(小説) 安井幸太郎の病気
安井は、小さいころから周りの誰とも感性が合わなかった。しかし特に気にすることはなくニュートンもミケランジェロも自分と同じような感性だろうとむしろ誇りに思っていた。しかし、就職してからはそうも言ってられないことがだんだんわかってきた。感性が違うからとして仕事の割り振りに手加減があるわけがなかったからである。それでも何とか仕事をこなしたが、勤めだしてから半年ほどしたある日の夜遅くのこと、安井は突然胸がつかえて居ても立ってもいられない焦燥感不安感に襲われた。
医者の門はもう閉じられているであろうし、医者に行くと睡眠薬を処方されそうでそれが嫌さに安井は下宿を出て駅とは反対側のさびれた街に向かった。いつぞや通りかかったときに古びた小さい粗末な家に大きな看板があって大きな墨書で「万病祈祷退散」と書いてあるのを覚えていたからである。その家の前に立つとさすがに入るのをやめておこうかと躊躇したが、思いなおして医者へ行くよりはよかろうと看板に近づいた。この前は気づかなかったが、看板の左側にはごくごく小さな字で「陰陽師安倍晴明第四十二代目」と書いてある。安倍晴明は京の都では巨大な存在であったらしいが、その子孫はこんな田舎町のこんな粗末な家に住まわざるを得ないのかと甚だ気の毒にも思い、また果たして本当にこの祈禱は効くのかと疑わしくも思った。本当に効くなら多くのヒトが押し寄せるからもっと立派な家になるはずである。
勇を鼓して玄関の扉をひらくと、三十を少し出た夫人が割烹着のまま出てきて久しぶりの来客に喜びの色を隠せない表情で安井を迎え上がるように促した。玄関の隣の部屋に案内されるとそこは六畳ぐらいの板敷きの間で、ジャージを着た風采の上がらない中年の小柄な男が座ったまま安井を迎いれた。ますます怪しいので帰りたかったが、壁に立てかけられた二本の刺股を見て足がすくんだ。今さっきの夫人と二人であれを使って取り押さえられて台所から包丁を持ってこられるのではないかと恐れたのである。財布には二万数千円を入れてきた、身ぐるみ持って行かれることを覚悟して、来意を告げるとそこへ座れと祭壇を背にして座らされ安井の両肩の上のあたりを眺めるしぐさをした。ずいぶん長い間眺めた挙句
「あんたにはタヌキがついている。普通のひとはキツネであるがタヌキは珍しい。出世を目指す人はキツネがつくものだ。おカネの欲しい人はタヌキがつくもんじゃ。今追い出してやるからそこに座ったままにしなさい。」
安井は出世は考えたこともなかったが、おカネならいくらあっても邪魔にならないと考えていた。見抜かれたから案外これはいけるのかもと考えを改めておとなしく座っていると、どこかから重そうな木刀を持ち出してきて安井の肩の上あたりで気合を入れて振り回すのである。危なくて仕方ない。
つくづくあほらしいとこへ来てしまったという後悔の念とあるいは効果あるかという期待とがないまぜになった何とも言えない気分であった。感心なことに男はあれだけ振り回しても息が乱れない。少しは信用できるかもしれない。
「八割がた退治したがまだ残っている。残っているのはお主のご先祖からついているやつらであるからちょっと難しいぞ。また調子が悪くなったらいつでも来なさい。」
二度と来たくないと思いながら謝礼を尋ねると、一万円であった。一万円を受け取るときに男は大げさな印を結びながら安井にごく小さな声でこうつぶやいた。
「医者へ行くことがあっても、構えて新興宗教には近づくな。行けば身の破滅ぞ。」
遺憾ながら安井の焦燥感は治らなかった。なんどもぶり返してくるのである。しかし別に男の教えを守ったわけでもないが新宗教に近づくことはなかった。最近は、あの時の自分と同じ心境に立っているものが新宗教と親和性があるんだなと理解できるようになった。自分のように仕事にうまく適応できない人間にはあの男のアドバイスはあるいはいいものであったのかもしれない。
三十年の歳月を経て安井は昔懐かしい家を探そうとしたことがあるが、街の様子が変わってしまい探すことができなくなっていた。安倍晴明第四十二代の行方は杳として知れなかった。
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