縄文人は縄文早期に既に暦を持っていたものと考え無くては成らないようだ。
縄文時代早期に早くも二至二分を示す 聖なる数4 の土器がでている。
それも北海道から九州まで、
函館 福島 富山 九州 の各地 とりあえず見た範囲ですが
世田谷では 聖なる数6 太陰暦を示すものが有るようだ。中央の6突起土器
縄文早期から 太陽暦、太陰暦共に持っていたものと考えることが必要になった。
それは当然のことで、定住して太陽と月を観測すれば、不思議では無いのだが、縄文人には出来たのだ、現代人と知性は変らないと言われているから、必要があればしたのだ、そうだったのかと改めて考えさせられた。縄文人を甘く考えていた。
全ての住民が知っていたのかどうかは分らないが、先進的な人々は暦を開発していたものと考える必要がある。
現在まで見て、そこに書いてあることを信じて、そのまま掲載しているので、専門家の目で見て、その記載事項の内容が信じて良いのかどうかの検討は必要と思います。