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ハマ貝塚、中里貝塚の干し貝は時期限定、内陸と交易していた

ハマ貝塚、中里貝塚の干し貝は時期限定の生産、製品は内陸と交易していた

以下貝塚の情報を纏めています。

中里貝塚は、縄文時代の海岸線近くにあり、長さ約1km、幅 約100m、最も厚い所で厚さ約5mもある貝塚。
 東京湾岸の大型貝塚は、
内陸部との交易で、干し貝と食料・石器などとを交換するために、
貝を干し貝に加工した跡とも考えられている。
ハマ貝塚は貝殻のみでできている貝塚だ。中里貝塚の場合はマガキとハマグリが交互に積み重なり、1年に2回の採取シーズンがあったと推定されている。集落から離れた場所に集団で泊まり込んで、貝を採取し煮込んで干し貝を作る作業を行った。規模からいって採取加工には、複数の集落の人々が係わっていたと考えられる。

図 こよみ開発の歴史

中里貝塚の場合はほとんどのハマグリが5月から7月に採られているのがわかりました。現代の潮干狩りの時期とほぼ一致しています。
カキは一般的に身が大きく太る冬に採られていたと推測されます。
つまり、夏にはハマグリを採り、冬にはカキを採っていたようです。
また、この貝塚からは年齢の小さい貝がまったく出てきません。おそらく、採っても海に戻していたのでしょう。これも、貝という海の資源を枯渇させず、長期間、採り続けるための知恵が働いていたといえるのです。

このようなことが出来たのはカレンダーの存在無しには考えられない。

 

東京側は河川に沿って内陸の奥深くまで多くの集落が群集しており、彼らは貝塚を残していません。つまり中里貝塚で加工した殻をとった貝が内陸に流通していたのです。

人骨の中に含まれているコラーゲンを取り出して同位体分析をおこなうことで動物や魚、木の実や穀物などのタンパク質を、どれくらいの割合で食べていたのかが推測できるようになりました。
その結果、彼らは動物、魚、貝、ドングリなどをバランス良く食べていて、その中でもドングリなど植物が主食だったことがわかってきました。実のなる季節に採集して貯蔵し、計画的に食べていた。これなら、食料を求めて移動する必要はありません。
つまり、狩猟よりも、森の資源に強く依存し、それを加工や貯蔵し交易する食文化を作りあげたことが、長期的な社会を形成するひとつの基盤になっていたことがわかってきたのです。


 先ず最初の食品工場とは、“中里貝塚”の例では、カキ、ハマグリから成る貝塚で、“貝の加工が行われた遺跡”と云われている。
 中里貝塚は、縄文時代の海岸線近くにあり、長さ約1km、幅 約100m、最も厚い所で厚さ約5mもある貝塚。

通常の貝塚は生活の中で発生した廃物の捨て場である。貝だけでなく獣骨や植物の殻、時には人間が埋葬されることもあり、縄文の人々が貝塚を単なるゴミ捨て場ではなく、役目を終えた品物に何らかの宗教的な感情を持って安置する場であったとも考えられる。
しかし 中期にはハマ貝塚と呼ばれる貝塚が出現する。
ハマ貝塚は貝殻のみでできている貝塚だ。中里貝塚の場合はマガキとハマグリが交互に積み重なり、1年に2回の採取シーズンがあったと推定されている。集落から離れた場所に集団で泊まり込んで、貝を採取し煮込んで干し貝を作る作業を行った。規模からいって採取加工には、複数の集落の人々が係わっていたと考えられる。

このような集団での作業にはこよみが必要であったはずである。

また『中里貝塚』においての貝の処理は、貝塚背後の砂地から焼き石を投入し、水を沸騰させて貝のむき身をとったとされる木枠付き土坑(どこう)や、焚き火跡(たきびあと)、木道などが確認されているそうです。
さらに幅約40メートル、長さ1キロにわたって、おびただしい数の棒(杭)が浅瀬に立ち並んでいたことがわかっており、海水の干満の差を利用して、付着するカキを採る=カキの養殖法が行われていた様子が見えるのです。
ちなみにこの養殖法、江戸時代以降の広島や、現在のフランスにおこなわれているムール貝の養殖法とほぼ同じ技術だそうです。


中里貝塚の場合はほとんどのハマグリが5月から7月に採られているのがわかりました。現代の潮干狩りの時期とほぼ一致しています。
カキは一般的に身が大きく太る冬に採られていたと推測されます。
つまり、夏にはハマグリを採り、冬にはカキを採っていたようです。
また、この貝塚からは年齢の小さい貝がまったく出てきません。おそらく、採っても海に戻していたのでしょう。これも、貝という海の資源を枯渇させず、長期間、採り続けるための知恵が働いていたといえるのです。

これには季節と月齢が分る正確なカレンダーこよみは、欠かせないはずである。

中里貝塚の近くでは、焼石で貝の身を蒸したとみられる跡も発見されている。
おそらく貝を蒸した後、干し貝にしたと考えられるようだ。
中里貝塚の周辺には人が住んだ遺跡が殆どみられないので、貝の加工を専門で行っていたとみられる。

東京側は河川に沿って内陸の奥深くまで多くの集落が群集しており、彼らは貝塚を残していません。つまり中里貝塚で加工した殻をとった貝が内陸に流通していたのです。

千葉県側の貝塚は集落の中に貝塚が残されますから集落単位で貝の採取が行われたことを示しますが、ハマグリは小さい殻ばかりです。しかもアサリやカキやキサゴにシオフキなど雑多な貝も採集しており、同じ東京湾沿岸の縄文人でも管理能力に歴然とした違いが認められます。この違いが、なぜ生じたのか。
このように同じ生態系にありながら、海の資源の利用の仕方が大きくことなるのは、人間社会の側に大きな構造の違いがあったことを示しているのです。

干し貝は保存食として食されたとみられるが、その生産量が膨大で、内陸部との交易品だったとされる。
この手がかりは、縄文人たちの食料にありました。最近の研究では、彼らが食べて捨てたゴミである貝殻や動物の骨を調べるだけでなく、人骨の中に含まれているコラーゲンを取り出して同位体分析をおこなうことで動物や魚、木の実や穀物などのタンパク質を、どれくらいの割合で食べていたのかが推測できるようになりました。

その結果、彼らは動物、魚、貝、ドングリなどをバランス良く食べていて、その中でもドングリなど植物が主食だったことがわかってきました。実のなる季節に採集して貯蔵し、計画的に食べていた。これなら、食料を求めて移動する必要はありません。

つまり、狩猟よりも、森の資源に強く依存し、それを加工や貯蔵し交易する食文化を作りあげたことが、長期的な社会を形成するひとつの基盤になっていたことがわかってきたのです。

さらに、これまでの縄文時代の研究では、例えば、青森県の三内丸山遺跡のような大きな遺跡には、たくさんの人が住んだのだという議論が中心でしたが、ひとつの集落の住居は同時でも5軒から、多くても10軒程度であることがわかってきました。人口でいえば30人から50人くらいです。それ以上の規模にはならないのは、むしろ主食であるドングリの森や周辺資源が枯渇しないように、集落の規模を適正に維持していたと考えられるのです。


採取される貝の量は、周辺の集落での消費量を越えており、遠く内陸の集落までも流通していたと考えられる。縄文時代の交易の例としては他にも伊豆諸島の神津島産の黒曜石が関東一円で利用されたこと、新潟の糸魚川産のヒスイが広く利用されていたなどの例がある。
その場合でも例えば、中里貝塚の周りから、その貝殻の量に匹敵する同等の価値のある交換物は見つかりません。
また、翡翠やアスファルトなどが何百キロも離れた地域の遺跡から見つかることも決して珍しくはないのです。
そのような交易が貨幣もない時代にどのように行われていたのか、謎である。

 この時期には人々の生活は集落の枠を超え、周辺の集落と協力するだけに収まらず、広い地域を覆う交易ネットワークができあがっていた。交易ルートと物流センターが存在し、各種の物資が行き来していた。

またこの時代には墓地の中心に装身具とともに葬られるなどする人物も現れ、社会の複雑化・階層化が進んだことがわかる。これも交易によって社会の富が特定の人物に集約することになったためかもしれない。


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