金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

関東、千葉の貝塚は後期に大発展している

関東、千葉の貝塚は後期に大発展しているのは何故なのか

中里貝塚も同時期で、季節を知り貝の時期に採取していた
北海道までこの時期貝塚が到達していた
これはカレンダーが存在していたものと考える。

 

加曽利貝塚とは ウェブ情報からまとめている

アブストラクト

 


千葉市の加曽利貝塚は北と南に別れている
北貝塚は縄文中期(約5000~4000年前)、円形の北貝塚(直径140メートル)
南貝塚は縄文後期(約4000~3000年前)で、だ円形の南貝塚(長径190メートル)
が連結し、8字形をした国内唯一の貝塚とされる。
中期になると住居が「ムラ」のほぼ中程の広場を囲んで配置され、それらの住居にゴミ捨て場の貝塚が残されたので結果として環状の貝塚の並び方が形成されさた。(例:加曽利貝塚)
加曽利貝塚の貝塚文化の最盛期には南貝塚と呼ばれる長軸約190mで馬蹄形をした貝層が形成され、中期の北貝塚以上の規模となった。
「北貝塚貝層断面観覧施設」が北貝塚に整備・公開されているが、そこの貝の内容は解説されていないので分らないものの、採取した貝に質的変化は見られないようだ。

 

              図 市川の一例

 最も栄えたのが縄文後期の3500年前とのこと、この時期には貝採取の季節も分かるようになり、
この時にはカレンダーがあったのではないか、その結果
姥山貝塚も縄文中期と縄文後期の遺跡であり、ほぼ同じような時期に全盛期を迎えている。
市原市に所在する祇園原(ぎおんばら)貝塚は、縄文時代後期を中心とする貝塚をともなう集落遺跡で、東京湾岸でも有数の大規模な貝塚遺跡ができている。
この時期貝塚出土の貝殻を調べると、未成熟貝に対する捕獲制限などの配慮があったことがわかっている。

そして加曽利貝塚の名が付けられた加曽利B式の土器は北海道でも見られるようになる。この土器は、縄文時代の土器の中で最も大きな広がりを持った土器で、北海道内にも大きな遺跡を残している。
関東では縄文晩期になると集落や住居の数が減るが、
加曽利貝塚では中期、後期のみならず晩期にまで拠点的な集落が存続していた

ではもう一つの「ハマ貝塚」とは何か? 「ハマ貝塚」のハマとは浜のこと。そして「ハマ貝塚」の特徴はその規模が極端に大きいこと。そしてほとんど貝殻だけで、貝採取は時期と大きさが決まっていること、「ムラ貝塚」加曽利貝塚などではサイズも貝類も雑多であるが、内容も異なり生活ゴミが殆ど出ていないんですね。またそれを裏付けるかのように「ハマ貝塚」の周囲には竪穴住居跡もみつかっていないんです。
ちなみにその極端に大きいその規模とは、代表的なのは東京都北区上中里にある『中里貝塚(なかざとかいづか)縄文時代中期中ごろ~後期初め』ですが、なんと長さが1km以上、幅が70~100m、そして貝層の厚さは最大で4.5mもあるんです 

日本最古の貝塚は千葉県西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚で、紀元前7500年頃の縄文時代早期前半の土器が両者から出土。また「貝塚=ゴミ捨て場」とは限らず、作られ方も時期によって異なり、
縄文早期では竪穴住居や小さな調理施設である炉穴の中に貝が捨てられている場合が多く、
縄文前期にも早期と同様で、中期になると住居が「ムラ」のほぼ中程の広場を囲んで配置され、それらの住居に貝塚が残されたので結果として環状の貝塚の並び方が形成。(例:加曽利貝塚)

 

 


様々な情報羅列まとめ
縄文時代の特別史跡は四つ
縄文時代の特別史跡は、この「尖石石器時代遺跡」のほかに、
「三内丸山遺跡」(青森県青森市)、
「大湯環状列石」(秋田県鹿角市)、
「加曽利貝塚」(千葉県千葉市)の三つがあり、縄文時代の特別史跡は全部で四つということになります。

千葉県千葉市加曽利(かそり)貝塚(国指定史跡)
千葉県千葉市加曽利貝塚|写真中期~後期の代表的な環状貝塚です。
北貝塚と南貝塚が隣接してあり、ともに中央広場を持つ環状を呈しています。

千葉市の加曽利貝塚は北と南に別れているが、
北貝塚は縄文中期(約5000~4000年前)、
南貝塚は縄文後期(約4000~3000年前)で最も栄えたのが縄文後期の3500年前とのこと、
加曽利貝塚
(千葉県) 縄文時代中期・後期の貝塚。世界的にも最大規模。

*加曽利貝塚からは堀之内式土器(縄文時代後期前半)も出土しており、
B地点では上層から加曽利B式、下層から堀之内式が、
E地点では上層から堀之内式、下層から加曽利E式が出土しました。
「加曽利E式土器」で約5000年前の土器といっています。
「加曽利B式土器」で、約3500年前の土器です。

 

 

加曽利B 薄く精緻なつくりの土器です。写真の土器は3単位の大きな波状口縁で、上から見ると三角形を呈します。縄文時代後期中葉   加曽利B(かそりびー)式土器  三鷹市丸山A遺跡出土


 縄文時代後期
 縄文後期の当初は、縄文中期の土器の流れを受け継いだ北筒式が道北東部、余市式と呼ぶ土器が道央から道南部に分布している。
 この余市式の後、その分布する範囲に、東北地方・岩木山麓に多く見られる十腰内式の流れをくむ土器が、石狩低地帯の周辺まで見られる。
 この後、中頃になると、日本を代表する大貝塚である千葉県の加曽利貝塚の名が付けられた加曽利B式の土器が北海道でも見られるようになる。この土器は、縄文時代の土器の中で最も大きな広がりを持った土器で、北海道内にも大きな遺跡を残している。
 津軽海峡を越えて広がりを見せるこれらの土器も十勝、釧路などでは見られず、どのような土器が使われていたか、明瞭ではない。

「縄文時代のゴミ捨て場」
と思い浮かべる方が一般的だと思うのですが、実は今では、それだけではないんじゃないかと考えられています。
というのも、貝塚には、貝殻はもちろんのこと、縄文人の人骨や、壊れた土器や土偶、彼らが食べた動物や魚の骨や植物の残りカスとか、それはもう、いろいろあるのです。
つまり、貝塚は貝殻ばかりが捨てられた場所じゃなかった、ということ。
そして、人骨があるっていうことは、単なるゴミ捨て場じゃなかったんじゃないか、ということ。
縄文人の世界観のなかで、すべてのもの(有機、無機にかかわらず)に命が宿ると考えていたならば、その命の役目が終わった時に、「ありがとうね」の想いを込めながら、この場所に置いたのではないか(天に命を返す儀礼をしていたのではないか、という研究者もいます)とも言われています。


この積み上がった貝の量はどうよ!
正気の沙汰とは思えない量を彼らは食べていたのです。それも、2センチほどのちっちゃいちっちゃいイボキサゴを。


参考 ネフェルティティ、アクエンアテンの頃
ネフェルティティ、アクエンアテンの頃をイメージ的に加曽利貝塚博物館展示年表に落としてみました。紀元前14世紀の前半から中ば頃の人物です。日本では縄文晩期初頭頃になります。


堀之内式は3800年前だから、縄文後期の前葉で、
安行式は3200年前だから縄文後期の後葉というわけである。
なお、千葉市の加曽利貝塚は北と南に別れているが、
北貝塚は縄文中期(約5000~4000年前)、
南貝塚は縄文後期(約4000~3000年前)で最も栄えたのが縄文後期の3500年前とのこと、

姥山貝塚も縄文中期と縄文後期の遺跡であり、ほぼ同じような時期に全盛期を迎えたわけである。
当時の千葉県の居住環境の良さが偲ばれる。(ある調査によれば縄文後期の日本の人口は160,300人。内、関東地方が51,600人とのこと。その中でも千葉県北総台地が日本の中心地だったのだ)


「関東では縄文晩期になると集落や住居の数が減るが、
加曽利貝塚では中期、後期のみならず晩期にまで拠点的な集落が存続していた」と解説する。
「加曽利貝塚は中期から後期の遺跡」とする従来の説明を見直す必要が出てきたという。
 松田さんは「2千数百年にわたって人々が住み続けた極めて珍しい遺跡。その間の環境変化にうまく適応していたのだろう。


 国の特別史跡・加曽利貝塚(千葉市若葉区)で、半世紀ぶりに行われた本格的な発掘調査が昨年12月に終了した。日本を代表する国内最大級の貝塚だが、実は過去の発掘面積は全体の約7%。教科書にも載った従来の加曽利貝塚像は、このわずかな調査を基に執筆されたものだった。最新の発掘で、千葉が誇る郷土遺産の新たな価値が浮かび上がってきた。

 同貝塚は、
5千~4千年前の縄文中期に形成された円形の北貝塚(直径140メートル)と、
4千~3千年前の後期にできた、だ円形の南貝塚(長径190メートル)が連結し、8字形をした国内唯一の貝塚とされる。「日本文化の象徴」として2017年10月、縄文時代の遺跡では4件目、貝塚では唯一の特別史跡になった。

 

松島館山の沖ノ島に縄文草創期の遺跡がありますが、そこからは、解体したイルカの脊椎と肋骨、耳石と、解体に使った道具だけしか出ないんです。海岸で解体して、それぞれの集落へ持って行ったということだと思います。

貝もまさにそうだったと思いますね。千葉市の東京湾沿岸にある加曽利貝塚は、採ってきた貝をここでゆでて、干し貝にして、それを自分たちの村だけではなく、1つの商品として、かなり遠方まで交易をしていたのではないかと言われています。そういったものをミニミニ版にしたようなものが各地域にあったのではないかと思うんです。

そのためには技術革新があったはず カレンダー


 例えば普通の貝塚だったら、それこそ加曽利貝塚のようにいろんな土器だとか動物の骨だとか、生ごみを含めて、いわゆるゴミが捨ててあったりするんですけど、東京都北区にある中里貝塚には、ハマグリと牡蠣しかないんです!
 そういう貝塚のことを“ハマ貝塚”って言うんですけど、海岸線に近いところにできる大きな貝塚っていうのは、恐らくそこで一生懸命、貝を獲ってきては煮て、干し貝を作っている。その干し貝を今度は、そこの特産品として山間部だとか、あるいは中里貝塚は武蔵野台地のすぐ真下にあるんですけど、その武蔵野台地の上には集落がありますから、基本的には物々交換だと思うんですけど、そういうところにずっと搬出しています。


ではもう一つの「ハマ貝塚」とは何か? 「ハマ貝塚」のハマとは浜のこと。そして「ハマ貝塚」の特徴はその規模が極端に大きいこと。そして「ムラ貝塚」と異なり生活ゴミが殆ど出ていないんですね。またそれを裏付けるかのように「ハマ貝塚」の周囲には竪穴住居跡もみつかっていないんです。
ちなみにその極端に大きいその規模とは、代表的なのは東京都北区上中里にある『中里貝塚(なかざとかいづか)縄文時代中期中ごろ~後期初め』ですが、なんと長さが1km以上、幅が70~100m、そして貝層の厚さは最大で4.5mもあるんです 


松井さんは08年4月、セネガルの首都・ダカールの南約50キロに広がる貝塚群を調査した。数万平方メートルの広大な貝塚の上にある集落で、約100人が古代と変わらない漁労生活を営んでいた。最古の貝塚はダカール大学の調査で約4100年前から続く。
住民は太古から、カキや巻き貝のむき身を海水で煮込み、水分を蒸発させてから天日干しをして大量の干し貝を作ってきた。身には塩分が濃縮され、そのままでは食用に適さないが、スープの固形だしとして使う。現在は近隣都市の市場で販売され、現金収入源になっている。
日本にも、宮城県東松島市の里浜貝塚(6千~3千年前、東西約640メートル、南北約200メートル)、千葉市の加曽利貝塚(5千~3千年前、長径300メートル)など大規模なものがある。両貝塚とも2~3メートルにわたって貝殻が積もり、自家消費用にしては多すぎるとの見方もあった。
松井さんはセネガルの例をもとに「日本でも集落全体で塩分を濃縮した干し貝を生産し、内陸部との交易品としていたのではないか」と考えた。セネガルの干し貝を奈良県工業技術センターで分析したところ、サケやサバの干物の約3倍の塩分が確認された。縄文時代の技術では、海水から塩を作るより、貝のむき身に塩分を濃縮させる方が効率的だったのではと推測。


市原市に所在する祇園原(ぎおんばら)貝塚は、縄文時代後期を中心とする貝塚をともなう集落遺跡で、東京湾岸でも有数の大規模な貝塚遺跡です。
この遺跡からは、大型竪穴建物跡や100体をこえる埋葬人骨をはじめ、当時のくらしや地域間の交流、精神世界の一端にせまることができるさまざまなモノが出土しており、その質と量は全国的に注目されています

取掛西貝塚は、約1万年前の縄文時代早期と約6千年前の縄文時代前期の2つの時期からなる貝塚集落跡です。
縄文時代早期の集落遺跡としては最大級の規模であり、これにともなうヤマトシジミなどからなる貝塚は、特に貝塚遺跡が集中する東京湾東岸でも最古クラスです。
また、この貝塚の下からは、イノシシやシカの頭の骨が集められた状態で出土するなど、当時の人びとのくらしや考え方にせまることができる遺跡です。

加曽利貝塚は、日本で最大級の貝塚集落跡ですが、本貝塚だけで東京湾東岸に集中する貝塚遺跡、そして縄文時代をかたることはできません。
ながい縄文時代の中で貝塚集落は、その時期、場所によってそれぞれの特徴がちがいます。
取掛西貝塚は、加曽利貝塚の貝塚がつくられはじめる縄文時代中期より前の貝塚集落のありかたを知ることができ、なぜ加曽利貝塚が営まれたのかを考えるうえでも重要な遺跡です。

船橋市には縄文時代早期の市指定史跡・飛ノ台(とびのだい)貝塚も所在し、その隣には飛ノ台史跡公園博物館があります。

東京湾東岸では、市川考古博物館(史跡・堀之内貝塚ほか)、飛ノ台史跡公園博物館、袖ケ浦市郷土博物館(史跡・山野貝塚)、そして当館が貝塚遺跡の史跡の保存と公開をしています。

15ヘクタールに及ぶ加曽利貝塚は、これまで約8%が発掘調査されています。その8%で見つかったモノ・痕跡の一部は、加曽利貝塚博物館でご覧いただけます。そして、館外に広がる手つかずの92%には、未知のさまざまなモノと痕跡が将来の研究のために残されています。そのこともまた、加曽利貝塚の価値のひとつです。

日本最古の貝塚は千葉県西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚で、紀元前7500年頃の縄文時代早期前半の土器が両者から出土。
また「貝塚=ゴミ捨て場」とは限らず、作られ方も時期によって異なり、
縄文早期では竪穴住居や小さな調理施設である炉穴の中に捨てられている場合が多く、
縄文前期にも早期と同様で、中期になると住居が「ムラ」のほぼ中程の広場を囲んで配置され、それらの住居に貝塚が残されたので結果として環状の貝塚の並び方が形成。(例:加曽利貝塚)


遺跡の保存においては、中略--
博物館を含む遺跡全体は「野外博物館」として遺跡そのものを保存し見学することができる「貝層断面観覧施設」等の野外施設が整備されている。
加曽利貝塚の価値
加曽利貝塚は、直径140mで環状を呈する北貝塚(縄文時代中期)と、直径約190mの馬蹄形を呈する南貝塚(縄文時代後期)を含む集落遺跡である。北貝塚と南貝塚は継続して構築されたと考えられ、2つの貝塚が連結して「8字」状の平面形を呈することが特徴的である。時期の異なる2つの大型環状貝塚が継続して構築された例は他になく、およそ2,000年におよぶ長い期間、継続して集落が営まれていたことが明らかとなっており、東京湾東岸に集中する大型環状貝塚はもとより、全国的に見ても最大級の貝塚である。貝塚構築以前は縄文時代早期にまで遡り、貝塚の構築が終了した後の縄文時代晩期まで、各期の遺構が発見されている。遺跡の面積は20haを超え、現在約15.1haが特別史跡として保存されている。


加曽利貝塚博物館は昭和41(1966)年11月の開館以来、遺跡全体を保存・活用する「野外博物館」構想に基づき整備が行われてきた。開館直後の昭和43(1968)年から野外施設の整備が始まり、
発掘されたままの状態で竪穴住居跡群の見学ができる「竪穴住居跡群観覧施設」、
貝塚そのものを見学できる「北貝塚貝層断面観覧施設」が北貝塚に整備・公開された。
この両施設は、発掘された遺構そのものを保存処理し、遺構の上に覆屋を建設し公開している。同様の施設は当時、三殿台遺跡(神奈川県横浜市)に次いで全国で2例目の取組として画期的なものであった。


千葉市以南の貝塚にはイボキサゴが多い
下の図は、千葉市近辺の貝塚の貝の種類の割合を示したものです。これを見ると加曽利を含め、それより南の貝塚では、水色で示した「イボキサゴ」という貝が圧倒的に多いことがわかります。
加曽利では、イボキサゴが85.3%、2位のハマグリが6.3%、その他8.4%という割合です。
イボキサゴが9割を占める千葉市以南の貝塚(縄文時代中期)
ただし、この割合は、貝の個体数で計測した数値で、イボキサゴ(下の写真参照)というのは、1.5~2cm程度のとても小さな巻き貝で、数を数えたら多めに出てしまうだろうからです。重量あるいは体積で、割合計測すべきでは。

 

特別史跡加曽利貝塚でも黒曜石製の石器が出土しています。
その産地は栃木県、長野県産がありますが、神津島産が多数を占めています。
加曽利貝塚出土の打製石斧。
加曽利貝塚がある房総半島は、縄文時代中期の打製石斧のひろがりの東端にあたります。

 


神奈川県横須賀市から千葉県富津市に至る東京湾沿岸域は、日本一の貝塚密集地帯である。
その中には、加曽利貝塚(千葉市)のように全国一の規模を持つものもある。
この地域に多くの、そして大型の貝塚が形成された理由には、地球規模の気候変動・変化がかかわっている。

縄文時代の東京湾沿岸域の海水準変動
神奈川県横須賀市から千葉県富津市に至る東京湾沿岸域は、日本一の貝塚密集地帯である。その中には、加曽利貝塚(千葉市)のように全国一の規模を持つものもある。

この地域に多くの、そして大型の貝塚が形成された理由には、地球規模の気候変動・変化がかかわっている。縄文時代(約1万6,500年前~2,300年前)の東京湾沿岸域の海水準変動を、研究成果(小杉、1989他)を中心に見てみよう。
更新世最寒冷期の平均気温は現在より5℃以上低く、海水面はおよそ120mも低下して東京湾はほぼ全域が陸化していた。1万5,000年前頃からの気温上昇に伴い、海水面も上昇し始める。1万年~9,000年前頃、海水面は-40~-35mにあったが、9,000年前頃から急上昇し、7,000年前頃には現海水面に達するとともに、海域は急速に拡大した(有楽町海進)。この海進によって、現在の東京湾の北方に奥東京湾と呼ばれる内湾が形成されたが、干潟は全般に未発達であった。6,500年前頃から、海水面は+2~3mの高位で安定し、この状態は5,300年前まで続く。海は関東平野の奥、栃木県栃木市藤岡町付近まで入り込み、奥東京湾、現東京湾域の各地で干潟の形成が始まった。

5,300年前頃から海水面は低下へと転じ、4,500年前には海水面が0~+1mとなり、奥東京湾奥部域は淡水化した。この海退では、800年間に40km(50m/年)も海岸線が動いた計算となり、干潟はいっそう拡大した。一時的な停止を経て3,500年前頃に再び海水面は低下し、1,800年前頃までには-1~0mになった。この海退により奥東京湾は消滅し、その後も上昇と低下を繰り返して現海水面に至った。

海水準変動と貝塚の形成
この地域において、海水準変動と貝塚の形成との間には、明瞭な相関が認められることを樋泉岳二(1999)が指摘している。
縄文時代草創期(約1万6,500年~1万年前)は有楽町海進以前であり、この時期の貝塚は現在のところ見つかっていない。これは、その後の海進によって遺跡自体が水没・消滅している可能性が高いためである。

縄文時代早期(約1万年~6,000年前)前半は、有楽町海進によって海域が拡大していく時期にあたり、貝塚の形成が始まる。この地域最古といわれる夏島貝塚(神奈川県横須賀市)は干潟に生息するマガキとハイガイを主体とし、クロダイ、マゴチ、スズキ、ハモなどの骨が出土した。骨製釣針も出土しており、既にこの時期に高度な漁撈技術があったことが窺える。

東京湾東岸には汽水性のヤマトシジミを主体とする取掛西貝塚(千葉県船橋市)が形成され、クロダイ属、ボラ科、ニシン科、コイ科の魚骨が出土し、海水から淡水に至る広い範囲で漁撈活動が行われていた。縄文時代早期後半になると貝塚数は増加するが、数は未だ少ない。

縄文時代前期(約6,000年~5,000年前)前半は海水面が高位安定する時期にあたり、規模が小さい貝塚がほとんどではあるものの急増する。
前期後半からは海退が始まり、後退する海岸線を追うように貝塚の分布が移動する。

前期最終末から縄文時代中期(約5,000年~4,000年前)初頭、貝塚は一時的に激減するが、中期後半に海退が一時的に停止した際には貝塚の形成が再び活発化した。
東京湾東岸はハマグリ、イボキサゴを主体とする貝塚が密集し、加曽利貝塚など長期間にわたって形成された大型貝塚が出現する。加曽利貝塚では北貝塚と呼ばれる直径が約140m、厚さが約2mもある環状の貝層が形成され、大規模な集落が営まれた。

縄文時代後期(約4,000年~3,000年前)前半は再び海退が一時停止し、いっそう拡大した干潟に対応するように貝塚は東京湾沿岸一帯にまんべんなく分布して増加し、規模も拡大した。貝塚文化の最盛期である。加曽利貝塚では南貝塚と呼ばれる長軸約190mで馬蹄形をした貝層が形成され、中期の北貝塚以上の規模となった。しかし、後期後半以降はさらなる海退で貝塚は減少、規模は縮小し、縄文時代晩期(約3,000年~2,300年前)の中頃、東京湾沿岸域では貝塚は消滅した。


■東京湾と貝塚分布の変遷(小杉1989、樋泉1999、春日部市教育委員会2019他を基に作成)

縄文時代のなわばり
赤澤威と小宮孟(1991)は、水産資源の地理的な調達範囲(遺跡テリトリー)を、アフリカで移動生活をする狩猟採集民と定住農民のモデルを参考に、集落から半径約5km、歩行時間に換算して片道約1時間の範囲と推定した。
これを縄文時代後期の加曽利貝塚にあてはめると、半径5km内には台門、花輪、矢作、多部田などの貝塚が密集し、テリトリーが重複しているように見える。樋泉岳二(1999)は、潮回りや干潮の時間帯などによる制限が大きいにもかかわらず貝塚が密集して存在できたのは、当時、干潟の利用や資源管理等に関する一定のルールが存在したからであるとした。
貝塚出土の貝殻を調べると、未成熟貝に対する捕獲制限などの配慮があったことがわかっており、このような調整も地域社会の結合を促す要因のひとつになっていたと推測している。

東京湾沿岸域に大型貝塚が密集して存在し得たのは、地球規模の気候変動・変化によって引き起こされた大きな海進と海退によって、この地域に相当に豊かな環境が育まれたことによるのは間違いない。それに加え、人々が資源管理等に関するルールを共有できるような社会を作り上げたこともまた、重要な要因であったと思われる。(了)

 

加曽利貝塚でも、昭和39(1964)~40年(1965)におこなわれた南貝塚の発掘調査の報告書の中で、動物考古学研究者の金子浩昌(かねこ・ひろまさ)さんが陸産巻貝について報告しています(『加曾利南貝塚』1976)。
そして、平成29年(2017)刊行の総括報告書では、貝類学研究者の黒住耐二(くろずみ・たいじ)さんがあらためて微小陸産巻貝を分析しています。

黒住さんは微小陸産巻貝の種類をその生息環境の特徴、つまりそれぞれのニッチから、「開放地生息種」「林縁生息種」「林内生息種」にわけます。
「開放地生息種」とは、陽あたりのある開けた草原のような環境にくらす種類、「林縁生息種」とは樹木がまばらで地面に陽がさしこむ環境にくらす種類、そして「林内生息種」は樹木がおおいかぶさって地面に陽がとどかない、暗い森林の中にくらす種類です。

加曽利貝塚の過去の発掘調査で採取された貝層のサンプルでは、縄文時代中期の北貝塚や南貝塚外側の竪穴住居跡出土の貝層で「開放地生息種」が多数をしめていました。

ところが縄文時代中期から後期にかけての竪穴住居跡や北貝塚の貝層では「林縁生息湯」がふえていき、縄文時代後期の南貝塚の貝層では「林内生息種」とあわせて80パーセントちかくをしめるようになっています。
これによると、縄文時代中期の貝塚・集落はひらけた陽あたりのよい環境であったのが、後期以降は次第に貝塚の周囲に樹林がせまってきていたことになります。
これは過去のかぎられた調査地点と資料数によるものなので、今後、あらたな資料によってよりくわしく分析を進めていく必要はあります。

ところで、「林縁生息種」「林内生息種」が多数をしめた南貝塚の調査地点の近くでは、現在発掘調査中。
これまでの成果によると、南貝塚の内側「中央窪地」は関東ローム層の最上層がなくなっていること、その面からは縄文時代晩期の遺物がおおく出土することなどから、何らかの理由で縄文時代の人びとが掘りさげた、そこを最後に利用したのは縄文時代晩期であることがわかってきました。
縄文時代後期以降、南貝塚の内側では人が活動しているのに、そのすぐ外側には森林がせまっていた・・・縄文時代中期と後期以降では、加曽利貝塚を取りまく風景はおおきくちがっていたのでしょうか?
近年の調査・研究の成果から、縄文時代の人びとがクリ林の生育にあわせるように集落を出たり入ったりしていた可能性が指摘されています(4月3日をご参照ください)。
加曽利貝塚でも人、集落が出たり入ったりしていたとするならば、それにあわせて貝塚のまわりの森や林がせまったりしりぞいたりしていたのかもしれません。
貝塚や集落の中、まわりの風景をこまかく復原することは、縄文文化を理解するうえで重要です。
そう思うと、特別史跡加曽利貝塚の「草」も展示に見えてきませんか?

 

長野県の八ヶ岳南麓の縄文時代中期遺跡を調査・研究した藤森栄一(ふじもり・えいいち)さんらは、縄文時代の遺跡周辺の環境が落葉広葉樹林帯と想定したうえで、山野から年間どのようなたべものが得られるのか、リストをつくっています。
その結果、春から夏にかけてたべものがすくなくなる端境期があることを指摘しています。
加曽利貝塚のように海にアクセスできる場所であれば、この時期はいまで言う潮干狩りシーズンで、海の産物が手に入るのですが、内陸ではそれにかわるたべものは見あたらないと言います。
そして、この端境期をしのぐたべもののひとつとして、昆虫の可能性をあげています(藤森栄一編『井戸尻』1965)。

 

ーーーーーーー
 加曽利貝塚博物館付属・縄文土器研究所の新井司郎氏の研究結果によると、縄文土器の焼成温度は高々800~900℃とされています。また、加曽利貝塚土器づくり同好会の人の経験によると、焼成温度が600℃でも、時間をかけて土器が充分に硬くなれば煮炊きに使用できるとのことです。 従って、縄文土器は粘土製鉱物の結合水が脱離して粒子間が結合し、水を加えても形を崩さない状態になっていると考えられます。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「旅行」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事