2022.02.27 追加しました。
暦存在の根拠
縄文時代の列島の文化
磨製石器
およそ3万5千年前の磨製石器が発掘されてから、日本国内では各地で磨製石器が出土しています。いずれも3?4万年前のものといわれている。
このことについて、英国のJ・ラボックという考古学者は、に
「日本列島の住民は世界に 先駆けること二万数千~三万年前に 新石器時代を迎えていた。」
と述べているそうです。
このこと、磨製石器は人類史を語る上でかなり重要で、自然石をそのまま使っているだけなら人は少数の家族だけで生活できるが、石器の材料を遠くから取りそろえ、硬い石の加工には、専業の誰かが、何ヶ月もかけて石を削ったり、磨いたりしなければならないということで、(食糧生産をしない)専業者を養うためには、人々が集落である「むら」を形成し、一定以上の人々が集まって、食料を採る人、それを加工する人、石を磨いて道具にする人というように、「むら」の中で職業の分担をする必要が生まれるという。
磨製石器登場の時代は、人類が社会を形成したことが、磨製石器により証明されるとされ、これが世界の考古学会の常識だそうです。
しかも列島の場合石器の材料は手近に有るものを利用したと言うだけでは無く、遠くまで取りに行っていたと言うことが分ってきているようです。そう言う人はどのようにして食べていたのでしょうか。
土器の原材料の産地
旧石器時代でももう社会が出来ていたと考えられるとするならそれは縄文時代にもその社会は引き継がれていたものと考えます。この磨製石器を作ると言うことは社会が形成されことになり、文明の開始と考えることになるようです。
そう考えれば、縄文時代の縄紋土器の場合も、縄文時代草創期からこれだけの精密な土器制作には、専門製作者がいたと思います。黒曜石の石鏃でも同様だと思います、あのような細工を誰でも出来たものとはとても考えられません、作れる自信がありますか。
早期に作られ始めた波状突起口縁の土器 祭祀土器 の場合には、これはもう専門職人の存在が必要でしょう、誰でも作れるようなものではありません。
そんな社会を形成していたとすれば、社会生活には暦も当然必要となりますから、カレンダーが有ったはずだと考えます。とすれば暦が存在していたと考えることは何の問題も無いでしょう。文明なら暦が存在することは当然と思います。
金生遺跡で想定した暦の存在は、磨製石器からの流れの中で、社会が形成されていたと考えれば、何もおかしいはずは無いと思います。
稲作も縄文時代の早い時期から想定可能なようですから、雑穀栽培と合わせて、種蒔きの時期を選ぶなど栽培を始めるには、暦の存在は必須になりますから、太陽暦の存在は当然であるとして良いと思います。
旧石器時代 3-4万年前
草創期(約15,000 - 12,000年前)、
早期(約12,000 - 7,000年前)、
前期(約7,000 - 5,500年前)、
中期(約5,500 - 4,500年前)、
後期(約4,500 - 3,300年前)、
晩期(約3,300 - 2,800年前)
写真 図はお借りしました
引用ーーーーーー
世界で磨製石器が用いられるようになったのは、いまからおよそ8千年前だと言われています。
その磨製石器の出発点とされているのが、古代シュメール文明です。
それに対して、日本は3万年前には磨製石器を用いていた、世界最古の国です。
なぜここで磨製石器なのかというと、なんの加工もしていないただの自然石を道具として用いたのが旧石器時代、石を人が使いやすいように加工して用いるようになったのが新石器時代で、新石器時代に使われた石器のことを、「人が加工した石器」のことを磨製石器(ませいせっき)といいます。
ところが日本では3万年前にはすでに磨製石器が使われていたことが、明らかになっています。
最初に発見されたのは昭和21年で、群馬県の岩宿遺跡からおよそ3万年前の磨製石器を発掘しています。
ところがその後の調査で、さらに下層から、およそ3万5千年前の磨製石器が発掘され、他にも日本国内では、秋田から奄美群島まで135箇所から400点余の磨製石器が出土しています。
いずれも3?4万年前のものです。
このことについて、英国のJ・ラボックという考古学者は、
「日本列島の住民は世界に 先駆けること二万数千~三万年前に 新石器時代を迎えていた。」
と述べています。
世界の磨製石器の出現は、紀元前9千年~7千年頃に出現しますが、突出して早い時期に出現したものとして、
シベリアの2万年前のもの
ロシア南西部の紀元前1万6000年前のもの。
オーストリア中部の2万9000年?2万1500年前のもの
など数例があります。
ところがこれらは異常に早過ぎる磨製石器であり、作成経緯等が研究されているのですけれど、すべて不明とされています。
ところが日本では、3万5千年前の石器から、1万6500年前の土器、その後の縄文式土器の変遷へと、歴史がちゃんと連続しているわけです。
これは実にすごいことです。
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3万年とか4万年いう歳月は、途方もない歳月です。
ではなぜ磨製石器が人類史を語る上で重要かと言うと、旧石器であれば、自然石をそのまま使っているだけですから、人は少数の家族だけで生活できるわけです。
ところがまだ鉄や機械がなかった時代に硬い石を加工しようとすれば専業の職人が必要になります。
硬い石の加工には、専業の誰かが、何ヶ月もかけて石を削ったり、磨いたりしなければならないからです。
人は食べなければ生きていくことができませんから、(食糧生産をしない)専業者を養うためには、人々が集落である「むら」を形成し、一定以上の人々が集まって、食料を採る人、それを加工する人、石を磨いて道具にする人というように、「むら」の中で職業の分担をする必要が生まれます。
さらにそうした「むら」を維持するためには、なぜ自分たちがそこで「むら」を形成しているのかという、「むら」ごとの神話が必要になります。
なぜなら、一族が統一された目的を持って社会を維持する必要があるからです。
このため世界の諸族がもつ神話は、磨製石器登場の時代に形成されたとされます。
つまり人類が社会を形成したことが、磨製石器と神話によって証明されるわけです。
これが世界の考古学会の常識です。
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世界の磨製石器の出現は、紀元前9千年~7千年頃に出現しますが、突出して早い時期に出現したものとして、
シベリアの2万年前のもの
ロシア南西部の紀元前1万6000年前のもの。
オーストリア中部の2万9000年?2万1500年前のもの
など数例があります。
ところがこれらは異常に早過ぎる磨製石器であり、作成経緯等が研究されているのですけれど、すべて不明とされています。
ところが日本では、3万5千年前の石器から、1万6500年前の土器、その後の縄文式土器の変遷へと、歴史がちゃんと連続しているわけです。
これは実にすごいことです。
ちなみに長野県の貫ノ木(かんのき)遺跡から出土の55点、および沼津で発掘された3万年前の磨製石器は、いずれも伊豆諸島の神津島から運ばれてきた石材を用いていることが確認されています。
万年の単位で歴史を考えるときには、海面の高さがいまよりも140メートルも低く、いま大陸棚を形成しているところが、かつては陸地だったりもしたのですが、伊豆半島から神津島までは、水深が深いため、神津島が本州と陸続きになったことはありません。
つまり3万年前に日本列島に住んでいた私達の祖先は、そんな途方もない大昔に伊豆半島と神津島を往復して、しかも石を運んでくるということができるだけの航海術をすでに持っていたということです。
これまた、実にすごいことです。
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伊豆諸島は縄文時代、「宝の島」だった
伊豆諸島は縄文時代、「宝の島」だった
その後の縄文時代になると、各地に定住する人たちが現れ、それを示す遺跡も発見されています。人が増えた理由は定かではありませんが、旧石器時代に続き、縄文時代にも黒潮の流れに乗って移住してきた人たちがいたという説もあります。
この説を裏付けるものとして、八丈島の湯浜遺跡があります。
八丈島(画像:海上保安庁)
湯浜遺跡では多くの石器が発見されているのですが、神津島産の黒曜石がある一方、石器の加工方法などには南方文化が残っています。このことからも、伊豆諸島では縄文時代の早い時期から、本土に住んでいた人たちが南下し、黒潮の流れに乗った新たな移住者も加わり、新たな社会が生まれていったのではないかとされてます。
伊豆諸島は縄文時代、貴重な物資を生み出す宝の島でした。
中でも珍しいのが、オオツタノハという巻き貝の一種を使った貝輪です。縄文人は動物の骨や貝などを使って髪飾りや耳飾りなどの装身具をつくっており、その中にオオツタノハを使ったものがありました。出土例は北海道から愛知県まで200点ほど。200点もあると多いように聞こえますが、ひとつの遺跡から1、2個出土するかどうかですから、現代のダイヤモンドやエメラルドよりもさらに希少価値のあるものだったと考えられます。
巻き貝の生息地は国内でも限られていて、伊豆諸島南部(三宅島、御蔵島、八丈島)や大隅諸島にしかみられません。しかも貝が取れるのは荒海に面した断崖です。縄文の人たちは、この貴重な貝を求めて海を渡って貝の採集を行っていたのです。
伊豆大島の下高洞(しもたかぼら)遺跡では、約1mの厚さの貝や遺物を含む地層が発見されています。
この遺跡では30点のオオツタノハ製貝輪が発見されていますが、多くは破片だったり、輪が途中で欠けたりしたものです。これは、下高洞遺跡が伊豆諸島各地で採取されたオオツタノハを使って貝輪を製作する拠点であったことを示しています。
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縄文時代、富山と長野との交易は盛んだったようだ。富山方面はヒスイ、軟玉、蛇紋岩といった 石材に恵まれ、とくに磨製石斧の製作遺跡があった。長野県には石鏃、石錐(いしきり)などを作 るのに適している和田峠などの黒曜石の産地があった。ともに縄文時代の生活を支えるのに欠かせ ないものであったので、お互いに交流する必要があったのだろう。当然このほか富山からは海の幸、 長野からは山の幸がもたらされたと推測される。タカラガイ形土製品もこうした富山・長野間の交 易や交流の一端を示すものかもしれない。
長野県では土製品ばかりかタカラガイ自体も出土している。千曲川の源流にほど近い北相木村栃原(とちばら)岩陰遺跡など山奥深い洞穴からも出土しているが、これなどもあるいは日本海ルー トでもたらされたものかもしれない(編注…ちなみに北相木村は、日本でいちばん海から遠い臼田 町と同じ南佐久郡に属している)。
縄文時代のタカラガイは、北は礼文島など北海道でも見つかっており、汎日本列島規模で流通し ていたらしい。
興味深いのは、縄文時代のタカラガイに輪切りにされたものが少なくないことである(岩手県に は輪切りタカラガイ形土製品すらある)。
輪切りにされたタカラガイを古代中国では「貝貨」(ばいか・貝の貨幣)として珍重した。商売 や経済に関わる漢字、賃、貸、財、寶、賣、買、賄、賂、販、貯などに貝がつくのはこうした事情 による。
輪切りにされたタカラガイは殷周代(今から3500年前~紀元前8世紀)のものが有名だが、中国新石器時代にもある。日本列島の状況とどのように対応するかわからないし、縄文文化や中国新石器 文化のタカラガイ=貨幣とまではいい切れないが、東アジア的視野で考える必要がありそうだ。
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縄文人は交易もしていた
航海する縄文人
実は、縄文人は驚くほど広い範囲で交易をしていたことが判明しています。
青森の三内丸山遺跡の遺跡からは、黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土しており、600キロ以上も離れた新潟産のヒスイや、長野や新潟産の黒曜石などが発掘されています。
このような交易相手の存在は、当時の日本全国に高度な文明が発展していたことを意味しています。三内丸山だけが、縄文時代の例外ではないのです。
しかも、交易に当たっては、日本海を通じた海運ルートが存在していたようです。航海には造船技術を始め、天文学、海流などの知識も必要ですから、彼らを原始人と侮ることはできません。
縄文時代の丸木舟(丸太を火で焦がしながら石器でくり貫いた船)は、全国で約160艘も発見されています。木の船ですから、実際には、もっとたくさんの船があったのでしょう。
一説には、南米のエクアドルにて、縄文土器によく似た土器が発見されたことから、縄文人は太平洋の海を越えたとも言われています。外洋の航海に耐えられる船も造られていたのでしょうか?
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2021.06.11 金生遺跡のカレンダーを推定してみる
縄文時代・金生遺跡天文台では太陽観測により、冬至から45日目を観測して八節の暦を作っていたものと考える。
カレンダーは夕日の沈む甲斐駒ヶ岳から鋸岳・釜無山・入笠山までの山稜を使って今日が何日になるかを数えていたものだろう。
太陽観測による日数であるから狂いはなかった筈である。
20世紀まで苦労を重ねてきたカレンダーの誤差修正の経緯があったが、縄文人は4000年前に解決済みだった。
情報伝達は刻木・縄文字により記録されていたものだろうと考えている。
各地の縄文遺跡からのこれらに関係する発掘調査と異物の発見を待つのみ。
引用----
カレンダーの起源と歴史
月の満ち欠けをもとに太陰暦がうまれる。
カレンダーの起源は、遥か昔の紀元前18世紀頃。古代バビロニア帝国の時代まで遡ります。(その頃、日本は縄文時代の真っただ中でした。)古代バビロニアでは、僧侶たちが毎夜寺院の屋上に登って、月を観測していました。そこである発見をしたのです。『月の満ち欠けは一定の周期で行われる』ということ。この周期を元に彼らは、新月から次の新月までを1カ月とするルールを決めました。これが太陰暦です。太陰暦の誕生で「月」や「日」の概念ができ、スケジュールを組む習慣が生まれたと推測されています。
太陰暦を太陽の運行と合わせた、太陰太陰暦の誕生。
太陰暦は画期的な発明でした。でも、弱点がありました。それは月の満ち欠けだけを基準にしているということです。新月から次の新月まではおよそ29,5日。1ヶ月が中途半端な数字になってしまいます。 地球が太陽の周りをまわる周期が約365日ですから、太陰暦をもとに生活していると1年で11日、3年で1ヵ月ほど太陽の運行とずれてしまいます。
こうなると、15年後には1月が真夏で8月が真冬になってしまうのです。季節感ゼロですね。そこで3年に一回、1年を13ヶ月にし、調整をはかるようにしました。この調整を閏(うるう)といいます。この閏を太陰暦に加えたものが太陰太陽暦。
日本でも、中国から6世紀後半に太陰太陽暦が伝来し、明治時代まで国暦として採用されていました。日本の太陰太陽暦は数回の誤差の修正を経て、天保十五年(1844年)に改暦。「天保暦」と呼ばれるようになりました。この天保暦は世界で最も正確な太陰太陽暦であったと言われているのです。
ローマ帝国の覇権とともに太陽暦が広まる。
閏の登場によって季節論争は一段落ついたように見えました。しかし、別の問題が発生したのです。閏の挿入方法は地域や宗教的意味合いによってバラバラ。1月に閏を持ってくる地域もあれば、8月に持ってくる地域もありました。こうなると大変です。1月に閏を入れた地域が「1月40日に会いましょう」と8月に入れた地域に伝えても、「1月40日なんてないよ。8月40日ならあるけど」と、ややこしいことが起こるのです。
この問題を解決したのは、ローマ帝国でした。古代ローマでは、エジプトで発明された太陽暦を使っていました。太陽暦はその名の通り、太陽を基準に考えた暦です。地球が太陽の周りを回る公転周期をもとに1年を365日とし、4年に1度、366日の閏年を制定したものです。ローマ軍は占領した地域において『太陽暦』を使えと号令を発します。発信者はユリウス・カエサル。「ブルータスお前もか!」でおなじみのローマ時代の政治家です。こうして広まった太陽暦はユリウス暦と呼ばれるようになるのです。 紀元前45年頃のお話です。
ローマ法王の手によって、現在のカレンダーと同じ、グレゴリオ暦になる。
ユリウス暦には、わずかづつですが、季節と暦がずれる傾向がありました。そこで1582年にローマ法王グレゴリオが、より精度の高い暦にするよう改暦を命じました。これが今の暦になっているグレゴリオ暦です。グレゴリオ暦が日本で採用されたのは1872年(明治5年)のこと。それまで日本では、グレゴリオ暦よりも正確だと言われている、太陰太陽暦『天保暦』を使っていました。なぜ国民にも浸透していて、さらに正確な天保歴を改暦する必要があったのでしょう。理由は、グレゴリオ暦を採用している諸外国と外交上で足並みをそろえるため、そして日本が文明国家の仲間入りしたことを広くアピールするためだったのです。暦を統一することは、国の行く末までも占う重要なことだったのです。
金生遺跡を世界遺産にしよう会