この’76.年という時代は未だまだ現在の様に銀行のカードというものがそれ程深く根付いてはいない頃で、給料袋に現金の時代。思い出せますか? だから地方に出掛ける時には財布の中身を常に気にかけていたものでした。言い換えれば、今よりも現金(お金)の有り難さが際立っていたと思います。それで予定を立てるのも(私には)楽しみの一つでした。多くの場合費用対効果を如何にして見極めるかが大切になります。私にとってはそんな時代でもありました。
それがこの時には、最後の最期で綱渡りを楽しむ始末事になりました。
6/2(水) 残金90円也
午後七時五十分「飛龍」、様々な思い出を振り返らせながら大阪南港に接岸。そのまま大阪駅に向かった。駅構内改札口付近、互いに未だ別れたくないといった面持ちで儀礼的な別れを交わした。名古屋に向かい家路に着く洋子を見送った後、私は「みどりの窓口」へ行き自分の乗る列車を調べた。この時、手持ちのお金は5.800円。丁度夜行列車があったのでその乗車券を買った。こらが5.310円。そして夜食用にKIOSKのドーナツ(150円)を買い、更にショートピース(150円)と缶珈琲(100円)を買っておいた。合計5.710円。したがって残金90円也が今の私のポケットの中身の全てである。4月24日(土)、即ち三十九日前にこの同じ大阪に着いた時、いくら持っていたのか覚えていないが、しかしそれなりの実りは有ったと思う。洋子にお金の負担をさせる事も殆ど無く、今この時を迎えた。
深夜十一時十分、夜行列車「銀河5号」は静かに大阪を離れ、私に真夜中の地平線を探し始めさせる。今は未だ眠りの世界とは少しばかり遠くにいる。洋子の事考えてみた時、昨日の昼頃那覇のサテンドールで耳にした洋子の一言が、頭の中をぐるぐると廻り始めた。
「サテンドールで始まり、サテンドールで終るのね」
6/3(木) 我が家
午前九時四十三分、「銀河五号」東京駅着。御徒町に着いてから大塚氏の処へ顔を出し、冷珈琲をご馳走になってから帰ったので、家に着いたのは十時三十分を過ぎた頃であった。部屋に入ると徐ろに荷物を置き大きな溜め息をして、
「やれやれ、やっと帰って来たか…」
と、自分に話し掛けながらステレオのスイッチを入れた。そしてビートルを聴きながら荷物を取り出し整理を始めた。
あと三日も経つと、始めて沖縄へと向かい乗船した日から丁度一年を迎える。6月6日、あの日は私にとっても「ノルマンディー上陸」の日であったのだろうか? 一年と経たないうちに二度の渡島をしているのである。今や何が私を旅へ、沖縄へと駆り立てているのかなどと考えても意味が無い。何故なら、そこに考えられ得る答えの全てが、きっと正解となり得るであろうから。
去年九月中旬、八重山より「ここ」に戻って来る時に思った事、
『これで私の八重山が終ったわけではない。完結はしていない』
と云う事を今また繰り返すが、しかしそれはこれからも繰り返されるであろう。
『これで終ったわけではではない』と。
明日からは国立劇場(小劇場)の初日、数日間の公演が始まる。
その後はスタジオワークとドサの繰り返しと云う日常に埋没する日々が暮れ迄続いた1976年であった。
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