案ずるより産むが易し…とは言うものの、まさにその通りではあったのだけれど、エレベーターを降りてから外に出る迄の僅か10mがビクビクものであった。しかしそこには不思議にも、楽しさにも似たスリルがあった。呆れてしまったのは洋子である。エレベーターからフロントへ、そして様子を伺い、下に垂らした腕の手首を腰の辺りで振って『今よ』と合図を送りながらも、素知らぬ顔をしているのだから…。
「ねっ、大丈夫だったでしょ」
「うん、本当にネ。それにしても良くやるよねぇ、アナタも」
「そうは言うけどさァ、昨日は楽しんだんだから、その分少しぐらいドキドキしたっていいんじゃない?」
「バカな事言わないで。アナタの心臓には毛が映えてるんじゃないの?」
「何よォ、失礼ねェ」
「いつもこんな事してるの?」
「冗談でしょ、初めてよ」
「本当かなァ、まっ、いいや。どうする、今日は?とりあえず喫茶店でも入ろうか?」
「うん、そうね」
不忍池を歩き始めた頃は、数分前の出来事が笑い話しのタネとしか思えなくなり、傍目には妙に滑稽に映っていたのだろうと思うと、苦笑さえ出てきた。
まだ午前十時前。しかし真夏の陽は早くも肌をベタつかせ始めている。不忍池から中央通りに出て広小路、そして母校・黒門小学校へ。私の育ったルーツとも言うべき町を案内して廻った。俗に『東京の田舎っぺ』という言葉が有るけれど、血統書付の江戸っ子とは言え、私はそれ程東京のあちこちを知っているわけではない。むしろ地方からやって来て住み着いている遊び好きの方が良く知っているだろう。私が案内出来る東京といえば、下町と東京タワーぐらいのものである。インベーダーに依って造り変えられた東京など興味も無いし、見て廻る気も起きない。元来「地元」と云う概念が強くなると、そうなるのかも知れない。そう言えば、石垣の人々の多くが目の前に浮かぶ竹富へ行った事が無い、というのに似ている。
「ふ〜ん、ここがジュンの育った町なんだ」
「そう、そしてここが小学校。この小さな門が正門でね、昔はそれなりに大きく見えたんだろうけれど、何か、今こうやって見ると、とても正門の様には見えない…。あの角を曲った所に有る方が正門らしく見える。新しそうだしね。変ったのかなぁ」
「そうねぇ、十年以上経てば変っていても不思議じゃないわね。何ってたって東京の事だから」
「そうそう、余りにも早く変り過ぎるの。小さい頃って気が付かなかったけれどサ、今じゃ半年見ないと確実に何かが変っていて、前に在った建物が無くなってて異うビルが在ったり、『あれ、こんな娘いたっけかな?』なんて感じでね」
「ああ、それ解るなぁ。東京程じゃないけど、名古屋だって同じよ。どこの町だってそうなって行くものじゃないの?」
「それはそうなんだけど、やっぱり自分の町だけは別であって欲しいな…って気持ちは無い?私が変ってるのかな?」
「変ってはいないけれど、仕方の無い事じゃないの?何しろ東京なんだから」
「『何しろ東京』…いやな響き」
「何で?気に障った?」
「いや、いいけど…。ただねぇ、他所者が増え過ぎていて、江戸っ子が追いやられる様に減っていくのが、納得いかないだけ」
「それこそ『東京』だからじゃない」
「ウン、仕方の無いのは解るんだけどもね、全く忌々しいったらありゃしない。まっ、いいサ。そんな事言ってても始まらない。そろそろ喫茶店でも入る?」
「うん」
(つづく)
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