夏至に関して
これまでの 3年間に亘り、夏の時期は天候に恵まれず、
夏至の観測点については、観測点が設定されているのかどうか、不明だった。
今回、夏至の日の出を、観測することが出来たことにより
これまでの観測結果と合わせて、配石設計の思想が解明できた
図 金生遺跡の立地
東の山々は日の出位置を示して、立春の日の出が茅が岳の峰に
立秋の日の出が笠無山のピークに設定されていた。
図 配石と石棒 図は北が上である
冬至の日の出ラインは配石北限を示す
冬至の日の入り 観測用石棒がある
夏至の日の出 石棒がある
配石デザインの基準線は、冬至の日の出ラインを北限として、
それより南側に東を先端として、楔型 または龍なのかも知れないが に配石が置かれていた。夏至の日の出ラインは、冬至の日の出ラインと交差して、そこに円形石組みがある。この石組みの中心が夏至観測のノーモン位置になっているものと考えている。
また冬至日の出ライン すなわち配石の北限ラインと、冬至の日の入りラインは交差して、この交点が立秋のノーモンの設置点として設定されている。
図 石棒と立春、立秋の日の出ライン
立春は楔型配石の先端の先に茅が岳のピークからの日の出合をわせていて、
そのライン上に石棒を置くことで、その期日を観測する形になっていた。
立秋は、笠無山のピークからの日の出を
冬至の日の出と日の入りの交点の先に石棒を置いて観測していた。冬至の日の入りラインと立春の日の出ラインは交差するかに見えているが、これは交差せずこの二つのラインには関係はない。
図 太陽こよみ
金生遺跡での立春と立秋の観測点は
二十四節気の暦の立春、立秋に一致するものである。
図 推測する縄文時代のカレンダー
立春、立秋の二つの観測点があることから、太陽こよみと月の暦とをシンクロさせていたと考えると
このような7曜日+1日のカレンダーを想定することが出来る。
曜日は月齢に合わせるため、月火水木金海日としている。
現代のカレンダーでは、曜日は月齢と関係なく、タダの記号となり月齢を示していないが、
縄文時代に想定するカレンダーでは、月齢を曜日で知ることが出来る。
月の朔望はほぼ 30日周期であることから、一ヶ月は一年を通じて、
30日で一定になる。
一年の日数は年により変動するが、金生遺跡で立春を直接観測して、
年初を立春からとすれば、変動する日にちを年末に処理すれば、
毎年変動しないカレンダーを作ることが出来る。
曜日をこのように月齢と一致させた場合、月の朔望は正確には30日では無いことから、ずれが生じてくる。そのズレを戻すため、立秋日を観測して、その時に月齢を見ることで、そこから正確な曜日に合わせていたものと推定している。
立春日の月の朔望 月齢 は毎年変化して行くので、曜日のみの変更で対処することになり、
これは19年毎に朔旦立春で一致することになる。
こうしたカレンダーは、石ころを計数に利用するとすれば、石ころの最大数として、太陽こよみ用の石ころ15個二組と、月の暦の石ころ7個+7個+1個を二組とを、それぞれ区別して用意すれば、石ころを日めくりすることで縄文時代でも計数可能ではないかと考える。