子孫の出雲・丹後王三代の王八束命(出雲国風土記の神八束水臣津野命の略称)・日高彦(大国主高野御子の父)の正体を日本書紀は日向三代の神話で隠したことを示唆する神名を与えた。八束命は淤美豆奴神(オミズヌノカミ)とした。またその子日高彦(穂高彦)を天之冬衣神(アメノフユキヌ)としたが、冬の季語がホダ(木切れ)なので八束命と日高彦が木霊イタケルの子孫であることを暗示した(詳細は「日向三代神話は出雲三代がモデルだった!」参照)。

(5)空白の世紀と倭の五王の謎

空白の四世紀の謎を解明するためのヒントを与えた。仁徳天皇が、応神天皇の皇太子菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ、宇治天皇)を暗殺して皇位を奪った史実や卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主、詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)の孫の菟道稚郎子の妹八田皇女と仁徳天皇の子住吉仲津彦(住吉天皇)が即位した後、異母兄弟たち(履中天皇・反正天皇)に暗殺された史実に加えて、倭の五王の系譜を示唆するために日本書紀と異なる崩年干支を記載した(「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)」参照)。これによって富雄丸山古墳の被葬者が判明した(詳細は「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」参照)。

(6)天智天皇とは何者だ?

日本書紀が隠した天智天皇の真の系譜に気付かせるヒントを与えた。日本書紀が天智天皇の祖父とした押坂彦人大兄の妃糠手姫皇女(ヌカデヒメノヒメミコ)が、日本書紀が天智天皇の母とした宝皇女(タカラノヒメミコ、皇極・斉明天皇)と同じ名前の宝王(タカラノヒメミコ)だったことを明かすことで天智天皇(中大兄、中津王)の真の母が糠手姫皇女であったことを示唆した(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。

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【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!

10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として倭国から日本に国号を変えたことが正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

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国引き神話は史実だった?(その5)西谷墳墓群の被葬者は?(^_-)-☆

2025-03-01 00:12:47 | 古代史

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#2023-11-29 06:24:41に記事にしましたが、その後の調査で弥生後期から古墳前期の辰韓の土器が出雲市山持遺跡で出土していることが分かりましたので、文末に図と共に追記しました。よろしければまた、お付き合いください(#^.^#)

#当初は(その3)あたりでこのシリーズ終わる予定だったのですが、いろいろと出てきましたので続けたいと思います。新たな発見で、その前に書いたことと矛盾するところも出てきて、修正もしながらやっていますので、よろしければ戻ってもう一度読んでいただき、おかしなところを指摘していただくと助かります。それでは、前回予告した西谷墳墓群についてみていきます。いつもの駄文で恐縮ですが、どうぞお付き合いください(;^ω^)

西谷墳墓群は出雲市大津町にある弥生時代から古墳時代まで長期間営まれた30基以上の墳墓と横穴墳墓群です。特に、弥生時代後期後葉(二世紀末)に出現した大型の四隅突出型墳丘墓が多くの人々から注目を集めています。方形台状墳丘墓に首長やその一族が葬られ、四隅が拡げられて、そこから人々が墳丘に登り、儀礼が行われたと分かるものです。この形式の首長墓が日本海沿岸部などに拡散する、地形を利用した大型弥生墳丘墓です。弥生時代の終末期(三世紀前半)そして古墳時代初頭(三世紀後半)から平地に、さらに大規模な古墳が造られるようになりますので、古墳時代の発祥を議論する上で特に重要な遺跡です。



下図は平成10年度調査報告書から引用した西谷墳墓群の分布図ですが、6基の四隅突出型墳墓に赤丸を付けています。葬祭に使われた土器の形式から3号墓・1号墓が二世紀後半、2号墓・4号墓が二世紀末ころ、9号墓・6号墓が三世紀前半に造られたとされています。ただし、9号墓は「編年に有効な壺形土器の口縁部などが出土しておらず時期の確定は難しい」とwiki「西谷墳墓群」にあります。



最初の2号墓の写真の手前に見えるのが3号墓の北西の端部で、そこに見られる立石が2列になっている様子が見えます。2号墓も2列あります。1号墓・4号墓・6号墓は立石が1列です。そして、9号墓だけは3列も配石がありますので、特に丁寧に作られた墓だと分かります。そして、最大のサイズの9号墓が東西42m×南北35m、次が3号墓で東西40m×南北30m、2号墓が東西24m×南北35m、そして4号墓が東西34m×南北27mです。首長クラスの墓は立石が2列以上のものと考えると、4号墓は大きくてもランクが一つ下になると考えられます。

2号墓は全体の4分の3が破壊されていたそうで、3号墓は木槨の中に木棺が納まっていたので、恐らく同じ形式と考えられ、攪乱された土の中から朱の塊が出土しているので、木槨の土壙の底に砂利と赤色粘土もしくは赤色顔料が敷かれていたと考えられています。4号墓についてはその記述がないので、やはり王よりもランクが下の有力者の墓と考えて良いようです。

3号墓の復元模型が出雲弥生の森博物館で展示されています。手前に新しい王と王妃が座っており亡くなった王妃の墓の上で儀式が行われている様子も、すべてしっかりと考証されて忠実に示されています。奥の柱が見える部分に王の棺が埋められています。四隅に柱を立てる作業の様子が示されています。模型の右側に見える展示物が王の墓の断面を示したもので木槨で囲われた木棺の底に朱が敷かれて、その上に王の遺体がある様子が分かります。


クリックすると、王や妃など人物の様子が見れますのでどうぞ(^_-)-☆



王の木棺の中に短剣と管玉の首飾りがあったようです。その右上に同様の少し小さいものがありますが、幼児のものとされています。王・妃・王子または王女が同時に亡くなったのでしょうか?だとすると感染症が死因なのかも知れません。王妃の墓からは碧玉製管玉、ガラス製品(小玉、垂玉、管玉、勾玉など)が大量に出土しています。そしてこの台状面に他に6個ほどの土壙墓があるので奴婢などを殉葬したのかも知れません。また、封土の上に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰・丹波(丹後半島)・北陸地方の土器も見られます。下の図は北陸系土器として島根県のホームページにありましたが、壺の右側に突起が見えます。素人考えですが三韓土器に耳がある壺があるので似た感じです。辰韓(新羅)のものだったらバッチリ国引きの証拠ですが、残念ながらやはり違うようです。しかし、3号墳王墓(第4主体)に伴う土器の「内訳と割合は山陰系土器約 61%,丹越系土器約 21%,吉備系土器約 14%,系譜不明土器約4%である。」とあるので系譜不明の中にあるのかも知れません(「西谷3号墓発掘調査報告書本文」、2015,p.223)。もしも浦項地域の土器が出雲にないのならば、浦項市虎尾岬から在地の人が出雲に渡ってはいないということですから、出雲の人が対馬経由で半島南部の鉄素材を持って来ていたということになります。(注1)(2023.12.2 赤字追加)



そして、2号墓からはガラス腕輪や、吉備の特殊器台・特殊壺などが出土している。とあるので、女性の墓と考えられます。上述のとおり、二世紀後半の3号墓よりも少し新しい二世紀末と考えられています。

さらに、3号墓・2号墓と少し離れた東側の、最も丁寧に作られた9号墓ですが、規模も最大ですので特別な被葬者だと考えられます。墓の上に三谷神社が在ります。健磐龍命(たけいわたつのみこと)、亦の名を阿蘇津彦命とあります。この神は景行天皇の熊襲征伐に登場します。天皇が阿蘇山に登ってみたら、ここには人が居ないじゃないかとつぶやくと、突然私たちが居ますよと阿蘇津彦命と阿蘇津姫命の二人の神が現れました。そこで、天皇は「あ、そう?!」と言ったのでここを阿蘇と名付けたそうです(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)から(その4)」参照)。日本書紀の編纂者らはダジャレで楽しんでいたようです。史実と違う話を無理に作るように権力者の藤原不比等に命じられたので、コノハナサクヤヒメなどと適当な名前の姫を登場させて、笑いながら作業した様子が目に浮かびますね(#^.^#)

阿蘇津彦命と阿蘇津姫命は、大国主と妃の台与のことです。至る所に登場するペアの神様の正体です。民間伝承でも道祖神の中に男女ペアの石像などが見られますが皆、大国主と台与のことなのです(詳細は「道祖神もやっぱり(^_-)-☆」参照)。

ということで大国主が三谷神社の祭神ですが、大国主の墓はすでに見つけています。戦死した場所は久留米市高良山です。その西麓にある祇園山古墳というピラミッド状の立派な方形墓です。夏に行ってきましたが、草に覆われて登るのも大変でした。しっかりと整備して欲しいものです。それから初代応神天皇が両親の祭祀を纏向で行うために造った古墳が桜井茶臼山古墳と箸墓古墳です。箸墓の被葬者「倭迹迹日百襲姫命」はヤマトとトビ(大国主)を恨んで、何度も何度も唱えるお姫様という名前なのです。たった十三歳で女王ということにさせられて、最後はヤマト勢に殺された悲劇のヒロインなのです(詳細は「悲劇の女王台与のはなし(その1)から(その4)」参照)。だから卑弥呼の墓ではありませんよ(^^;)。

ですから三谷神社の祭神の大国主が9号墓の被葬者ではありません。社伝によれば「新宮氏の先祖が紀州熊野から勧請した」とあり、9号墳の南側の上来原の三谷 山上にあったのが、いつのころか古墳の上に遷されたとあります。戦国時代のこの神社の記録があるそうで、それ以前のことになります。

新宮と言えば熊野三山ですから熊野信仰は平安中期から始まったようで、イザナギ・イザナミとスサノヲを祀っています。大国主はその末裔です。古代人は、新たに王となった人物は偉大な祖先の霊魂を引き継いで偉業を達成できるという信仰があったのです。これを米神信仰と呼びます。大国主が最初に国造りを行った宇佐市安心院町佐田地区にあるストーンサークル佐田京石と米神山に因む祖霊信仰です。それを一般化すると首長霊信仰という意味になります(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」、「古代史のカギを握る神々の正体?」「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」など参照)。
 
ちょっと長くなって恐縮ですが、社伝の続きです。「元禄十三年(一七〇〇)それまで同地池ノ内にあ った式内阿須利神社を当社に合祀した」のですが、「明治五年、神社制度の改正にあたり、 阿須利神社がふたたび独立社として大津町山廻の 地に遷されることになってため、当社は一時廃社 となり、その後地区民の陳情により、同十三年無 格社として再興した。」とあります。

その阿須利神社の説明書には「創祀年代は不詳。
式内社・阿湏利神社に比定されている古社で、『出雲風土記』に「阿須理社」とある神社。

『雲陽誌』には、出雲の振根が弟・飯入根を殺した時、血(汗)が流れて池中に入り、阿世利という、とあり、
また、八岐大蛇が、この池に入って「あせった」ためと、「あせり」という名となったという話もある。

以上の話の通り、本来は上来原の池の内の杓子山に鎮座していた。貞享の頃、その地に高瀬川が開設され、土砂が流入する地となり、三谷の三谷神社境内に、やむなく遷座

明治になり、神社整理のため廃社となった大津町の龍王社跡地に遷った。さらに、大津町で廃社となった八幡宮を合祀し、現在の状態になった
。」とあり、西谷墳墓群の北西約1kmの龍王という地名だったそうです。祭神が豊玉彦なのです。(2023.11.30 赤字訂正)

まあ、そういう事情で三谷神社に遷座したというのは分かりますが、「やむなく遷座」ですか?本来の場所に鎮座していただきたいという地元の人々の気持ちが何となく伝わってきませんか? この9号墓の被葬者は、(その4)にも述べたとおり、藤原政権が厳しく監視した最も隠したい神様のひと柱なのですから、被葬者がどなたかもうお分かりですよね(^_-)-☆

この最も立派な9号墓を造った人物は大国主の父、倭国大乱で大活躍した英雄で、倭国王師升の子孫難升米に討たれた狗奴国の官狗古智卑狗だと思います。この地で父の八束命を葬り、王位継承の儀式を行ったのだと思います。

さて、それでは3号墓の被葬者ですが、これも(その3)で大国主の系譜を調べましたからお分かりだと思います。この出雲の地を治めた八束命の父五十猛命(イタケル)とその妃、古事記によれば木花知流比売ということになります。八束命はやはりイタケルの子だったようです。八束命が国引きしたスサノヲ大王ゆかりのムナカタ海人族を呼び寄せて葬儀を行ったのでしょう。吉備の人々も来ています。クーデターを逃れたスサノヲの弟ニギハヤヒがムナカタ族の支援で吉備を平定して隆盛になり、奴国を再興したのです。その子孫が纏向遺跡を造りヤマト王権を成立させたのです。ニギハヤヒ大王が奴国王を継承し、天照大神尊(王年代紀第19代)と呼ばれ、倉敷市楯築王墓に葬られています。イタケルよりも先なのか後なのかは今のところ分かりません。

そうなると2号墓の被葬者も分かります。出雲市氷川町の万九千神社(まんくせんじんじゃ)で神様を送り出す祭りをしますが、主祭神は櫛御食野命(クシミケヌノミコト)スサノヲです。大穴牟遅命(大国主)、少彦名命と 八百萬神が一緒に祀られています。そして境内に立虫神社(たちむしじんじゃ)という変わった名前の神社がありますが、祭神が五十猛命(イタケル)、大屋津姫命(オオヤツヒメ)抓津姫命(ツマツヒメ)で、二人のヒメはイタケルの妹、抓津姫命は大屋津姫命の妹です。父スサノヲに連れられて紀ノ國などで木の種を撒いた神様です。しかし、スサノヲは師升らに殺されていますので、三人の王子・王女はムナカタ族に助けられて奴国を脱出し、出雲の地で暮らしたということです。立虫神社が先にあったという説がありますから、それが正解だと思います(^_-)-☆(2023.12.3 赤字修正)

ということで今回の推理でいろいろと分かりましたので、大国主の系図を推定したものを下に示します。
記紀が天皇の歴史書だと思わされたままでしたら、藤原政権の八束命隠ぺい工作は見抜けませんから、西谷王墓の被葬者は永遠の謎でしょう(;^ω^)(2023.11.29 赤字追加)



(注1)松本岩雄先生(八雲立つ風土記の丘所長)「弥生時代史にみる東アジアとの交流」第 5 回市史講座ミニレポート:平成 30 年 8 月 18 日(土) に以下の記述があります。

 韓国の勒島(ヌクト、古代の弁韓諸国の地域にある島)では、九州の弥生中期の土器、楽浪郡の土器、中国の銭が一緒に出土しており、貿易拠点だったのではないかと考えられるそうです。この勒島の土器は出雲市の山持遺跡からも出土しており、九州北部から山口・島根(出雲地域)への分布が見られるそうです。
一方、出雲地方と楽浪郡(現在の平壌周辺)との繋がりもみられました。九州北部と出雲地域で楽浪郡の土器などが見られることから、
(1)楽浪郡との直接交流、(2)中継地を経由、という二つの説があるそうです。土器の移動については、(1)土器の作成者が運んだ、
(2)交易者が運んだ、(3)地元の人が持ち込んだ、(4)地元の人が他地域の土器を真似て作った、など様々な説があり、より詳しく検討する必要があるそうです。

<中略>
 さらに、階級の成立を考える上で重要な出雲市の西谷墳墓群を挙げられました。この遺跡の埋葬遺構からは大量の水銀朱が出土しており、三号墳には 4cm にわたる朱の層ができていたそうです。これらは中国の朱の成分に酷似していることが分かりました。当時の朱の価値を検討したところ、「生口(奴隷と推定)10 人分」にも及ぶそうです。この他、ローマ帝国内で生産された硝子の管玉、朝鮮半島産鉄製剣がもたらされていたことが分かってきました。こうしたものを入手できる財力を持った有力階級が成立していたことが分かります。

【追記】(2025.3.1)

下図(左)に出雲王と半島・吉備の繋がりを示します。

辰韓の土器は西谷墳丘墓では出土していませんでしたが、2km北に在る山持遺跡から出土していることが分かりました(渡辺貞幸「出雲王と四隅突出型墳丘墓」新泉社2018,p.49)。したがって、国引き神話の志羅紀の三埼に比定した浦項(ポパン)市虎尾岬へのルートを下図に書き入れました(「国引き神話は史実だった?(その1)」参照)。

弥生中期末から後期中葉に楽浪郡、弥生後期末には馬韓や弥生中期末から後期末に弁韓(交易の拠点勒島遺跡)、そして後期末から古墳初期に上述の製鉄が盛んに行われていた辰韓(慶州市の隍城洞遺跡)と出雲は交流があることが分かりました。縄文時代にすでに縄文人(ムナカタ海人族)が隠岐の黒曜石を持って半島などに渡っていましたので、当然、弥生時代にも交流があったということです。

まだ幼子だったスサノヲの王子五十猛(イタケル)や王女大屋津姫(オオヤツヒメ)抓津姫(ツマツヒメ)は祖母イザナミの実家のムナカタ族の手助けで奴国を脱出し、出雲に領地を与えられて成長したと考えています。右の図にこの三柱を祀る立虫神社の位置を示していますが、元は社伝によると現在地より7,800m南西にあったようです。図の「なかのムラ」はナーガ(龍蛇神)の村を示していますので、中野美保遺跡に王宮があったと考えられます。

 

また山持遺跡から南西約1kmにあった「よつがねムラ」の矢野遺跡に、下図のとおり、吉備の葬祭用の土器(3号墳に出土した特殊器台と同様なもの)が出土しています。2・3・4号墳で出土したものとやや異なる文様で、なぜこのムラで出土したのかも不明と説明されていました。

出雲王イタケルの後継者の八束命が山持遺跡に居て、吉備の使者が八束命に届けたのかもしれませんネ(;^ω^)吉備のニギハヤヒ大王はスサノヲの弟で、どちらも奴国を逃亡した境遇でしたので、親族として緊密な交流があったはずです。

物部氏の祖とされるウマシマジはニギハヤヒと三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)の子で、狗奴国王卑弥弓呼(崇神天皇)の祖父か曽祖父ではないかと考えています。このミカシキヤヒメは神武東征神話でも登場しますが別名トミヤヒメとあり、ナガスネヒコの妹とされています。ナガスネヒコは古事記がトミヒコだと素性を暴露しています。

トミはトビと同じヘビ神で神武東征神話では大国主のことなのですが、年代が合いません。ナーガ(龍蛇神)=奴国王スサノヲの王子イタケルを意味するなら、スサノヲの弟ニギハヤヒの子ウマシマジの母はイタケルの妹の二人の王女オオヤツヒメかツマツヒメのどちらかの可能性があります。

そしてウマシマジの異母兄で、尾張氏の祖アメノカグヤマの母が天道日女(アメノミチヒメ)で別名が下照姫とあり、これも大国主の国譲り神話に登場します。まだ生まれていない大国主と宗像三女神のタギリヒメの子という誤魔化しがあるので混乱します。しかし、なぜ誤魔化したのかを考えると、ややこしいですが、アメノミチヒメがツマツヒメ、ミカシキヤヒメがオオヤツヒメ、あるいは逆ではないかと考えてしまいます。つまり、スサノヲの弟ニギハヤヒは二人の姪を妃として吉備で奴国王(宋史王年代紀19代王天照大神尊)としての正統性を主張したのではないかと考えました。しっかりした根拠のある推論ではないので申し訳ないですが・・・(;^ω^)

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【必見!】考古学と民俗学からわかる日本の建国!(#^.^#)

2025-02-27 21:32:15 | 古代史

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#2020-02-11 13:06:31に「【祝】日本建国(令和二年)」という表題で記事にしましたが、リンクが切れていたので修復し、その他新たな知見を加えて整理し直したので、標記のタイトルに変えました。よろしければ、またお付き合い下さい(#^.^#)

卑弥呼の死の直前の247年の状況から三世紀末に奈良県桜井市纏向遺跡で初代ヤマトの祭祀王として応神天皇が即位する、ヤマト王権成立までを考古学や民俗学の成果などから推理しましたので、以下に概略を説明します(注1)。

ヤマト王権成立を「記紀神話」では紀元前六百六十年に神武天皇が九州から大和に乗り込んで武力で征服したとしていますが、三世紀後半の纏向遺跡で出土した外来土器に九州のものはほとんど有りませんから(あっても1%以下)、神武天皇が東征したのではないことが分かります。同時に、九州に在った邪馬台国が東遷したのでもないことも分かります

三世紀の奈良盆地に戦争の跡は見られませんから、九州の人々が押し寄せて武力で建国した証拠は存在しません。三世紀以前に奈良盆地に王権があったとわかる王墓も存在していませんので神武天皇の話は虚構です。

逆に、下図で示すように、三世紀の終わりには列島各地の集落の環濠や溝から鉄鏃・銅鏃が出土していますので、一方的に纏向遺跡の勢力が敵対する列島内の勢力を武力で制圧して日本が建国されたことが考古学の成果から分かる事実です(詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。

それでは、纏向遺跡の勢力に平定されたのはどういう勢力かを見ましょう。

下図は鍛冶製鉄遺構の分布を示すもので、在来の鍛冶遺構の勢力と、半島南部との交流によって高温鍛冶技術を導入した倭国の勢力が対立していたことを示すものです。

上で述べたとおり三世紀の纏向遺跡に、北部九州の伊都国や奴国などの倭国の人々が来ていないことから、纏向遺跡で行われた重要な祭祀に倭国の人々が参加していないので、纏向遺跡は邪馬台国ではないと分かります。むしろ邪馬台国と敵対する勢力だったと考えられるということです。つまり邪馬台国と対立する狗奴国は南九州ではなく、纏向遺跡にあったと考えられます(^_-)-☆


このことから、魏志倭人伝にある卑弥呼の死後に男王が立ってそれに不服な勢力と殺し合いになって、千人が死んだ事件は、その勝者が倭国王に立って、外交上13歳の台与を卑弥呼の宗女として女王に立てて、魏を後ろ盾にして纏向遺跡の狗奴国と対立した人物だと分かります。そして列島主要部を傘下にしたこの人物が、記紀神話で大国主命とされた人物だと分かります。最初に男王に立ったのは記紀で仲哀天皇とされた尾張王ですが(纏向遺跡の外来土器の約半数が東海のもの)、大国主に討たれてしまいます。台与は記紀で神功皇后のモデルとされた、応神天皇の母です。応神天皇の本当の父は、後で示しますが、仲哀天皇ではなく、大国主だったのです。



記紀神話で大国主と呼ばれた人物は、山陰や越を根拠地としたムナカタ海人族を束ねた王でした。楽浪郡と交易し、半島南部の鉄も独占して高温鍛冶技術も導入し、傘下に惜しげもなく分け与えて大国主は人気者でした。倭国は狗奴国を圧倒するほど強勢になりました。魏志倭人伝で狗奴国の官狗古智卑狗(豊岡市久久比神社の祭神で木の神久々遅彦、最後の奴国王スサノヲの子孫の出雲・丹後国王の襲名)で、記紀では神功皇后に寄り添う三百歳の老臣武内宿禰です(注2)。

しかし、尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、日本武尊のモデル)が九州に遠征し、苦難を乗り越えて大国主らを討ち、仇討ちを成功させたのです(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」参照)。そして最初に見たように三世紀末に纏向遺跡の狗奴国勢が列島を統一して、全国に纏向遺跡発祥の前方後円墳が六世紀ころまで各地で営まれています。大国主・台与の倭国を滅ぼしてヤマト王権が纏向遺跡で成立した証拠ということです。

初期の前方後円墳での祭祀は、主に吉備の祭祀が中心となり、北部九州や出雲、そして近畿に由来していることが判明しています(「弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!(^_-)-☆」参照)。

奴国宮廷楽師の師升らのクーデターで宋史王年代紀18代奴国王スサノヲが殺されました。その王子イタケルが、奴国を逃れて日本海沿岸部を根拠地とするムナカタ海人族を束ねる出雲王久々遅彦(王の襲名)となりました。そして、その子・孫(八束命・日高彦)が倭国大乱で活躍しました。さらに先ほどの内戦に勝利した曾孫の大国主高野御子が師升の子孫難升米からの倭国を取り戻しました。 この史実を記紀では日向三代の神話を創って徹底的に隠しました(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!(@_@)」参照)。

また、スサノヲの弟ニギハヤヒもクーデターを逃れ、裏切り者の吉備の勢力を討って奴国を再興し、倉敷市楯築王墓に葬られ、19代王天照大神尊と呼ばれました(先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命、詳細は【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)参照)。ニギハヤヒ大王の子孫が王都を遷した纏向遺跡が狗奴国と呼ばれた旧奴国だったのです 狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)が大国主の倭国を討って日本を統一しましたので、崇神天皇はハツクニシラススメラミコトと諡されました。

ところが、魏末期に司馬懿(179-251年)の次男司馬昭がまず蜀を滅ぼし(263年)、さらに魏の帝位を禅譲された司馬懿の孫司馬炎(236-290年)の西晋(265-316年)が、呉を滅ぼして(280年)、後漢(25ー220年)の末期から続いた動乱の時代がようやく終わります。

西晋に朝貢していた大国主と女王台与の倭国を狗奴国が滅ぼしたので、次に狗奴国が西晋に討伐されると卑弥弓呼大王崇神天皇は恐れ、民も動揺しました。日本書紀では三輪山の大物主大神(大国主)が祟ったため、大国主の子オオタタネコを探し出して、大国主の祭祀をさせると祟りが収まったとあります。最初に述べたとおり初代ヤマトの祭祀王が応神天皇です。箸墓古墳で母台与を改葬し、さらに桜井市外山(トビ)茶臼山古墳で父大国主を改葬して、邪馬台国の後継国として、狗奴国をヤマトと呼ぶことにしたのです(注3)。西晋の仕返しを避けるための知恵でした。

建国時に狗奴国のせいで不慮の死を遂げた三柱の貴人(卑弥呼・大国主・台与)の祟りを大和朝廷は最も畏れました。地震や落雷などの祟りを抑えていただくように、三柱のゆかりの地である邪馬台国のあった宇佐神宮で祀りました(詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
」参照)。特に、国譲りをした大国主高野御子については、三輪山大神(おおみわ)神社で祀り、後に出雲には日本最大の杵築大社を造り祀りました。それ以外に神話で創作された様々な神は、実は史実を隠すために、ほとんどこの三柱の別名・分身を祀っています(詳細は「古代史のカギを握る神々の正体?(^_-)-☆」参照)。

今上陛下までの歴代の天皇陛下には皇祖神(天照大神尊ニギハヤヒ大王)の霊(みたま)と一体になる厳しい修行によって、国家の安泰・国民の安寧をひたすら祈り続けていただいています。天皇に関する儀式は日本国憲法第7条に定める国事行為がありますが、それにあてはまらない公的行為として、wiki「皇室の儀式」にある皇室に関する様々な儀式が定められています。参加したことがないので詳しくは存じませんが、儀式の名称だけ見ても、また数もとても多く、内容も大変なものだと想像しますので、自然と頭が下がりますね(^^;)


 

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(注1)古事記が日本書紀で隠された史実を暴露する暗号書であると分かったので、古事記の崩年干支から応神天皇の即位が293年と判明しています。詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)」をご参照ください。


(注2)大国主の父は倭国大乱で活躍した英雄日高彦ですが、スサノヲを殺して倭国王となった師升の子孫の伊都国男王難升米に討たれました。詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」をご参照ください。

(注3)「記紀」では応神天皇の父は仲哀天皇とされているが、「日本書紀」の記事から計算すると仲哀天皇は父ヤマトタケルが薨去して38年後に生まれたという勘定になる。住吉大社の伝承では仲哀天皇のモガリに神功皇后と住吉大神が夫婦の密事を交わしたとあり、仲哀天皇が応神天皇の本当の父でないことを暴露している。関祐二さんは本当の父親は常に皇后に寄り添っていた武内宿禰ではないかとしている。武内宿禰は五代の天皇に仕えた三百歳の老人という設定になっているが、魏志倭人伝で狗奴国の官狗古智卑狗が狗奴国王卑弥弓呼よりも先に紹介された狗奴国王の臣下の中でも最重要人物であることから「記紀」の中で武内宿禰とされた人物だと推理した。詳しくは、「狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆」をご参照ください。

以下の図は上で示した三世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況で判明した日本建国の戦いの史実が、日本書紀の崇神天皇の四道将軍の遠征から応神天皇即位までの約350年間の話として引き延ばされていたことが分かりました。また、大国主神話の国譲りとしていることも分かりました(詳細は「国譲り神話は都合の悪い史実を隠すためだった!」参照)。

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【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆






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