縄文時代は土器に記録が残されている
縄文土器は歴史の記録メディア
旧石器時代については、残されている石器や遺物から生業の変化を推察していた。
それは何かを記録して残すことが出来るものがなかった時代だから。
新石器時代になると粘土から造られた土器が現れた。縄文時代草創期からである。
土器は石器などとは異なり、それなりに思い通りの形が作れることから、縄文土器は記録メディアとして利用されるようになった。
シュメール文明の粘土板
それはシュメールが粘土板に文字を記録するようになったときから、10000年以上前のことになる。
縄文土器は縄文時代の集落の人々の情報を共有するためのもの
集落から集落に情報を伝えるもの
供献土器、祝うもの、祭の中心に有るもの
新石器時の生業開発の画期を伝えるもの、瓦版だった。
縄文人の土器から生業の進展を進めた道具開発の画期を、土器に残されている記録から解明することが出来る。
土器開発がされてから、弓矢開発、魚釣り漁、サケの遡上回帰猟の開始が推察できる。
図
土器の記録から見る限り、イヌの家畜化や投げ槍の開発に関係する文様や造形はこれまでの所、土器の記録としては存在しないようなので、これらの開発は土器以前に開発されていて、既存のものだったと考えて良いのではないか。
一年の変化の周期を知ることは、二至を知ったことから始まり、二至の暦が造られ 2突起土器が造られた
定住して直ぐに一年の日数が知られて、365日/2 182日、その後 182日/2/2 45日
半年四分暦が造られ、4突起土器が造られた。
これにより秋の始まり、立秋が予測でき、サケの遡上回帰猟が予測できるようになった。
そして 6突起の土器があることから、太陰暦も半年の日数をベースにして造られたものと考える。
土器と農耕開始
縄文時代前期にはダイズ、アズキの栽培種が成立して居ることが分ってきたことが、マメ類を土器に練り込んだ記念碑的土器が造られたことから知ることが出来る。
この時期に 8突起土器が造られていて、一年の栽培暦が成立したものと思う。
太陽暦開発の歴史
縄文時代早期には 2突起土器が現れ、二至を知り、半年四分暦が造られて 4突起土器に記録された。
また月の暦は半年 6朔望となることを知り、6突起土器が造られた。
これにより潮の満ち引きが予測できるようになり、集団での潮干狩りが行われて、この時期から巨大な貝塚が造られるようになった。
図はお借りしました