金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

メトン周期とは

メトン周期とは、太陽と月の周期を計算で合わせて暦を作ると言うことのようです。
とてもややこしくて歴史経緯も、まとめる気力はありません
いずれにしても太陽観測が基準なので、初めはしていたようですが、途中から止めて計算だけで出そうとしていたことが大元の原因です。
それも一つに出来っこない太陽暦と太陰暦を人知で知恵でくっつけようなんて。
金生遺跡ではその観測が毎年出来るので、現代の暦と同じものが縄文人により作られていた、と言うことでいいのでしょう。
引用文献を上げましたので理解してみようと挑戦する方は、読んでみてください、解説できるようでしたら是非ご講義をお願いいたします。

 

引用ーーーーーー

メトン周期

メトン周期(英: Metonic cycle, 古希: Μετωνικ?? κ?κλο?)とは、ある日付での月相が一致する周期の1つであり、19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のことである[1]。メトン周期は、太陰太陽暦において閏月を入れる回数(19年に7回の閏月を入れる。)を求めるのに用いられた。

紀元前433年にアテナイの数学者・メトンが当時行われていた太陰太陽暦の誤りを正すために提案したのでこの名がある。中国では、19年を1章と呼ぶことから章法(しょうほう)と呼ばれた(独自に発見したとも、東漸したとも言われる)。

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このように「メトン周期」=「章法」であり、どちらが先に発見したかはさておいて、紀元前433年(紀元前五世紀後半)には知られていたことでした。また、次をご覧ください。

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カリポス周期

カリポス

カリポス(Callippus または Calippus、紀元前370年頃 - 紀元前300年頃)はギリシアの天文学者、数学者である。

アテネのメトンの仕事を継いで、1年の長さと、太陽と月の暦の製作をおこなった。四季の長さの測定をおこない、各季節94日、92日、89日、90日と不等であることを見出し、太陽が天球をまわる速度が変化することを示した。これを19太陽年が235朔望月にほぼ等しいというメトン周期の説明に用いた。太陽年と太陰年の公倍数から76年の周期をみつけ、これはカリポス周期と呼ばれる。カリポス周期はのちの天文学者によってもちいられた。

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この様に、紀元前4世紀には、「メトン周期=章法」の19年ではなく、既に76年で調整する方法が発見されているのですから、中国においても章法は既知の置閏法であったことは間違いないでしょう。中国においても遅くとも紀元前4世紀には「章法」は暦法上では常識的なものとなっていたとして良いでしょう。

 

中国の王朝

商(殷):紀元前17世紀頃~紀元前1046年

周:紀元前1046年~紀元前256年

水稻耕作の時代は、中国では紀元前4000年以降ですから「商王朝」以前から「周王朝」【誤り訂正】の時代ということになります。

「太陰暦」であれば「商王朝(殷)」の時代からあったとしても良いでしょうが、倭人が歴史に登場するのは「周王朝」の時代からですから「太陰暦」が伝わったのも、暦と王朝の関係(正朔を奉じる)から考えると、「周王朝」の時代とした方が良いでしょう。

太陰太陽暦の伝播時期
 妄想するしかありませんが、挙げておきたいと思います。

越が滅んだ時期

越(紀元前600年頃~紀元前334年)。首都は会稽。越は稲作と銅により栄えたとされている。楚によって滅ぼされる。長江下流域から日本列島へはしばしば王族の亡命や流民があったのではないかという妄想です。

「太陰暦」は、倭人が周王朝と交渉を持つようになった時期には伝わっていたと考えた方が合理的だと考えます。この場合、閏年(13ヶ月の年)は周王朝が決定していたと考えなければならないでしょう。

出雲王朝の暦

 出雲王朝の暦が「太陰暦」であったか「太陰太陽暦」であったかという問題に答えるだけの根拠は得られませんでしたが、月を「十二支」で呼んでいることを考えると時代は古い(「殷」の時代)とも考えられますが、出雲王朝と中国王朝が交流していたことが証明されないと殷の時代まで遡らせて考えることは無理ではないでしょうか。あるいは、出雲王朝の暦が中国伝来ではないことが証明されるとか…もっと無理でしょうね。

「太陰太陽暦」であるという場合は、ギリシアのメトン周期の発見を遡る時代とするのは無理だと思います。これはギリシアが先だという意味ではなく、技術や知識は同じような条件が整った時代なら、どこから発明・発見されてもおかしくはないと考えるからです。
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西洋と東洋における暦法の相違
以上、本稿で理解できる限りを書き記しました。
これまでの方法は、紀元前5世紀、古代ギリシャのメトン周期とほぼ同一のため、東から伝わったと言われることがあります。たぶんそれで間違いないと思います。しかし、これだけの微細な方法を熟知することは、すでに、これを理解できる文化が中国に根付いていたということです。さらに、太陽、月の運行のみならず、60年干支、太歳周期など古代中国独特の暦法を結びつけ、知識が積み上がっていく姿は半端ではありません。

考えてみると、仏教も元はインドから伝わった宗教です。外からの文化を貪欲に吸収し、独自に発展させる能力のある国であったと思います。
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■太陰太陽暦
季節の周期(太陽年)は365.2422日、月の満ち欠けの周期(月期)は29.53日。ここで、1太陽年を月期で割ってみよう。もし、割り切れれば、季節の周期(太陽年)と、月の満ち欠けの周期(月期)は、シンクロ(同期)する。計算すると、 1太陽年=365.2422日÷29.53日=12.3685月期 ゼンゼン割り切れない。

というわけで、季節の周期(太陽年)と月の満ち欠けの周期(月期)はシンクロしない。 そこで、期間を19年にのばすと、 19太陽年=365.2422日×19=6939.6日 これを月期(29.53日)で割ると、 6939.6日÷29.53日=235.0017月期 ・・・ ① 今度はほぼ割り切れる。 つまり、19年に1度、 「19太陽年=235月期」 となり、地球の公転と、月の満ち欠けがシンクロする。

具体的には、新月が全く同じ月日に現れる(満月でも同じ)。 この周期を、紀元前5世紀のギリシャの天文学者メトンにちなんで、「メトン周期」とよんでいる。ただし、この周期を最初に発見したはメトンではないらしい。紀元前1500年頃の中国の殷、紀元前2500年頃のイギリスのストーンヘンジですでに使用されていたからだ。

ここで、「メトン周期」の月数を計算してみよう。現在使われているグレゴリオ暦では、1太陽年(回帰年)は12ヶ月なので、 メトン周期=12月/年×19年=228ヶ月 一方、太陰暦は、①から235ヶ月。なので、その差は、 235ヶ月-228ヶ月=7ヶ月 つまり、19年の期間でみると、太陰暦の月数は、グレゴリオ暦より7ヶ月多い。

そこで、19年の間に7回だけ、太陰暦の1年を13ヶ月(普通は12ヶ月)にすれば、月数は一致する。この1ヶ月を「うるう月」と呼んでいる。また、うるう月の命名は、前月の月名の前に「うるう」をつける。たとえば、4月の次に挿入されるうるう月は「うるう4月」。 この暦法を「太陰太陽暦」とよんでいる。太陰、太陽、どっちや?とツッコミが入りそうだが、一応、「広義の太陰暦」ということになっている。ということで、現在のグレゴリオ暦は「うるう年」で、太陰太陽暦は「うるう月」で、割り切れない端数を補正しているわけだ。
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二十四節気は中国の戦国時代の頃、太陰暦の季節からのずれとは無関係に、季節を春夏秋冬の4等区分する暦のようなものとして考案された区分手法のひとつで、一年を12の「節気」(正節とも)と12の「中気」に分類し、それらに季節を表す名前がつけられている。

重要な中気である夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分は併せて二至二分(にしにぶん)と言い、重要な節気である立春・立夏・立秋・立冬を四立(しりゅう)、二至二分と四立を併せて八節(はっせつ)という。太陰太陽暦では、暦と季節のずれを正すために用いられる。

本来の二十四節気は中国の中原を中心とした地域の気候をもとに名付けられており、日本で体感する気候とは季節感が合わない名称や時期がある。違いを大きくするものとして、日本では梅雨や台風がある。

例えば夏至はまだ梅雨の真っ只中にあり、蝉はまだ鳴き始めていない。小暑では蒸し暑さは増すものの七夕を眺めるような晴れの空は期待できず、暑中ではあるのに地域によって梅雨寒となることもある。大暑は「最も暑い時候」と説明されるが、盛夏のピークは立秋の前後となる。

日本ではこのような事情を補足するため、二十四節気のほかに、土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取り入れた。なお、二十四節気や雑節は、旧暦に追記されて発行されていた。

旧暦の日付は、年ごとに月がおよそ1朔日間(およそ29.5日)の範囲で誤差が生じるため、二十四節気の日付は毎年異なる。それでも四立や八節に加えて一年の中の季節を分ける目安としては十分であった。さらに各気各候に応じた自然の特徴が記述されるものとして、二十四節気をさらに約5日ずつに分けた七十二候という区分けもあり、二十四節気と併せて暦注などに記された(この七十二候も日本の風土に合わず、江戸時代に渋川春海によって「本朝七十二候」に改訂されている)。これらは現在でも農事暦や旬を楽しむ生活暦として使われ、新暦における日付とは異なるわずかな季節の変化、すなわち微妙な季節感を感じ取ることが出来る。
++++そうなのか

日本は明治6年1月1日(1873年1月1日)以降、太陽暦をもとにしたグレゴリオ暦(いわゆる新暦)を採用したため、二十四節気の日付は毎年ほぼ一定となった一方、新暦は旧暦に対し、年初の定義の違いから来る日付のずれが発生することから、いわゆる「月遅れ」が生じることとなった。 この結果、例えば旧暦では「秋」であった「文月(7月)」が新暦では「夏」になったり[1]、7月9日頃から8月11日頃までであった二百十日が新暦9月1日になったり、盆の節会を行う時期が地域によって新暦7月と新暦8月に別れたりするなど、月遅れによるそれまでの慣習との相違が発生しているほか、前記のような元々の中国風の定義も絡み、現在でも若干の違和感が存在することから、日本のメディアでは「暦の上では……」 と前置きして説明されることがある。

このような事情から2011年、日本気象協会は現代日本の気候に合わせた新しい二十四節気を創造する事を目標とした準備委員会を設けた。一般からも意見を募り、2012年の秋頃には「21世紀の二十四節気」を発表し、周知させていきたいという意向を示していたが[2][3]、「これまで培われた微妙な季節感を混乱させる」として反対の声が多く寄せられ2012年9月に計画は中止となり、現在でも二十四節気はそのまま使われている。

一方、中国における「二十四節気」は、2016年10月31日、ユネスコが無形文化遺産への登録勧告を決定している[4]。

成立の背景
月の運行のみに基づく太陰暦では、月と日付が太陽の位置とは無関係に定まり、暦と四季の周期との間にずれが生じるので、農林水産等々の季節に左右される事象を扱うのに不便である。

閏月の挿入による調整を行う太陰太陽暦でも、最もズレの大きい閏月の前後で1か月の半分の15日程度はズレる。そこで古代中国では、太陰暦とは無関係に季節を知る目安として、太陽の運行を元にした二十四節気が暦に徐々に導入された(後述)。なお現代中国では、旧暦の太陰暦のことを「農暦」と呼ぶことがあるが、前述のように太陰暦は季節からずれることから、農業のための暦ではない。

二十四節気はある時期に突然発明されたのではなく、段階的に整備されてきたものである。二至二分はノーモン(日時計の一種)によって観察しやすいので、古くから認識されていたと考えられ、殷周時代には日の最も短い冬至頃に年始が置かれていた。甲骨文字において月名は1、2、3といった序数で表されていたが、時折「十三月」(閏月)が用いられ、冬至から始まる年と月の運行に基づいた月とを調整していた。よって殷の暦法は太陰太陽暦であったが、高度な計算を用いたものではなく、自然を観察しつつ適宜ずれを修正するような素朴な暦法であった。

なお二至二分の名称は、『尚書』堯典には夏至は「日永」、冬至は「日短」、春分は「日中」、秋分は「宵中」と書かれており、
戦国時代末期の『呂氏春秋』では夏至は「日長至」、冬至は「日短至」、春分・秋分は「日夜分」と名付けられている。

二至二分の中間点に位置する四立に関しては『春秋左氏伝』僖公5年の「分至啓閉」という語の「啓」が立春・立夏、「閉」が立秋・立冬と考えられており、『呂氏春秋』において「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の語が使われていることから、戦国時代に一般化したと考えられる。
++++そうなのか

なお、古代中国人は、一年12か月を春・夏・秋・冬の四時に分け、正月(一月)・二月・三月を春、四月・五月・六月を夏、七月・八月・九月を秋、十月・十一月・十二月を冬とした。
周では冬至を基準に年始が置かれていたが、戦国時代になると冬至の翌々月を年始とする夏正(夏暦)が各国で採用されるようになり、これにより冬至と春分の中間点が正月、すなわち春の最初の節気にあたるようになったことで「立春」と名付けられ、他の二至二分四立も春夏秋冬の名が冠せられるようになったと考えられる。

その他の二十四節気の名称は、前漢の『淮南子』において出揃っており、それまでの間に名称が固定化したと考えられる。

八節をさらに3分割したのは、月と対応させるためである。戦国時代には19太陽年が235朔望月にほぼ等しいとするメトン周期を導入した四分暦が使われており、1太陽年を12分割した中気は19太陽年235朔望月に228存在し、7回ほど閏月を設ければ月と中気が対応してゆくことを導き出した。これにより中気をもとに月名を決定することが可能になり、漢の太初暦以降、中気を含まない月を閏月とする歳中置閏法が取られた。なお当時の天球分割法の一つに十二次があったが、節気は太陽の視位置が各次の境界である初点にある時、中気は各次の中間の中点にある時とされた(『漢書』律暦志)。
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シャマシュ(Shamash, ?ama?)は、メソポタミアの太陽神…
バビロニア暦(バビロニアれき、英語:Babylonian calendar)とはバビロニアなどの地域で使用されたメソポタミア文明の太陰太陽暦である。シュメールのウル第三王朝のシュルギ王(紀元前21世紀)が定めたウンマ暦を起源とする。
春分の頃の新月の直後を元日とする。紀元前6世紀までは天文観察に基づいて作られ、春分の時期を正確に予測するため恒星 カペラの動きを観察していた。紀元前5世紀の初めより、19年が235ヶ月に等しいものとする周期を採用して作られるようになった。メトン周期の先駆とされる。バビロニア暦の月名はバビロン捕囚の時からユダヤ暦に採用された。年の始まりを春分とする前提によっており、イラン暦のような太陽暦と共通する一方、同じ太陰太陽暦でありながら中国暦とは違いが見られる。週の起源は陰暦1ヶ月を4等分するバビロニアの祭日によるともいわれる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%93%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A2%E6%9A%A6
紀元前6世紀までは、暦は天体観測に基づくものでしかなかったが、紀元前499年頃には、月と太陽の周期に基づき、19年が235か月に等しくなるよう、調整された。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5
日の出と共にマシュ山(英語版)のそばにある東の門から現れ、全てを照らしながら天空を横切り、夕方になると西の門より天の奥へと帰り一夜を過ごすと、翌朝再び東の門から現れるという[5]。その姿は肩から太陽光線を放つ、長い髭を蓄えた長い腕の男性として描かれる[5](そもそも、長い髭や長い腕は、太陽円盤から放射状に伸びる太陽光線の、擬人化だと考えられる)。シャマシュのシンボルはバビロニアでは四芒星に4束の波状線が組み合わされたもの、アッシリアでは有翼日輪[2]、または太陽円盤が一般的[1]。
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中国の暦法はいわゆる太陰太陽暦であり、1月の長さを月の月齢約29.3日を基準に1年における月の配列を太陽の運行を基準に定める。新月を朔、満月を望といい朔日を月の初めの日として配当していった。朔日の計算方法には、平朔法と定朔法がある。季節は1太陽年を24分した二十四節気を基準に決められる。二十四節気の計算方法には平気法と定気法がある。12朔望月と1太陽年のずれは閏月を設けることで調整され、閏月は年の途中に置かれ二十四節気の中気を含まない月とされた。

年始は前漢の太初暦以来冬至の翌々月、つまり立春前後に設けられ1月には必ず雨水が含まれた。これにより1年の始めと四季の始めが一致するようにされた。

そして中国暦の大きな特徴は上記のような日付の配当するカレンダーとしての機能のほかに日食や月食、惑星の運行位置を計算して予報する天体暦(エフェメリス)としての機能をあわせもっていたことである。このため日食・月食の誤報がしばしば改暦の理由になった。

歴史
甲骨文・金文や詩経などによると殷・周の時代は日・月や星、植物の生長などを観察して日付を決めていた。これを観象授時暦という。月の初めの日は新月の日(朔日)ではなく、月が見え始める二日月・三日月などの日を当てた。この日を朏(ひ)日という。年始はノーモンの観察などにより、冬至頃に設定された。
++++そうなのか 冬至頃なのか 確定するのは難しい

このような素朴な暦法は春秋戦国時代になって、大きく発展した。二十四節気が導入され、また閏月の設定にメトン周期が用いられ月初めも朔日の計算によって決定された。
++++そうなのか

戦国時代の各国で独自の四分暦が造られ、これらを戦国四分暦という。この頃、年始について三正(夏正・殷正・周正)という考え方が生まれた。夏暦・殷暦・周暦というものがあったとされ夏暦では年始が冬至の2月後、殷暦では冬至の1月後(つまり夏暦の12月)、周暦では冬至の月(夏暦の11月)とし正月が王朝交替ごとに変更され、夏正→殷正→周正→夏正→…と循環されてきたとした。
++++そうなのか それなら金生遺跡の四立が意味あり

これを受けて周に次ぐ王朝をめざす戦国各国はほとんどが夏正を採用していたが、秦の??暦のように10月を年始とする暦もあった(ただし、正月・2月・3月といった月の配列は夏暦に従っていた)。秦の中国統一により??暦の10月歳首が採用されたが、漢の太初暦改暦以降、夏正が採用され、現在の旧正月もこれを踏襲している。

前漢では秦の??暦を踏襲して使っていたが武帝の時に改暦を行い、太初暦が作られた。その後、太初暦は成帝の時に劉?によって天体暦としての性格の強い三統暦として補修された。三統暦は、その後の中国暦の枠組みをつくった。
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他方で、エジプト暦の伝統を持つアレクサンドリアの教会では、ディオクレティアヌス紀元、コプト暦およびメトン周期を用いて季節(太陽年)と月齢(太陰月日)を独自に計算し、春分後最初の太陰月14日のすぐ後の日曜日を復活日とする方法を採用した。季節と月齢を合わせる基準日を設け、そこからメトン周期を用いて太陰年と太陽年の差を修正しながら各年の「ほぼ同じ季節に該当する太陰月日(同じ月齢の日)」を計算していけば、擬似的な太陰太陽暦を編纂するのと実質的に同じことができるからである。この方法をコンプトゥスという。
この方法を実行するためには、メトン周期の知識を理解し、季節と月齢を揃えるための太陽暦上の基準日を定めればよい。幸いなことにユリウス暦は太陽暦である。そしてユダヤ暦ニサン月は春分頃に訪れる太陰月である。当然、基準日は春分ということになる。太陽暦であるユリウス暦では、春分日は毎年ほぼ同じ日になるはずである。この点、ローマ帝国ではカエサルによるユリウス暦施行間もない頃から、春分日をユリウス暦3月25日とする考え方が広まっており[注釈 5]、聖書のユダヤ暦の記述を無視してユリウス暦の同日に復活祭を祝ってしまう教会もあった。しかしすでに4世紀の段階で天文学的な春分日は3月21日頃となっており、アレキサンドリア教会はこの事実を正確に把握していた。そこで、第一次ニケーア公会議では、ユリウス暦の期日を太陽暦上の準拠日としつつ、アレキサンドリア教会によって用いられてきた擬似的な太陰太陽暦の作成手法を用いて、春分日であるユリウス暦3月21日直後の太陰月14日の直後の日曜日[注釈 6]を以て、復活祭期日とすることとした。

このような経緯で決められた復活祭日であったが、このように「キリスト教上の春分日」をユリウス暦上に固定してしまった以上、実際の天文学的春分日とユリウス暦上に定められた春分日すなわち3月21日との差は、年を追うごとに蓄積されていき、これが直ちに復活祭の期日の不正確さに直結することとなった。ユリウス暦のほうが太陽年より長いため、ユリウス暦3月21日は天文学的春分日より1日単位で徐々に遅れていく。ところが復活祭の期日は太陰月日(月齢)に準拠する方法で定められたため、差異が1太陰月(朔望月)分に増幅されてしまい、復活祭がまるまる1か月遅れるケースが徐々に増えていく。イングランドの教会博士であったベーダ・ヴェネラビリスは、725年にはユリウス暦にはずれがあり、それはすでに3日間以上になっていること、またさらにこのずれは今後拡大するだろう、と指摘している[2]。さらに問題だったのは、メトン周期の側も、わずかに朔望月(太陰月)とずれていることで、このため310年ごとに1日の誤差が蓄積されていた。13世紀のロジャー・ベーコンは、ずれは7日間から8日間に及んでいると推定し、ダンテ・アリギエーリもユリウス暦の改定の必要性を説いている。
16世紀後半には、上述のようにユリウス暦上で定めた3月21日の春分日は、実際の春分日から10日間弱ものものずれが生じていた。このため、ローマ・カトリック教会は、改暦委員会に暦法改正を委託した。この改暦は対抗宗教改革の一環としてなされたものであって、改暦に関しては賛成・反対の立場から大きな論争となった。
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うるう年  それはともかく、太陽暦は、もっぱら季節の変化に忠実であろうとだけ努める暦法であって、月の満ち欠けは、最初から無視している。したがって、太陽暦の暦法上の技術といえば、いかに一年の長さを、一太陽年に合致させるかということのみにあるといってよい。
 ところで、一太陽年の長さは三六五・二四二二 …… 日であるから、どうがんばってみても、一年を毎年同じ日数にすることはできない。そこで、三六五日の年と、三六六日の年を適当に置くことになる。エジプトの初期の民間暦は、三六五日に固定されており、ひとり僧侶階級のみが、四年に一回、三六六日のうるう年を置いていた。しかし、西暦紀元前二三九年に、四年に一回のうるう年を置くことが制度化された。
 
ローマ暦  私たちが使っているこよみは、ローマで制定されたものをほぼ受け継いでいる。ローマは初期には、一年が一〇ヵ月、三〇四日から成る妙なこよみを使っていたが、後に二ヵ月を加え、一年を三五五日とする太陰暦を用いるようになった。そしてさらに、ときどき、うるう月を挿入して季節と合わせる太陰太陽暦を採用した時代もあった。
 追加した二ヵ月は、当然、年の終りに置かれたが、つぎにのべるユリウス・カエサルの改暦のときに、これが最初にもってこられた。つまり、現在の二月は、かっては年の最後の月であった。現在、九月 ……、一二月を表わすラテン語系の名前、英語でいえば、セプテンバー、……、ディセンバーの語幹である、セプテム、オクト、ノベム、デセムがそれぞれ、七、八、九、一〇を表わすラテン語であるのは、そのためである。
 

ユリウス暦  やがて、ヨーロッパを制覇し、エジプトを征服したローマは、エジプトの暦法をそのまま取り入れ、西暦紀元前四六年、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)のときに、平年を三六五日、四年に一度のうるう年を三六六日とするこよみを制定した。これを「ユリウス暦」という。
 はじめのころ、運用を間違えたりしたが、西暦紀元前八年、アウグスツス帝のときに、改正を行い、その後、一六〇〇年近く、このこよみはキリスト教文化圏で用いられた。
 ユリウス・カエサルのときのこよみは、一ヵ月は奇数月が三一日、偶数月が三〇日であった。ただ、最後の月の二月のみは、平年は二九日であった。ユリウス・カエサルは、七月に自分の名前のユリウス(英語のジュライ)をつけたが、アウグスツス帝もそれにならい、八月をアウグスツス(英語のオーガスト)とした。ところが八月が三〇日であったのを嫌い、七月に続けて八月を三一日とした。そして、その後の大の月、小の月も適当に順序を変え、足りなくなった一日を、かつて年末であった二月から減らした。このため、それでなくても平年には二九日しかなかった二月が、二八日になってしまったといわれている。
 7 太陰太陽暦と農業
 (pp. 112-114)
 月の満ち欠けにも、季節の変化にも、等しく配慮をはらったこよみが太陰太陽暦である。顕著な周期である月の朔望を尊重し、かつまた、農業などを行ううえから季節を無視することのできなかった地方に、必然的に発達したこよみである。
 したがって、太陰太陽暦は、世界の各地で独立に発生している。すなわち、バビロニアで、インドで、中国で。そして、それぞれ似たような発達をとげている。太陽暦のもとを作ったエジプト暦にしても、一ヵ月を三〇日にしていたから、初期には何らかの形の太陰太陽暦であったと思われるし、また、ローマも古くは太陰太陽暦を用いた時代があったことは前にのべた。
 

置閏法  チグリス、ユーフラテスの両河のほとりに栄えたメソポタミア支明の中でも代表的なバビロニアは、西暦紀元前三〇〇〇年ごろに、現在も用いられている星座の原形を作った民族の建てた国であるが、古くから太陰太陽暦を発達させていた。そして、西暦紀元前八世紀には、一九年に七回のうるう月を置く「置閏法[ちじゅんほう]」を発見していた。
 

メトン周期と一九年七閏の法  ギリシアでは、はじめ、八年に三回のうるう月を置く方法が行われていたが、西暦紀元前五世紀の天文学者メトンのときに、一九年に七回のうるう月を置く方法が採用された。一九年は、太陽年のはじまりと、朔望月のはじまりが、かなり正確に一致する周期で、メトンの名をとって「メトン周期」とよばれる。
 中国でもこのことは知られていて、一九年のことを「章」とよび、「一九年七閏」の法と称して、西洋と同じく一九年に七回のうるう月を置くことが、西暦紀元前五世紀ごろから行われた。
 一朔望月は二九・五三〇五八九日であるから、二九日と三〇日の一ヵ月を適当に置き、一日が朔とあまりズレないようにしていくことは、太陰太陽暦でも第一の問題点である。しかし、太陰太陽暦の、同様に重要な問題点は、季節と調和させることである。
 一年を一二ヵ月とすると、三五四日ないし三五五日となり、一太陽年に一一日ほど足りない。ほうっておくと、月[マンス]と季節がどんどんズレてイスラム暦のようになる。そこで、ときどき「うるう月」なるものを入れて、一三ヵ月の年を作り、季節と合わせる。これが、一般的な太陰太陽暦の暦法である。
 問題はこれをどのように入れるかだが、八年に三回置く方法では、この間の月数が九九ヵ月、平均日数が二九二三・五日であり、一方、八太陽年は二九二一・九日であるから、一・六日多すぎる。つまり、八年につき、一・六日ずつ季節が早くなる。
 中国で行われた一九年七閏の法では、一九年間の月数が二三五ヵ月で、平均日数は六九三九・六九日、一方、一九太陽年は六九三九・六〇日であるから、一九年間で、わずかに〇・〇九日多すぎるだけである。約二二〇年で一日季節が早くなるだけだから、非常に正確ではあるが、これで決して満足してはいなかった。
 朔のズレない、季節のズレない、そして天文現象をよく予報できる、さらに精密な暦法が、中国数千年の歴史を通じて求め続けられた。そして、その努力は、太陰太陽暦を中国から輸入したわが国でも、同様に行われた。他の国では、それほど精密な太陰太陽暦を、もとうとはしなかったようである。おそらく、月と季節とがズレてくれば、その都度、適当にうるう月を入れて調節したのであろう。あるいは、そんな季節とのズレが目立つ前に、国が亡びてしまったという場合もあろう。
 8 旧暦のしくみ
 (pp. 114-116)
 太陽にも太陰にも忠実であろうとする太陰太陽暦が、複雑な構造になるのは当然である。これを解決しようとして古来、太陰太陽暦には無数の暦法が考案された。
 

天保暦  その中で、もっとも完成された太陰太陽暦といわれる、日本の江戸時代末期の「天保暦[てんぽうれき]」を、ややくわしく見ることによって、太陰太陽暦の構造を理解することにしよう。
 日本は推古天皇のころ(七世紀はじめ)、中国から輸入したこよみを、はじめて採用したといわれる。それ以来、中国輸入のこよみを用いてきたが、一六八五年に渋川春海によって、はじめて、わが国独自のこよみ、「貞享暦[じょうきょうれき]」が作られ、以後、宝暦暦、寛政暦と改暦を経て、一八四四年に、天保暦が作られた。
 

真の朔と平均の朔  中国、日本の太陰太陽暦では、月の第一日を決めるのに、平均的な朔ではなく、真の朔をもってしてきた。
 平均の朔を用いる方法では、二九日の月(小の月)と三〇日の月(大の月)を交互に置き、これでは少し平均の一ヵ月が短くなりすぎるので、一六ヵ月か一七ヵ月ごとに大の月を余分に置く。しかし、この方法では、月の第一日と朔とが一致せず、日食が二日に起こったり、前月の晦日[みそか]に起こったりする。これを嫌ったのであろうか、月の第一日を平均の朔でなく、真の朔で決めるようにしたのである。
 一口でこういうが、これは大変なことである。平均朔望月の長さをくわしく知っているだけでは十分でなくなる。月および太陽の運動の遅速を経験的に知って、それを考慮して、少なくとも一年先の真の朔の日付を予報しなくてはならない。これを中国および日本のこよみでは、実際に実行したのである。
 


 

The End of Takechan
古代ギリシャの天文学 と 数学
 

 ○ ダンネマン著『大自然科学史』には、古代ギリシャの天文学について、詳しく語られていました。内容は上記のものと重複しますが、引用文を再掲しておきましょう。

『大自然科学史 1』〈復刻版〉 〔フリードリヒ・ダンネマン/著〕
Ⅱ ギリシア人における科学の発展 アリストテレス以前
  ギリシア天文学のはじめ1?
 (pp. 282-285)
 ギリシア人はこの時期に天文学では、哲学や数学の分野におけるほどの成績をあげなかった。彼らは天文学のはじめをメソポタミアの天文観測に負っている。たとえば、黄道、獣帯星座、惑星群などの知識が、それである。十二進法や六十進法、およびそれに基づく測度は、バビロニアの影響に直接接触していたイオニアの諸都市をへて、ギリシアに伝わった2?。時の計算は、ギリシア人にとっては大きな困難であった。彼らははじめのころは月の運動を土台にした。彼らは月がつぎつぎに光面の形を変えていくのを観察し、このことから、二九日十二時間四四分の長さの朔望[さくぼう]月を、きめることができた。そこで月と太陽による計算を調整しようとする最初の試みが、各月三〇日ずつの十二カ月の長さの一年の確定に導いたことは、容易に考えられる。しかし、こういう暦は天体のじっさいの運行と、あまり一致しなかったから、長いあいだにわたって、一般の要求をみたすことはできなかった。そこでもう一歩進んで、月を交互に二九日と三〇日に数えることとなった。それによって一年は三五四日に短縮された。ギリシア人はこういう暦で計算していたが、非常な開きが生じたので、ソロンのときになって、二年ごとに三〇日の完月を入れて、この開きを埋めることにした。そこで一年は平均 (354 × 2 + 30) ÷ 2 = 369 日となったが、それでも実際の長さとは非常にちがっていた。月の循環と太陽年とをいっそうよく一致させて、暦計算を調整しようと試みた(紀元前四六〇年頃)最初の一人は、天文学者のキオスのオイノピデスであった。この人の門弟のなかには、キオスのヒッポクラテスもいたと思われる。オイノピデスは七三〇太陰月と五九太陽年とを等しいとおいて、三六五・三七三日という一年の長さに達した。彼はエジプトおよびバビロニアの天文学の移植にも大いに貢献し、同じく十二宮からなる獣帯を、ギリシアに導入したと言われている。彼はまた規則的にくりかえすナイルの増水を、宇宙的原因によるととなえて有名になった。

 大喜劇詩人アリストファネス3?はギリシア人の暦の混乱をからかって、こんなたよりない状態にたいして、お月さんに苦情を言わせている。紀元前四三三年になってはじめて、アテナイの数学者メトンがこの混乱を最終的に一掃することに成功した。彼は一二五「完」月と一一〇「欠」月をふくむ十九年の循環期を導入した。これによって一年は (125 × 30 + 110 × 29) ÷ 19 = 365.263 日となった4?(太陽年の真の値は 365.242 日である)。(※ メトン期は中国では十九年七閏[うるう]法として春秋時代、前六世紀頃から知られていた。)
 

1?  くわしい論述が多数の文献目録とともに、パウリ『古典的古代学事典』第二巻、一八九六年、一八二八-一八六二ページにのっている。筆者はフルチュである。
2?  クモント「バビロンとギリシア天文学」、『新古典的古代学年報』一九一一年、一ページ。
3?  アリストファネス『雲』(※ 紀元前四二三年)、六一五-六一九句。
4?  メトンはこのために、カルデア人が何世紀も前に月運動や食について作製しておいた表を、利用したものと思われる。
ーーーーーー

メトン周期
●これぞ基本
 メトン周期はギリシア時代に「19太陽年は235朔望月(新月から次の新月まで)にほぼ等しい」と メトンさんが発見しましたのですね。上記の235/19を使ったのですね。

(1)19太陽年 365.242194*19年 =6939.601686日
(2)235朔望月 29.530589*235月=6939.688415日
 これは約6940日で周期が同じになるわけです。上記小数でも約2時間の差ですね。

 太陽暦に言い直しますと 例えば今日2/25日が満月とすると、19年後の2/25日も満月となります。 喜寿の誕生日に月を見ると、生まれた時と同じ月が見えるというのは、 このメトン周期のことです。19年*4回=76年・・・大体数えで77歳。ですね。 (数えでは生まれた時が1歳で正月に年をとりますでしょ) ただし端数が積もりまして4回ぐらいでずれてきます。

 それで陰暦では19年で閏を何日入れるか計算していた訳です。 これは陰暦の根幹となる周期なのですね。中国では全く別に発見されていて「章法」と言います。 大の月125回。小の月110回のパターンになります。

●カリポス周期
 1年を端数処理して365.25日とすれば19年で6939.75日。小数点が出るので4倍すればなくなります。 365.25日*19年*4倍=27759日と切りが良くなります。
 76年=940月=27759日となり、これをカリポス周期と言います。 メトン周期はBC432年に、カリポス周期はBC330年に導入されております。

 中国では大初暦や四分暦などの方法です。 。 

●ヒッパルコスの修正
 カリポス法に古代ギリシアのヒッパルコス(190-120BC)が修正を加えました。
先ほど1年を365.25日としましたが、ヒッパルコスはそれより短いことを発見しました。 回帰年は365.25日より1/300短いので、カリポス周期の更に4倍の304年で1日短くしました。

 304年=3760月=11035日となります。

●その他
 これより長いのがアレキサンドリア流で 7*76年=532年周期ですね。
このように後の時代になればなるほど、端数問題で合わなくなってきますし、 観測技術も上がり、また長年の観測資料が蓄積されますので、 中国や日本など太陰太陽暦を使いつづけた国々などは、 更なる改暦の必要が出てくるのですね。

古代バビロニア
●古代バビロニアの粘土板
 今までは平均値を使っておりましたけれど、平均値は出来るだけ多くの 正確な観測地があって出るものですね。
 古代ギリシアよりももっと古い古代バビロニアの粘土板には
11,3,9,28,25,15,47......とありました。

 前回計算しましたメトン周期12.36827.....を60進法に直しますと
 12+22/60+6/60^2+18/60^3+......

1年の長さを朔望月(1/30単位)で表すと
11,3,9,28,25,15,47......

 となりメトン周期は古代バビロニアでも使われていたようで、 19年7閏は、どうも「感」でやっていたようです。  いずれにしまても、19年の周期に気が付くまでは相当な年月がかかったと思います。
あとがき
●1年の長さ
 1年の長さや1朔望月の長さは実は一定ではありませんし、軌道も変化します。 そのようなことが更に太陰太陽暦を難解にします。
 例えば平均値で表しました年月は少々項目を付け加えますと

平均朔望月29.53058885+0.00000022T(Tはユリウス世紀[36525日])
このように変化していきます。これでも高次式が省略されている形ですので、 もっと難しい複雑な変化をすることになります。

●あとがき
 これで陰暦の構造が大体判明したと思います。 更に閏を何処に入れるか、春分点や夏至点などはどうするのか、 年初はいつにするのかと、大変な訳です。
 力を持ち、知識を持ち、長年の観測結果を持つ権力側が「こうだ!」 と決めないと、何ともならなかったでしょうね。

今の太陽暦に慣れていますとなかなか想像できないですよね。

 現在では正式に太陰太陽暦を採用している国はないようですが、 宗教暦や慣習などで太陰太陽暦は世界各地に残っております。 日本でも旧暦で正月とか、お盆ですなどと言いますね。


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