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(小説)  芸は身を助くことの実録

2023-10-17 11:21:44 | 日記

(小説)  芸は身を助くことの実録

 昭和の終わりかけの頃まだバブルというコトバは聞こえなかったがバブルのごく初期の頃のことである。当時わたしは、大学の工学部の四年生で本当は文科系の学部に学士入学してあと2年間のんびりしたかったが、両親に猛反対されて仕事につかねばいけないことになった。そんなころ友人に誘われて私を含んで五人である大きな会社の研究所の見学に気が乗らないまま出かけたことがある。

 ニコニコ顔の人事のヒトに、隅々まで案内された。そのヒトはある大きな機械の前で自慢げに

「ICの設計はこのように自動化されています、これによって古いICが新しいICをこのように設計していることになります。」

と言った。そのあと応接室に戻ってから三人くらいの背の高い同じようなやや地味なスカート丈の長い服を着、同じようにやや地味に化粧した綺麗な女のヒトが運んできた渋茶をすすりながら

「弊社は、皆さんの様なICの優秀な設計技術者を必要としています。」

と言い出した。機械が設計しているんだから設計技師はいらないんじゃないかと茶々を入れたくなったが、場の雰囲気を察してその時はいらざることはかろうじて喋らなかった。さっきの綺麗な三人の女のヒトのうちの一人はわたしたちが見学中に廊下ですれ違った時に恥ずかし気な眼で私どもをちらと見たヒトである。

お話変わって私は大学の勉強が嫌で碌に勉強しないで他にすることもないので映画ばっかり見に行っていた。そのせいで俳優の特に女優の演技する眼が上手か下手かの判断はできるつもりである。それが掃除洗濯はもちろん勉強もできない車の運転さえできない私の唯一の芸であった。その私の目から見てこのきれいな女性の恥ずかし気な流し目は最も下手くそな演技の眼である。

 学校に戻ってから皆にあの三人の女性は我々を誘惑して入社させようとする企みに臨時に雇われたものである。企みに乗ってはいけない。と説いたが私の説は皆に黙殺された。あのニコニコ顔のヒトは、わたしには一遍も勧誘の電話を掛けなかったが五人の中の一人を熱心に勧誘しとうとう彼はその会社に入社することになった。後で聞くと確かに三人の女性はいなかったようで、研究所には所長付きのもう五十歳は越えたであろう黒い服を着た仕事の速い秘書以外に女性はいないとのことである。

 彼がこの会社のあざとい作戦に乗せられ三人の女性にたぶらかされて入社したとは断言できない。多分関係なかったであろう。しかしこの会社はこんなことまでしてヒトを獲ろうとする会社である。

 

 五十を二つ三つ越えたころ、彼と会う機会があった。彼の熱心に喋る専門の話は何も分からなかったが、毎日上司に詰められるのが大変であるとの話は元気のない彼の顔から多分事実であっただろう。当時パワハラというコトバはなかったが詰められるとは今の言葉ではパワハラであろう。彼とはその後も年賀状のやり取りはしていたが、わたしが五十五になった年に、奥様から彼が亡くなったとのはがきを頂いた。十一月の末か十二月のはじめだかの木枯らしの風の吹くもう暗くなったころにわたしはそのはがきを読んだ。



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