東洋最古の天文台
慶州瞻星台(けいしゅうせんせいだい)は、
韓国では「新羅時代に建造された東洋最古の天文台遺跡」と言われている。
韓国の国宝(第31号)。
世界遺産慶州歴史地域の構成資産になっている。
新羅の時代と云うから650年代頃と思う、それが東洋で最古の天文台だという。
金生遺跡が八節の暦作成のための天文台となれば、縄文時代 4600年くらい遡る、古い世界遺産になる。
引用ーーーーーー
慶州瞻星台(けいしゅうせんせいだい)は、韓国の慶尚北道慶州市にある建造物で韓国の国宝(第31号)。世界遺産慶州歴史地域の構成資産になっている。建造年・建造者・建造目的は全く不詳であるが、韓国では「新羅時代に建造された東洋最古の天文台遺跡」と言われている[1]。
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科学史的評価
1910年に瞻星台の存在を学界に認知させたのは、朝鮮総督府観測所所長をつとめた和田雄治であった。気象学者であった和田は、現地に足を運んで、1909年4月に放棄状態となっていた瞻星台を確認、伝承と文献記録の研究とともに、文化財としてその保護に努めた[7]。和田の推測するところでは、かつて瞻星台の頂上には木造の建造物が設置されており、そこで渾天儀のような天文観測器具による観測が常時行われていた[8]。瞻星台を「東洋最古の天文台」と位置付ける和田の説は併合時代の朝鮮人にとって民族的誇りを掻き立てるものであり[9]、以降長年にわたって無批判に受け入れられていた。[1][2]
後の大韓民国成立後の同国内の科学史学界では、瞻星台の建造意図についての解釈は何度かの変遷を経てきた。瞻星台の学問的な調査研究がはじめられたのは、大韓民国成立後の1960年代になってからであった。科学史家の全相運は1964年に瞻星台の構造と機能を検討し、天文観測用構造物を設置するには不向きな構造であることを指摘した。全相運の説では、太陽の運行につれて日影の長さを記録する圭表(日時計)としての役割が主であり、内部もしくは頂上から天文観測を行うことがあったとしても、日食などの変異に際して臨時に行われるだけのものだとされた。[1][2]
全の問題提起をきっかけとして、科学史を専門としない者も含めて様々な説が唱えられ、激烈な論争が繰り広げられた。瞻星台が天文観測とは無縁な宗教的・象徴的な建造物だという主張もこの時期に登場した。金容雲によれば、瞻星台は周髀算経などに伝えられる当時の科学知識を集積した一種の記念碑であり、使われている石の数(約360個)は1年の日数を、積まれた段数(一説には28段)は二十八宿を象徴していた。また李龍範は、善徳女王が仏教に力を入れていたこともあり、仏教の発展を願い、霊山である須弥山を模った祭壇であろうと考えた[1][2]。
1990年代には論争が飽きられ収束し、常設的な天文台だとする伝統的な見解も、宗教的・象徴的な意味だけを認める主張もいずれも影を潜めた[10]。1996年に開かれた第9回国際東アジア科学史会議では、瞻星台で何らかの天文観測が行われたかもしれない、という点で史学者の間に意見の一致が見られた。ただし、具体的な観測形態やその意味付けについて統一的な見解はいまだに得られていない[1][2]。