改訂 2021.10.27 その後の調査で縄文早期から聖なる数の存在の可能性が見えてきた。
二至二分の太陽暦の成立時期は縄文時代前期 前半ということなのか。 4突起の土器がある、聖なる数 4 を知っている、この時既に二至二分の太陽暦があることになる。しかもチャイナとの関係がありそうな耳飾りも出ている。
我孫子市 西大作遺跡
黒浜式 縄文時代前期前半の土器です。と記載されていた。
口縁部は4箇所が大きく波を打つ波状口縁で、表面には竹管状工具による刺突が施されています。胴部には縄文が施文されています。
土器の出来具合は、初期技術の様子、聖なる数 4 だから、二至二分の太陽暦が既にあると考える。時代評価が本当なら大変なことになる。
耳飾みみかざり
耳飾の写真 石質:硬玉 長さ:5.7センチメートル
中国の「けつ」と呼ばれる玉器に形が似ていることから、「けつ状耳飾」と呼ばれます。
写真のものは二つに破損したものを補修孔を空けて再利用していたようです。
これだけはっきりしているものは初めて見ました。
写真はお借りしました
引用ーーーーーー
縄文時代:我孫子市公式ウェブサイト
https://www.city.abiko.chiba.jp/kouko/tenjishitsu/jomon/...
縄文時代は13,000年前から2,300年前までの約10,000年間という長い期間です。そのため草創期、早期、前期、中期、後期、晩期と、大きく6つの時期に分けられています。我孫子市内では縄文時代各期の遺跡があり、最も古いものでは草創 ...
縄文時代
縄文時代は13,000年前から2,300年前までの約10,000年間という長い期間です。
そのため草創期、早期、前期、中期、後期、晩期と、大きく6つの時期に分けられています。
我孫子市内では縄文時代各期の遺跡があり、最も古いものでは草創期の土器が出土している「布佐余間戸遺跡」があります。
これ以降、早期から晩期にかけて縄文時代のほぼ全時期の遺構・遺物が満遍なく見つかっています。
生活の跡では前期から中期・後期・晩期にかかる時代の集落跡が多くあります。
草創期そうそうき・早期そうき:13,000~6,000年前
草創期の遺跡として「布佐余間戸ふさよまど遺跡」、早期の遺跡としては「柴崎しばさき遺跡」があります。市内ではこの時期の確実な住居跡は見つかっていません。
柴崎遺跡(早期)
布佐余間戸遺跡(縄文)
前期ぜんき:6,000~5,000年前
市内では前期後半に大きな集落が作られました。主な遺跡としては「柴崎しばさき遺跡」・「西大作にしおおさく遺跡」があります。いずれも貝塚を伴っています。
柴崎遺跡(前期)
西大作遺跡
中期ちゅうき:5,000~4,000年前
市内では中期にも大きな集落が営まれていました。主な遺跡として「遠坪とおつぼ遺跡」・「並塚東ならびづかひがし遺跡」・「西大久保にしおおくぼ遺跡」・「鹿島前かしままえ遺跡」・「古戸ふるど貝塚」があります。
遠坪遺跡
並塚東遺跡
西大久保遺跡(縄文時代)
鹿島前遺跡(縄文中期)
古戸貝塚(中期)
後期こうき・晩期ばんき:4,000~2,300年前
我孫子市内では後期まで比較的大きなムラが営まれていました。後期の主な遺跡には「鹿島前遺跡」・「滝前遺跡」・「古戸貝塚」・「下ヶ戸貝塚」があります。
晩期になると遺跡数が激減します。現在までに市内で住居跡が確認できた遺跡は「下ヶ戸貝塚」だけです。
下ヶ戸貝塚
滝前遺跡
鹿島前遺跡(縄文後期)
古戸貝塚