もう東大話法にはだまされない(安富歩著 講談社+α新書2012年)を読む③関所資本主義
著書にはもう一つ大事な言葉があって、「関所資本主義」というらしい。おカネの通り道に待ち受けていてそこを通るおカネに課税する関守の様な仕事を、東大話法をする人はしているという。その仕事は価値を生み出すのではなく単に関所の整備であるという。銀行の融資担当の仕事が一番わかりやすいが、ありとあらゆるところにこれがあるという。車の製造であるなら、部品を集めてきてそれを製造ラインに流すところに隘路を作っておき流れをコントロールすることで利益を出すらしい。
融資も部品を集める仕事もそれをコントロールすることで会社の利益を大きくするんだから関守が儲かって何が悪いと思うんだけど、著者はいけないという。関守は「東大話法」を使うからだという。なるほど、融資担当に限らないが銀行の奥の仕事をしている人は、木で鼻をくくったような感じの人が多い。ミハエル=エンデの「もも」に出てくる時間泥棒のイメージにピッタリである。同じ概念をエンデは時間泥棒と言いこの本の著者安富は関守と言っているのだと思う。
私はごくまれにしかこの時間泥棒または関守と接触しないから、何も気にならないが著者はもと銀行員であるのでここに敏感であるようだ。そしていちばんいけないことは、この関守業に携わる人は自分のついた嘘を本当と自分が信じ込んでしまうために自らの心を損ない心の病を引き起こすことにあるという。自家中毒である。
それでわかった。この関守または時間泥棒の給料がむやみに高いのは、自家中毒する危険手当込みの値段だからであろう。よくできた給与体系である。さらにちかごろはあまり見かけないが、テレビに出て頭を深々と下げる仕事もやる危険がある。頭を下げついでにまた「東大話法」であれこれ言い訳するもんだからテレビを見る人は渋茶をすすりながら「この人ぜんぜん反省してへんのんとちゃう?」とかいわれてお茶菓子の代わりにされてしまう。
その程度なら別に他人のことであるからどうでもいいやんかと私は思うが著者はそうではないと言う。そういう自家中毒の生き方をするひとがいると、それが正常な人に移るというのである。何となくそんな雰囲気が社会に蔓延するという意味であろう。それなら私も関係があるから心配である。予防策やもし移ってしまった時の対策も教えてほしかったがそれはこの本にはない。それに何となく蔓延しているというのは感じないわけではない。
ここで思いついた。廃仏毀釈前のお坊さんのことである。お寺の打ちこわしがすごいものであったと私はおじーさんから聞かされたことがある。そのおじーさんだってせいぜいが明治の末くらいの生まれのはずだから自分が現場を見たわけではないだろうによくそんなこと言うよなと聞いていた。しかし多分当時の人々がお坊さんを嫌いぬいていたということは事実だろう。当時のお坊さんのことだから、庶民に対してありもしないようなことを喋って寄付を強要するような行いがあったのかもしれない。庶民は嫌いぬいていたので廃仏毀釈の号令がかかると絶好の機会と打ちこわしに動いたのではないか。明治維新は市民革命でなかったとされるが、この打ちこわしは市民革命ではなかったか。もっとも明治新政府がガス抜きのために自分以外のものが敵になるようにあえて作ってさしあげたということも考えられる。現在東大話法を使っている人々が、このようなガス抜きの対象にならねばいいがと他人事ながら心配する。
著者の安富さんは東大教授である。よくまあご無事でいられるもんだと思う。普通だったらイジメて放り出されるところであるのにまだお続けであるという。ここに日本の将来に一縷の光の差すのを感じる。
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