縄文時代草創期には造られなかった貝塚が
縄文時代早期になって何故造られるようになったのか、そして定住出来るようになったのか、
その理由の説明は早期関係の遺跡の報告書を調べた限りでは、縄文海進でうみが広がったからとしか書かれていないようだ。
縄文海進が始まれば自動的に貝塚が造れるものなのだろうか。
海で魚を捕る作業では、潮の干満について余り考慮しなくても良いかも知れない。
しかし潮が引いて潮干狩りをするとすれば、潮が引いたその時にしなくては大漁は難しいと思う。
それは現在と同じだろうと考える。
そうだとすれば、集落全員で作業に掛かり、収穫を上げることにより定住生活をするとすれば、太陰暦無しには出来ないはずである。
狩猟もし、木のみ草のみの採集もし、農耕もしと様々な作業を計画的に行いながら、潮の満ち引きに合わせて、集落の全員が作業に掛かるとすれば、当然皆がそれを認識して作業に掛かるはずで、全員が納得している太陰暦が存在するはずと考える。
そのことは縄文時代早期には 6波状突起口縁の土器が作られていたので、それは半年6朔望の暦が作られた記録であると推察する。
定住が始められても食糧確保は大変だったことだろうと思う。
栽培はなかなか適当な作物が得られず、育てることも上手く出来なかったと思う。
そんなとき縄文海進で海が広がり、それに対応して太陰暦を造ることが出来れば、栽培以上に食糧確保は可能になったと考える。ここまでの定住は大変に困難な事業だったのでは無いか。
それでも二至の暦があったことで、縄文海進を上手く利用することが出来て、貝塚の定住はかなり安定したものとなったのでは無いか。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
沖縄諸島では,前4600年頃に九州方面から移住した縄文人によって,貝塚文化が栄えました。貝塚文化の栄えた時代を貝塚時代,または縄文時代と呼びます。
ーーーーーーーーーーーーーー
職住分離型の生活
東北地方の貝塚は、およそ5千5百年前から3千年前の縄文中期から晩期にかけてのものが多い。貝塚は、教科書などでは縄文時代のごみ捨て場と紹介されているが、多くの場合、すぐ隣に大きな集落を伴っており、生活の中心になる場所だったと思われる。
貝塚に含まれる動物の骨からは、当時の人びとがじつにさまざまなものを食料にしていたことがわかる。魚は、マグロやタイ、イワシなど外洋から内湾のものまで、動物には、イルカなどの海のものから、陸ではシカやイノシシ、クマ、ノウサギ、タヌキにいたるまで幅広く食されていた。
宮城県の松島湾は、複雑に入り組んだ海岸線と島々で独特の美しい風景が広がり、日本三景のひとつに数えられているが、この地形が、縄文時代以来のものであることはあまり知られていない。縄文時代中ごろの日本の海岸線は、今よりも3~5メートル高く、内陸深く入り込んでいた。しかし、松島湾周辺では地盤が縄文時代以降、海と同じペースで沈んでいったため、当時の海岸線がほぼそのまま残っている。ここにも、貝塚が数多く、70個あまりが知られている。これらの遺跡は、海岸線にほとんど接しているように見える。しかし、実際は標高15~30メートルの高台にあり、被害を受けずにすんだ。このように、当時の集落の大半はいわば海と山の接点にあって、調査しても災害の形跡が見当たらない場合が多い。人が住んだ場所には、必ず何かの痕跡が残るもので、津波を受けなかった集落だけが今まで残ったわけではない。それでは、なぜ貝塚は被災を免れたのだろうか。
私は、その秘密が当時の生き方にあるのではないかと考えている。
狩猟や漁労、木の実の採集など、自然の資源にそのまま依存して生きた人びとは、じつにさまざまな環境を利用していた。効率良く食べ物を集めるために、海にも山にもどちらにも行きやすい場所。それが、貝塚が高台に作られた理由なのではないだろうか。多様な環境を、いわば「広く薄く」利用していたために、津波や山崩れなど特定の場所をおそう災害から逃れられたのではないか。
引用ーーーーーーーーーーーーーー
日本最古の貝塚は千葉県西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚で、紀元前7500年頃の縄文時代早期前半の土器が両者から出土。
貝塚は、この時期の前半には、海が進入してできた海岸地域に作られていました。
貝塚は、ヤマトシジミが主体でした。
最古級の神奈川県の夏島貝塚、
千葉県の西之城貝塚があります。
ーーーーーーーーーーーーーー
約50年前(1959)、横須賀市の夏島貝塚から出土した縄文早期の夏島式土器の測定結果が9000年前だったことから、「日本の縄文土器は世界最古である」と主張した。
当時の最新技術であった放射性炭素年代測定法を駆使した調査に基づき主張したのであった。
貝類の採集
縄文人が貝類を食糧資源・装飾品の原料として採取するようになったのは縄文早期前半で、代表的な遺跡として横須賀市の夏島貝塚が挙げられる[57]。
縄文早期の半ばには瀬戸内海沿岸や東北地方でも貝塚が形成されるようになる。採取対象は当初は河口等の汽水域に生息するヤマトシジミであったが、やがて内湾干潟の牡蠣礁で得られるカキや、やはり内湾の軟泥干潟から容易に得られるハイガイなどにその中心は移る[58]。
ーーーーーーーーーーーーーー
押型文土器期に属する愛知県の先苅(まずかり)貝塚は、海面下13mの深さから発見されました。
南関東の定住集落の形成には、漁労活動も重要な役割を果たしていたという説があります。
ーーーーーーーーーーーーーー
関東地方の貝塚は、埼玉県富士見市の水子貝塚、川口市の新郷・猿貝・石神貝塚、栃木県では藤岡町の篠山貝塚と野木町の野渡貝塚と、現代では想像し難い内陸奥部まで縄文海進が及んでいた。約9千年前の神奈川県横須賀市の夏島貝塚では、最下層に汽水域のヤマトシジミを主体とする貝層があり、その上部にはカキ・ハマグリなどの鹹水産貝類が増加していた。縄文後期後半、関東地方で顕著となる土器製塩も、沿岸部で魚介類の塩による長期防腐保存を可能にした。
このような環境条件の変化は、東北地方にも豊かな自然の恵みを与えた。縄文時代前期以後を通して、その生業体系はあくまでも植物性食料主存型で、それに鹿・猪などの動物、鳥類の狩猟、さらに沿岸部では交易品製造を含む貝類の採集が副次的に加わって成立していた。 東北地方以北の主に日本海沿岸部では、秋季に遡上するサケ・マス漁が生業における比重をかなり大きくしていた。山内清男は、秋田県矢島町、阿仁町などから出土した岩塊にサケの絵が線刻されている「サケ石」の存在や、東北地方におけるサケ・マス漁に関わる遺跡遺構の濃密さから「サケ・マス文化圏」を唱えた。
氷河期の最盛期、旧石器時代の海水準は現代の海水面下に水没している。したがって当時の漁労活動の痕跡は未だ確認されていない。しかし当時、濃密に生息していた魚介類を見逃すことは不自然である。漁労は極めて単純で、河川流域では、近辺の石で一時的に堰き止めれば、容易に手獲りができた。海岸部・湖川共に目前を泳ぐ魚を、網ですくえば容易に獲れた時代であった。
狩猟・漁労・植物採集と生業基盤が多岐となって、関東・東北における縄文文化の成長に弾みがついた。
東北では青森県小川原湖、岩手県気仙沼、仙台湾周辺の多くの貝塚遺跡はこの時期に始まり、陸中海岸の貝塚群の形成も、この時期から本格的になる。これらの貝塚は、いずれも縄文時代後期まで営まれた。大量の貝類採取と巨大貝塚の形成である。後藤和民は、その背景に交換経済の発達に伴う、“干し貝”製品の集中的な製造を指摘する。古来から、カキや巻き貝のむき身を海水で煮込み、水分を蒸発させてから天日に干すという手法で大量の干し貝を作ってきた。宮城県東松島市の里浜貝塚(6千~3千年前)、千葉市若葉区の加曽利貝塚(かそり;5千~3千年前)など大規模なものがある。両貝塚とも2~3mにわたって貝殻が積もり、集落消費用にしては多すぎるため、内陸部との交易品としていたのではないかと考えられている。