金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

冬至と春分の中間点で太陽と月を観測

縄文人は金生遺跡で冬至と春分の中間点 立春 を観測していたことは間違いない、
また縄文人は、太陽と月の暦を一致させる神秘数 3 を土器の縁に突起や波状として記録していたことから、この立春点の観測は、19年毎の太陽暦と太陰暦 月相の一致を知るためで、暦の存在することも間違いない。

これは15日区切りの暦を作っていたことになり、太陽暦の冬至と立春の45日/3 15日 二十四節気の暦の区切り であり、太陰暦では30日/2 15日 上弦、下弦を区切る暦となる。
冬至と夏至の中間点 春分、冬至と春分の中間点 立春、この中間点 立春を観測して、立春を基準に暦を作れば誰でも正確な暦が作れる。
月の満ち欠けは、朔旦立春を19年毎に観測すれば、正確に合わせることが出来た、ということでここを起点としていたものだろう。
現代人に出来れば、縄文人にももちろん出来た。
太陽と月を観測しているので、暦は狂うことが無い、現在の暦と変らないものである。。
これを縄文人は5000年以上前には知り、金生遺跡で4500年前には観測を始めていたのでは無いかと言うこと。

暦の概説を以下に引用しておきます
引用ーーーーーー

 太陽暦 たいようれき

 太陽の運行にもとづく1太陽年(365.2422日)を基本に1年の日数をきめた暦法で、平年を365日とする。太陽暦の起源はエジプトにあったが、前45年のローマでユリウス・カエサルが4年に1度の閏(うるう)年(366日)をもうけたユリウス暦を実施、精度をあげた。16世紀にローマ教皇のグレゴリウス13世によって閏年をさらに厳密にしたグレゴリオ暦が採用され、現在まで世界じゅうでつかわれている。

明治政府は1872年(明治5)に太陽暦を採用、明治5年12月3日をグレゴリオ暦の1873年(明治6)1月1日として新暦と称した。開国以降、欧米列強の暦との調整が必要となったからである。また当時、政府は財政難で、グレゴリオ暦の採用によって明治5年12月分の政府経費を節約することも変更の目的であったといわれる。

  暦 こよみ Calendar 
時間の流れを日、週、月、年に区切って、かぞえる体系。これらの区切りは、地球の運動と太陽と月の動きにもとづいている。1日は地球が1回自転する平均時間である。1年は地球が春分点を発し、太陽のまわりを1周(公転)してふたたび春分点にもどるまでの周期で、回帰年あるいは太陽年といわれる。1太陽年は365日5時間48分強である。

  ひと月は古代には、満月から次の満月までの時間、つまり月が地球を1周するのに必要な時間で、29.53日であった。これを朔望月(さくぼうげつ)あるいは太陰月とよび、これにしたがうと1太陰年は354日となり、1太陽年よりも11日強少なくなる。近代の暦では、月の日数をこのようにきめてはいない。ひと月の長さは約12分の1年である28日から31日とし、1太陽年にちょうど12カ月が入るように調整した。週は、毎日労働して7日目ごとに安息日をおくというユダヤ教、キリスト教の伝統にもとづくもので、自然現象に由来するものではない。++ここは 15日/2  7日 シュメールでの潮の満ち干 月の影響を見ていたものだろう++
この人工的な時間の単位はローマ暦の中で確立され、1週間のそれぞれの日の名称を太陽と月、そして土星、木星、火星、金星、水星の惑星にちなんでつけた。

  黄道と天の赤道がまじわる2つの点は、交点または分点とよばれる。太陽は3月21日ごろ春分点に、9月21日ごろ秋分点に到達する。黄道上で分点の中央にあるのが夏至点と冬至点で、太陽はそれぞれ6月21日ごろと12月21日ごろに到達する。黄道面と赤道面が反対の方向に回転しているので、黄道上の分点の位置は毎年少しずつ移動する。そのため、春分、夏至、秋分、冬至は年によってちがってくる。

  古代の暦

  日常生活に便利なように、時間の流れの基準をつくるために暦は必要である。しかも社会活動が活発になるにつれ、広く共通した暦が必要になってくる。

古代から現代までにたくさんの暦がつかわれ、変化してきたのは、初期にきめた1年の長さが不正確であったことと、日、週、月の時間単位では、1年が均等にわけられないことに原因があった。初期の暦は太陰月にもとづいていたため、季節がずれてきた。そこで1太陽年とあわせるために、ときにはさらにひと月が閏月(うるうづき)として挿入された。このような調整を周期的におこなう暦を太陰太陽暦という。

古代バビロニアでは太陰太陽暦をつかっていて、1年は30日をひと月とする太陰月の12カ月からなるとした。そして季節がずれないように、必要なときは閏月をくわえた。

太陰暦を太陽年にもとづいた暦とおきかえたのは、古代エジプト人たちである。彼らは1太陽年が365日であることを測定し、これを30日をひと月とする12カ月にわけ、年のおわりにさらに5日をくわえた。

前238年ごろ、プトレマイオスIII世は4年ごとにさらに1日をくわえるようにした。これはちょうど現在の閏年に相当する。古代ギリシャでは太陰太陽暦がつかわれていた。前433年ギリシャのメトンは、朔望月と太陽年の関係を観測をもとに計算した。これは19年に7回閏月をもうけるというものでメトン周期といわれる。

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