金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

縄文と縄紋表記の違い 「縄文」が本質を示す

縄文時代の序説 縄の模様は表意模様

「縄文」と「縄紋」の違いは何か。
 縄文時代10000年間の文明を調べて鳥瞰するとき、じょうもんじだいは土器を情報伝達のメディアとして使用していたことが想定できるので、
土器の模様は単なるデザインとしての模様では無く、またデザインの変化を示すものでは無く、
文字以前、表意文字以前の「意思」の表現であると我々は考えるので、
模様としての紋では無く、文字に代替する表意するデザインとして、「縄文」が適切であることを改め認識するに至った。

ビングの回答 (Answer) 「Cord marked Pottery」の訳の違い。
  当初は「縄紋」であったが、現在は「縄文」が多数を占めている。
 用字の転換の経緯については、「「縄紋」から「縄文」への転換の実相」(里見 絢子)が詳しい。

ということから用字の転換の経緯については
岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第39号 (2015.3)から おわりに の部分を以下に引用する。
おわりに   現在でも、数の上では少数となっているが「縄紋」を使用する考古学者が存在することを疑問とし
て「縄紋」から「縄文」への転換の実相の調査を行った結果、『国史大辭典』の江坂の説については、
神田が論理的な説明を行うことなく「縄紋」を「縄文」に転換させてしまうようなことは、神田の履
歴や『東京人類学会雑誌』に投稿された論説からも考えにくく、首肯し難い。1888年に一時的に「縄
文」が誌面に登場したが、それは本論の分析から偶発的な誤植であった可能性が極めて高い。それは、
「縄文」がその後約50年余にわたり、東京人類学会会員により使用されていないことからも強く示唆
される。
 『東京人類学会雑誌』誌上で使用された「縄文」については、江坂が『東京人類学会雑誌』4巻34
号誌上のこととしているが、長谷部は『東京人類学会雑誌』4巻32号であることを確認していた。両
者とも、『東京人類学会雑誌』7巻71号で神田が「縄紋」を使用していることには調査がおよばなかっ
たようである。神田の事蹟についての研究者は現在でも非常に少なく、神田の学術的な業績などが斟
酌されることなく、また文献資料などの詳細な調査が行われないままに通説化されたものと考察した。
 比較調査の対象を『考古学雑誌』とし調査をした結果、考古学会での「縄紋」から「縄文」への転
換には、建築学会との関係が重要な役割を果たした可能性が高いことを示した。しかし、その背景に
は、分野を超えた社会的背景として漢字の使用法が変化をしていたことを無視することはできない。
 建築学会が発刊した『文様集成』に於いて、「紋様」を「文様」へ「紋」を「文」へと文字の転換
が推進された一連の流れのなかでは、山内や佐原が憂えたような字義の問題は特に考慮された形跡は
ない。建築学会での「紋様」から「文様」へ、「紋」からの「文」への転換については、『文様集成』
発刊の主旨にも書かれているように、世界の百般の工藝を見据えてのことであろうが、その詳細につ
いては稿を改めて検討したい。そして、「唐草紋」が「唐草文」に「菊花紋」が「菊花文」に転換さ
れたのと同じように、「縄紋」も字義についての特別な検討は伴わず「縄文」へ転換されたと考える。
すなわち、考古学会に於ける「縄文」は高橋が初出であるが、佐原が述べるような論理があっての用
語の転換ではなかったことが判明した。また、東京人類学会での本格的な「縄文」の使用は、高橋の
「縄文」から、約20年後のことであり、考古学会で「縄文」を使用する者が増加して行く流れを背景
として用語の転換が始まったと考えられる。
 「縄文」の使用は、現在では数のうえで「縄紋」を大きく上回るが、以上の分析を踏まえて筆者の
見解を述べるとすれば、「縄紋」から「縄文」への転換は、字義の正しさの検討に基づいて進められ
たものではない。佐原が主張したように、漢字の解釈からも困難を期すことがあるとともに、山内が
主張したように学史的な問題も存在することから、「縄紋」から「縄文」への転換経緯の実相を踏ま
えたうえで、あらためて適切な表記方法についての検討がなされることが望ましいと結論づけたい。

と言う「再検討が望ましいという結論」づける提案があったことを踏まえて、ここで「縄文」への転換を提案する

-1先ず、「縄文」と「縄紋」の違いは何か。
回答(Answer) 「Cord marked Pottery」の訳の違い。
当初は「縄紋」であったが、現在は「縄文」が多数を占めている。

用字の転換の経緯については、「「縄紋」から「縄文」への転換の実相」(里見 絢子)が詳しい。
「「縄紋」から「縄文」への転換の実相」(里見 絢子)によれば、
建築学会で「紋様」を「文様」に転換したことに
触発されて考古学界で「縄「文」」を使用するものが増加して、それが人類学会に波及したとする。
ただ、邦訳の字義の正しさを検討して変更したものではない。

縄文時代10000年間の文明を調べて鳥瞰するとき、じょうもんじだいは土器を情報伝達のメディアとして使用していたことが想定できるので、
土器の模様は単なるデザインとしての模様では無く、じょうもん模様の変化はデザインの変化を示すものでは無く、
文字以前の、表意文字以前の「意思」の表現であると考えるので、
模様としての紋では無く、文字に代替する表意するデザインとして、「縄文」が適切であることを改め認識するに至った。


縄文時代10000年間の文明は、土器開発を最初にしたのは誰なのかの議論は残されているが、
新石器時代の人類史を初めから記述したものであり、
シュメール文明の粘土板記録以前の初めての記録文明である。
邦訳の字義の正しさを検討して、「縄文」が適切であることを改めてここに表明したい。

-2人類文明史の中の縄文文明
縄文土器の時代は、新石器時代初めから生業開発の記録を残していた新石器時代唯一の文明
弓矢石鏃の開発から細く強い綱の開発を継続して撚り糸を開発、魚釣り技術、網を利用する漁業までの記録が残されている。
旧石器時代後期の植物食料採集からマメ類の栽培により空中窒素固定を利用する農耕を開発した
窒素固定はハーバーボッシュ法が開発されて自然の限界を超えることが出来たかに見えたものの、現在縄文的農耕が、様々な環境問題を解決するための参考となる時点に達している。

土器の模様として主に縄文を用いたのは、新石器時代の生業開発を続けていた縄文時代Earlyである、それを超えた縄文模様を用いない土器の文明も縄文時代である。

図はお借りしました


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