磨製石器の出てきた背景を考える
列島内では先土器時代 旧石器時代から、石器の発掘される遺跡からは、移動範囲が非常に広く、人々の移動が活発であったことがうかがわれるという、列島内での人々の移動範囲が広く、様々な情報を共有していたと考えられないだろうかとする。
物流が広範囲に渡るのは、それが成立する社会の存在を考えなくてならないのでは、ということになるようだ。
社会の存在、それを道具の面からみると、道具製作の専門家の存在、磨製石器の存在があげられる
野尻湖遺跡(立ヶ鼻遺跡)から2万5000年前から3万年前のもので、全国で発見されている斧形石器の約4分の1にあたる239点を出土し、刃の部分を砥石で研磨したものが多く、世界でももっとも古い可能性がある磨製石器と言われている。そのほか、この時代の遺跡としては仲町(信濃町)・日向林B(信濃町)・石子原(飯田市)遺跡が発見されている。
約4~3万年前にかけての世界最古とされる磨製石器(局部磨製石斧)が多数発見されており、すでに列島では独自の磨製石器の使用が見られるのだという。
打製石器と磨製石器ではその使用対象が違うでは無いのか、それだけ道具や生活用具の複雑化が進んだ社会が成立していたということだろう。
磨製石器のサイズが変化に富むことも
これを見ると磨製石器のサイズに応じて、加工対象とするものの材料や加工のレベルなどが違っていた、と言うことになるのでは無いだろうか
道具作りでは旧石器時代から石器の用途に応じて多種類の石材を使い分けていた。
石斧の製作地として知られる神奈川県の尾崎遺跡は西丹沢の山間部にあったが、酒匂川上流の河内川(こうちがわ)の河床から良質の凝灰岩や結晶片岩を採集して磨製石斧や打製石斧を製作していた。これらの石材の分布範囲は、河内川沿岸部の集落だけでなく、1つの土器形式圏から隣接する土器形式圏にまで及んでいたという。このような様々な工程に於いて、専門に働く人々が存在していたと想定することが必要なのでは無いか。それは食料生産を専業としない人々の存在する社会であるという。
旧石器時代から使われていた打製石斧は縄文時代に入ってからも大量に使われているが、磨製石斧が登場してからは木の伐採用ではなく主に土堀り用の鍬(くわ)などの用途に転用されたという。
鹿児島県指宿市に水迫遺跡がある、この遺跡は15000年前と思われる遺跡で、最古の集落遺跡であるという。竪穴建物跡や炉跡,石器を作った作業場や道の跡などが発見されている。
最古の生活痕跡があるので、移動生活から定住生活へと移り変わる時期の遺跡であるという。
こうして石器用の材料を選択し、運搬し、磨製石器作りの専業を可能とするような社会の存在があり、定住が始って居た様子なので、定住すれば太陽暦の基本事項 二至、冬至と夏至は直ぐに分る筈であり、年間の日数も把握していたものと思う。それは 2波状突起口縁の土器に示されていたのでは無いか。、
さらには社会を支える心の存在を示すものとして
岩戸遺跡から約2万4千年前のものとみられるこけし型の岩偶が出土したことで、旧石器時代にも何らかの信仰があったことがうかがえるという。
集落間を結ぶネットワークを構築
縄文人は、生産活動に必要とするもので無いような、ヒスイやコハクゃ、黒曜石やアスファルトなど、産出地が限定され、価値ある有用物資を遠くにまで運んでいくような遠隔地交易を行っていた。
また、加工された干し貝や干し魚、塩などは内陸部の集落にも運ばれ、物資の交換が行われた。
この他、石鏃(せきぞく)や磨製石斧(せきふ)などの石器類、貝製腕飾りや土製耳飾り、そして漆器なども交易の対象となったようだ。このような交易を行うことができた理由としては、当時すでに集落間に張り巡らされた高度な物流ネットワーク社会が存在していたためと推定されている。
そうだとすれば、そのような社会には太陽暦 今日は何日かという情報は欠かせないものだったはずと考える。
さらに集落の中心に存在する構築物、・千居遺跡(富士宮市)からは、富士信仰のためのストーンサークル、・阿久遺跡(諏訪郡原村)からも聖山 蓼科山を指向するストーンサークルが見つかっていたという。これに対して、ナブタ・プラヤ――サハラ砂漠の 牧畜民が生んだ 太古の天文学!―― などと言われていて 1、夏至の太陽を指す一本の石柱 2、正確に方位を示すカレンダーサークルが存在することが、明確に知られているようだ。
こうしたものと比較して、見えてくることは、縄文時代には構築物に、太陽暦を示す様子が殆ど見えないことであると思う、それは異常であり何故なのか、太陽暦も月の暦も社会に基本として大切なものの筈なのに、何故その片鱗も見えないで、聖山を指向するというストーンサークルを構築していたのか。 それは逆に言えば暦は既に存在しており、それによる安定した生活は出来ているからそのような聖山を祀る 祭のような精神生活の行動となるレベルにあったのでは無いのか。
そしてそのことは土器に書かれているのでは、
謎の土器
土器と暦の関係、ここに暦の秘密は全て書かれていたのでは無いか。6と8、3と4
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縄文時代前期までの経過
旧石器時代・縄文時代の年表
日本 世界 日本列島の環境
後期旧石器時代 前半前葉 38000 旧石器遺跡が本州で爆発的に増加。南方より日本列島に流入
38000 磨製石器出土(世界最古)
38000 黒曜石の採掘(高原山)
38000 神津島産黒曜石(静岡・愛鷹山遺跡)
前半後葉 33000 岩宿遺跡
後半 29000 ナイフ形石器が盛んに制作される 寒冷期
27000 落とし穴(静岡・初音ケ原遺跡)
25000 磨製石器(海外最古)オーストラリア
23000 世界最古の釣り針(サキタリ洞遺跡) マリタ遺跡(バイカル湖畔)C2a1a2
22000 最古の住居跡(はさみ山遺跡)
20000 シベリアから北方縄文人流入(細石刃を伴う) 樺太・北海道陸続き
20000 北海道・嶋木遺跡、柏台遺跡(マリタ遺跡と同じ) 最寒冷期(冬津軽海峡が全面結氷)
20000 北海道最古の遺跡(嶋木遺跡)
20000 最古の土壙墓(湯の里4遺跡)
19000 北方縄文人が津軽海峡を渡る 日本列島は草原地帯
18000 沖縄・港川遺跡 本州・四国・九州・屋久島・種子島・対馬は一つの島
18000 対馬海峡は15kmほど
縄文時代 草創期 16500 急激な温暖化により落葉広葉樹・照葉樹林が増大
16500 最古の縄文式土器・煮炊きの痕跡あり(世界最古)
大型動物絶滅・対馬暖流が流入・日本海側に魚類貝類が豊富となる。
15000 定住遺跡(指宿市水迫遺跡)
14000 長江文明(玉蟾岩遺跡)
13000 世界最古調理土器・最古の石垂(鳥浜貝塚)
12500 土偶登場(粥見井尻遺跡)
早期 12000 人口2万人 長江文明(仙人洞・吊桶環遺跡)稲の栽培開始
12000 丸ノミ石斧(鹿児島栫ノ原遺跡・世界最古)→丸木舟
10000 貝塚の形成 シュメール最古の遺跡
9500 定住遺跡(上野原遺跡)
9000 漆器の出土(北海道函館市 垣ノ島B遺跡) 黄河文明(裴李崗)始まり
9000 長江文明(彭頭山文化)水稲栽培の開始
9000 南・西アジア・アフリカ最古の土器出土
9000 インダス文明(メヘルガルI期)始まり、土器のない石器時代
8500 世界最古の石製装飾品(桑野遺跡) ヨーロッパ最古の土器
7500 籠網技術の発達(東名遺跡) シュメール農耕開始
7500 最古の丸木舟(千葉・雷下遺跡)出土 インダス文明(メヘルガルII期)土器を伴う石器時代
7400 中国最古の漆器
前期 7300 人口11万人 温暖期・縄文海進
7300 鬼界カルデラ噴火
6700 稲のプラントオパール(朝寝鼻貝塚)
6500 古代エジプト文明開始
6500 長江文明(大渓文化)灌漑農法の始まり
6000 縄文人八丈島進出
6000 最古のストーンサークル(阿久遺跡)
6000 漁労生活の開始
写真はお借りしました
引用ーーーーーー
旧石器時代から石器の用途に応じて多種類の石材を使い分けていた。石斧の製作地として知られる神奈川県の尾崎遺跡は西丹沢の山間部にあったが、現在は丹沢湖の湖底に沈んでいる。酒匂川上流の河内川(こうちがわ)の河床から良質の凝灰岩や結晶片岩を採集して磨製石斧や打製石斧を製作していた。これらの石材の分布範囲は、河内川沿岸部の集落だけでなく、1つの土器形式圏から隣接する土器形式圏にまで及んでいた。
定住生活の始まり 鹿児島県指宿市に水迫遺跡がある、この遺跡は15000年前と思われる遺跡で、最古の集落遺跡であるという。当時東日本では縄文土器が出現していたが、この地域では、まだ、土器が出現していないという。竪穴建物跡や炉跡,石器を作った作業場や道の跡などが発見されている。最古の生活痕跡があり、移動生活から定住生活へと移り変わる時期の遺跡であるという。
磨製石斧 ~木を切る~
磨製石斧ませいせきふは、斧おのです。石斧の能力を向上させるべく、砥石といしでみがき、切れ味を増したのです。磨製石斧以前の石器では、みがいた石器はありませんでした。
旧石器時代の後の方で、刃部じんぶのみをみがいた局部磨製石斧きょくぶませいせきふが登場し、縄文時代になり、全面を磨みがいた磨製石斧になりました。
関東ローム層 黒土(表土)の下にあり、火山灰などが降り積もってできた1万年以上前の赤土
相沢忠洋(あいざわただひろ) 1929年生-1989年没。独学で考古学を学び、納豆の行商などをしながら赤城山麓の遺跡を調査し、岩宿遺跡を発見した。
局部磨製石斧 主に刃の部分を磨いた石斧。旧石器時代には磨製石器は存在しないといわれていたが、日本の後期旧石器時代初頭にはこの石器が特徴的に存在する。
石器というものは「旧石器から新石器へと進歩した」と言われており、その新石器というのは、「磨製加工が施されたもの」となっています。
とすると局部であっても、とにかく磨製加工がされたものは、新石器というべきなのに、岩宿遺跡の局部磨製石器は旧石器といわれています。
これでは素人の私には何のことだかわけが解らなくなっているのですが、この考古学会の不思議な言葉使いについて誰か説明してもらえないでしょうか?
「──長野県あたりでよく出てくる、砥石ですとか、刃の先を磨いた石斧(せきふ)があるんですが、こういう磨製の技術って、新石器時代になってから世界各地に普及するんです。日本のものは、オーストラリアと並んで世界最古級なんですね。日本で発明されたのか、大陸にもともと起源があるのか、まだわからないんですけど、この遺跡で出たものを見ると、もうバリバリ研いでますからね」
日本で発見された磨製石器は、3万5千年~3万8千年前。
北海道から鹿児島(種子島)まで、日本列島ほぼ全土から発見!
この岩宿時代の遺跡数は、1000ヵ所以上。
2万年~1万5千年前の、旧石器時代の日本の遺跡数は、1792カ所。
世界で一般的に磨製石器が使用されるようになったのは、1万年前から。
?「ということは、日本は2万8千年先を行っていた!」?
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①形態
旧石器時代の磨製石斧は、縄文時代に認められるような「分銅形」「短冊形」「撥形」などのように、定型化した形態を示していない。しかし、その形態を大きく分類することは可能である。その前半期には「楕円形」が多く、後半期になると「短冊形」「撥形」に変化し、全体的に小型化していく傾向が認められる。
②製作
素材は基本的に三つ、扁平礫使用、扁平礫の表裏半割品を使用、大形自然礫から剥離された剥片使用例に分けられる。その多くは剥片より礫使用が多く、その礫周縁部を僅かに打調し、楕円形、短冊形、撥形に成形し、刃部の一部を研磨している。研磨面はそれほど大きくなく、曲刃、直刃、凸刃などがあり、自然面のカーヴを利用した例も存在している。
③法量
平均的な大きさは、長さは約八~一〇cm、幅は約四~六cm、 厚さは約二~三cm、重さは約四〇~六〇gに集中している。
④研磨
打製だけの例も若干存在するが、研磨が施され「磨製石斧」としての機能を持たせるのが目的と考えられる。研磨部分は刃部を中心にしており、「刃部磨製石斧」とも呼べるものである。刃部の研磨は片面のみの例や、表裏で研磨面積が異なる例、表面が自然面で裏面だけ磨いた例など多様である。また研磨は先端の刃部が中心で、基部の研磨は皆無である。特殊な例であるが、側縁を僅かに磨いた例が若干知られている。
研磨の方向は、刃部に対して直交するものと、表裏の方向を違えた例もある。さらに、微妙な研磨痕を持つ例も多く、使用による摩耗痕との識別も明確ではない。