昭和が戦後であったころ⑤
我慢大会
昭和30年代前半の頃、私の子供部屋からは2軒隣のお家の大きな柿の木がよく見えた。秋になるとそのカキの実をもいで、ご近所におすそ分けがあった。その柿の木に大量のミンミンゼミが取りついて喧しかった夏真っ最盛りの頃のことです。喧しい柿の木のそばにある離れの雨戸が昼間に完全閉められていました。
その家の奥さんが私の家の玄関にやってきて大きな声で愚痴を言ってました。
「納屋にいれといた炭団、この梅雨で湿ってしもて火つかへんやんか。もうほんまどないしょう思てな。」
炭団に火が付きにくかったことをぼやいているのです。話を総合すると、ご主人が知り合いを集めて昼間から離れで褞袍(どてら)を着こんで熱い鳥鍋を食べて熱燗を飲むのだそうです。そうして寒い寒いと言い合いをして、一言でも「暑い」と言えばそこでそのゲームは終わりになり、言った人が鳥鍋代とお酒の代金を払うのだそうです。
ご主人は何の仕事をしているかわからない50歳を少し超えた布袋様のような飄々とした面白い印象の人でした。もう少し歳とれば楽隠居の御老人という感じの人でした。当時、これを「我慢大会」と呼ぶことはだれも教えてくれませんでしたので、このゲームの名称を知ったのは中学生になってからです。わたしより10歳くらい年上ですから一緒に遊んだことはないのですがその家には息子さんもいたのです。テレビもゴルフもありません。地方都市ですから、銀座へ家族と御飯を食べに行くということもありません。麻雀や囲碁将棋はあって、それは流行っていたようですが、それをやらない人はこんなことをやっていたのです。
手間かかるし体力消耗するし、なにより他の大人から見て評価されないつまらない遊びだと思っていたが、その後読んだ西洋の本に「遊びは仕事を模倣するものが一番面白い。」と書いてあるのを見て感じるところがあった。たしかに魚釣りもハンティングもガーデニングも仕事を模倣している。囲碁将棋も自分が将軍になったつもりでいるなら戦争という仕事を模倣しているといえる。ならば我慢大会は日本の会社なり役所の仕事を模倣した遊びと言えないことはない。
「売り上げ目標達成」とか、今はあんまり言われなくなったが「社員の和が大事」とかが、「ああ寒い寒い。」になるのです。「もう辞めたい。」が「暑い」になるのです。本音を言うと負けという社会の構造は昭和30年代前半にはもう確立されていたようです。想像するにもっともっと前からあったと思います。ただ、西洋にはないのではないか。(この西洋の人は間違えていたら恥ずかしいのですがロジェ=カイヨワだと思うんですが)カイヨワさんにはこの我慢大会が遊びになることは理解できないのではないかと思うのです。
今でも思い出すたびに笑いのこみあげてくる記憶です。