Discovery of solar calendar observation facility at the Kinsei Site
Corded Ware Culture Jomon Pottery Culture
Abstract
Hokuto City, Yamanashi Prefecture,Japan
The Kinsei Site, a Jomon Period site, has a 40-meter long stone arrangement with a stone pole inside, which was found to be the facility for observing the solar calendar. The observation points are located at Risshun, Risshu, and Winter Solstice of the 24 solar terms.
Each observation point has a corresponding mountain as a landscape. Risshun is located on the peak of Kanegatake, commonly called Kayagatake, Risshu on the peak of Kasanashiyama, and the winter solstice on the peak of Kaikomagatake.
This has also been simulated by analemma analysis, which displays solar navigation, with similar results, thus proving that there is no doubt about it.
Therefore, since this site is considered to be in the late Jomon period, it can be assumed that a solar calendar was established and solar observations were made during the late Jomon period.
From this, it can be inferred that the development of the solar calendar was underway from quite early in the Jomon period.
Since two calendar dates, Risshun and Risshu, were observed, we can infer that observations were made to synchronize the solar calendar with the lunar calendar, and that the two calendars were used in parallel in different regions. 2023.02.09 Translated by D.T.
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Zusammenfassung.
Stadt Hokuto, Prafektur Yamanashi
Die Statte von Kinsei, eine Statte aus der Jomon-Zeit, verfugt uber eine 40 m lange, grose, steinerne Verteilerstruktur, in der ein steinerner Pfahl errichtet wurde, der sich als Einrichtung zur Beobachtung des Sonnenkalenders erwiesen hat. Es wurde festgestellt, dass sich die Beobachtungspunkte an den 24 Sonnenkalenderpunkten Risshun, Risshu und Wintersonnenwende befanden.
Jeder Beobachtungspunkt hat einen entsprechenden Berg als Landschaft. Risshun liegt auf dem Gipfel des Berges Kanegatake, allgemein bekannt als Berg Kayagatake, Risshu liegt auf dem Gipfel des Berges Kasanashi, und die Wintersonnenwende liegt auf dem Gipfel des Berges Kaikomagatake.
Dies wurde auch durch die Analemma-Analyse, die die Sonnennavigation anzeigt, mit ahnlichen Ergebnissen simuliert, so dass es keinen Zweifel daran gibt.
Da diese Statte in die spate Jomon-Zeit fallt, kann man davon ausgehen, dass in der spaten Jomon-Zeit ein Sonnenkalender erstellt und Sonnenbeobachtungen gemacht wurden.
Daraus lasst sich schliesen, dass die Entwicklung des Sonnenkalenders bereits in einem sehr fruhen Stadium der Jomon-Zeit stattfand.
Da zwei Kalenderdaten, Risshun und Risshu, beobachtet wurden, kann man davon ausgehen, dass Beobachtungen gemacht wurden, um den Sonnen- und den Mondkalender zu synchronisieren, und dass die beiden Kalender, je nach Region, parallel verwendet wurden.
Bemerkung: Risshun; der erste Tag des Fruhlings, Risshu; der erste Tag des Herbstes
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Johmon(Japanese area Pre-Historic Age)
"Let the Kinsei Iseki archaeological site be a World Heritage site" association!
The kinsei Iseki site was excavated 40 years ago.
Perhaps because both the sunrise and sunset of the winter solstice were off the east and west mountain peaks (Mt. Kayagatake and Mt. Kaikomagatake), it hasn't attracted much attention for quite some time.
Since the end of last year, we have been trying to observe the sunrise and sunset at the Jomon period stone remains of the Kinsei Iseki archaeological site.
This has led us to wonder if it was an observatory for creating calendars during the Jomon period.
As an observatory that makes use a natural landscape that includes mountain ranges, it is astounding that its function remains the same today it did for 4000 years during the Jomon period.
Therefore, we believe what Kinsei Iseki is an archaeological site that shows the creation of a calendar that we can be proud of as a local historical landmark that will be of interest worldwide. By R.H.
Kinsei Iseki Ohizumi machi Hokuto City Yamanasi Pref. Japan
金生遺跡を世界遺産にしよう会
2024.10.03 補足追加 公益社団法人日本ユネスコ協会連盟では、世界遺産の定義を以下のように示しています。
世界遺産とは、地球の生成と人類の歴史によって生み出され、過去から現在へと引き継がれてきたかけがえのない宝物です。現在を生きる世界中の人びとが過去から引継ぎ、未来へと伝えていかなければならない人類共通の遺産です。 出典:www.unesco.or.jp
人類共通の遺産であり、かけがえのない宝物。
とても情緒的な響きではありますが、それを決めるためにももちろん、ある一定の基準が設けられています。
「世界遺産」は、1972年の第17回UNESCO総会で採択された世界遺産条約(『世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約』)の中で明確に定義されており、その種類は1.文化遺産、2.自然遺産、3.複合遺産(1,2を兼ね備えているもの)の三種類。
登録に至る流れは、以下の通り。
条約締約国が選出した候補地を世界遺産委員会に推薦
各世界遺産の専門機関によって調査(文化遺産は国際記念物遺跡会議[ICOMOS]、自然遺産は国際自然保護連合[IUCN]によって実施)
各専門機関の報告書をもとに、世界遺産委員会が登録可否を判断
このように厳正なる審査によって、地球上で過去・現在から未来へと受け継がれるべき貴重な財産を決定しているのです。
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概要
山梨県北杜市にある
縄文時代の遺跡・金生遺跡には、40メートルの大配石遺構があります、その中に石棒が立てられてあり、太陽暦観測施設となっていることが分ってきた。観測点は二十四節気の暦の立春、立秋、冬至であることが分った。
各観測点にはランドスケープとして対応する山が設定されている。立春は通称茅が岳と呼ばれる金が岳のピークにある、立秋は笠無山のピークにある、冬至は甲斐駒ヶ岳のピークにある。
また、このことは太陽運行を表示するアナレンマ解析によってもシミュレーションされて、同様な結果となっていることで、間違いないことが立証されている。
したがって、この遺跡は縄文時代後期に当たるものとされていることから、縄文時代後期には太陽暦が確立していて、太陽観測が行われていたものと推測できる。
このことからは、縄文時代のかなり早い時期から太陽暦の開発が進められていたものと推定出来る。
立春、立秋の暦日2点が観測されていたことから、太陽暦と太陰暦をシンクロさせるために観測は行われ、二つの暦は地域により平行利用していたものと推察する。 2023.02.09
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2023.01.14 改訂しました
金生遺跡は40年前に発掘されたが、冬至の日の出も日の入りも山のピークを外していると判断されたものなのか、以後誰もその事に注目することは無く、考古学的に注目されることもなかった。
2020.12.21から縄文時代 金生遺跡の配石遺構で日の出、日の入りを観測した。その結果冬至の当日を正確に観測する立地設計で設定されたものとの考えを持つようことになり、縄文時代に冬至を基準にした暦を作るための天文台だろうとの考えに至りました。
その時は自然景観の山 -東の茅が岳 通称 と西の甲斐駒ヶ岳- をそのまま観測施設として利用する天文台として、縄文時代 4000年以前と変らず、現在も機能は変らないことは驚異的であり、世界に誇れる二至二分、四立、八節の暦作成を示す遺跡であると考えたものでした。
これを記載したときは金生遺跡の太陽観測について検討の途中で、縄文時代の暦をまだ理解出来ていない時だったのです。その後の検討により、金生遺跡は立春の日の出を観測することが分かり、太陽暦と太陰暦を並行使用するための天文台だろうとの推測に至りました。
その後金生遺跡での縄文時代の太陽暦を作るための大配石の立地を調べたところ
北杜市全体が縄文時代の太陽観測の天文台であり、日の出と日の入りの位置は
二十四節気の暦を基準として周囲に存在する茅が岳の金が岳、笠無山、甲斐駒ヶ岳のピークに設定してあること、それは現代の太陽暦に一致する暦を示していることが判明した。
このことから、金生遺跡と北杜市を
「世界標準時天文台北杜市にしよう会」という記事をブログに上げています。
さらに金生遺跡の大配石で日の出を検討した結果、縄文時代には二十四節気の暦に基づいて立春、立秋の日の出の観測をしていて、現代の太陽暦と一致することが判明し、また同じ正確さで観測していたと考える。
このことから縄文時代には、二十四節気の暦の太陽暦を持っていたことを遺跡が証明していると考える。
これまでの所、古代文明の何処にもこのような正確な太陽暦は造られていないし、太陽観測を正確に行っていた遺跡も無いようである、さらに太陰暦もこの太陽暦にシンクロさせていたことが縄文時代の土器の記録から推察できるので、太陰暦も同じ正確さを持って使われていたものと考える。
したがって縄文時代に太陽暦は開発されていたことから「金生暦」と改称することを提案しました。暦は世界で初めて縄文時代に完成して、歴史的にはその後、時の支配政権の都合で太陰太陽暦などの混迷の時代が続きましたが、現代ようやく太陽暦に戻ったこと、それは3000年ほど掛けてやっと縄文時代並みの暦に戻ったものと考えています。
茅が岳を立春の、笠無山を立秋のヒールマウンテンとして、この暦要素を示す石棒と男根型石棒とを配石内に置いているものとの結論を得た。
大変巧妙にデザインされた太陽観測装置であると伴に、大配石は関連する山々を絵地図として表現し、観測点となる石棒を日の出検出の位置に設置していたようなので、枯山水の庭園としても鑑賞できるもののように思います。
原投稿ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2022.06.09 補足して追加しました。
金生遺跡での縄文時代の太陽暦を作るための施設を調べたところ
北杜市全体が縄文時代の太陽暦天文台であることが判明した
「世界標準時天文台北杜市にしよう会」という記事をブログに上げています。
2022.05.29 補足追加しました。
金生遺跡の大配石で日の出を検討した結果は、縄文時代には立春、立夏、立秋、立冬の日の出の観測は、現代の太陽暦と一致することが判明した。同じ正確さで観測していた。
このことから縄文時代には、現代と同じ太陽暦を持っていたことを遺跡が証明していた。
古代文明の何処にもこのような正確な太陽暦はないし、太陽観測の遺跡も無い、さらに太陰暦もこの太陽暦にシンクロさせていたことが推察できるので、太陰暦も同じ正確さを持っていたと考える。
観測設備 立春
立秋
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金生遺跡は40年前に発掘されたが、冬至の日の出も日の入りも山のピークを外
していたためか注目されることがなかった。
昨年末2020.12.21から縄文時代の金生遺跡の配石遺構で日の出、日の入りを観測をした。その結果 縄文時代に暦を作るための天文台だろうとの考えに至りました。
自然景観の山 -東の茅が岳 通称 と西の甲斐駒ヶ岳- をそのまま観測施設として利用する天文台として、縄文時代 4000年前と変らず現在も機能は変らないことは驚異的であり、世界に誇れる二至二分、四立、八節の暦作成を示す遺跡であると考えています。
2022.02.28 追加して訂正します。
これを記載したときは金生遺跡の太陽観測について検討の途中で、縄文時代の暦をまだ理解出来ていない時だったのですが、その後の検討により、金生遺跡は立春の日の出を観測することで、太陽暦と太陰暦を並行使用するための天文台と判明しました、したがって縄文時代に太陽暦は開発されたことから「金生暦」と改称することを提案します。暦は縄文時代に完成して、歴史的にはその後、太陰太陽暦などの混迷の時代が続きましたが、現代やっと太陽暦に戻り、それは3000年ほど掛けてやっと縄文時代並みの暦に成ったものと考えています。
縄文時代の暦開発の経緯
世界文明の対比
縄文時代 早期、前期は文明に先立つこと2000年ほど前になるようです。中期、後期が文明成立の時期、金生遺跡の成立は文明の成立時期に符合している。
2022.05.12 追加訂正します
その後の観察により、配石は冬至と四立 立春、立夏、立秋、立冬を観測する太陽暦の基本要素を実観測する施設をしめすものと考えることになりました。
2022.05.06 立夏翌日の配石観察から、飯盛山をヒールマウンテンとして、配石ノーモン台と男根型石棒により、立夏の日の出位置を示していることが分りました。
配石は冬至の日の出の太陽光を配石先端の石に受け、そのライン上に立夏のノーモン台の石を配置、
茅が岳を立春の、飯盛山を立夏のヒールマウンテンとして、この要素を示す石棒と男根型石棒とを配石内に置いているものと考えることができる。
大変巧妙にデザインされた太陽観測装置であると伴に、大配石は関連する山々を絵地図として表現し、観測点となる石棒を日の出の位置に設置していたようなので、枯山水の庭園としても鑑賞できるもののように思います。
図はお借りしました