本の感想

本の感想など

昭和が戦後であったころ⑤

2022-09-26 22:21:19 | 日記

昭和が戦後であったころ⑤

我慢大会

 昭和30年代前半の頃、私の子供部屋からは2軒隣のお家の大きな柿の木がよく見えた。秋になるとそのカキの実をもいで、ご近所におすそ分けがあった。その柿の木に大量のミンミンゼミが取りついて喧しかった夏真っ最盛りの頃のことです。喧しい柿の木のそばにある離れの雨戸が昼間に完全閉められていました。

 その家の奥さんが私の家の玄関にやってきて大きな声で愚痴を言ってました。

「納屋にいれといた炭団、この梅雨で湿ってしもて火つかへんやんか。もうほんまどないしょう思てな。」

炭団に火が付きにくかったことをぼやいているのです。話を総合すると、ご主人が知り合いを集めて昼間から離れで褞袍(どてら)を着こんで熱い鳥鍋を食べて熱燗を飲むのだそうです。そうして寒い寒いと言い合いをして、一言でも「暑い」と言えばそこでそのゲームは終わりになり、言った人が鳥鍋代とお酒の代金を払うのだそうです。

 ご主人は何の仕事をしているかわからない50歳を少し超えた布袋様のような飄々とした面白い印象の人でした。もう少し歳とれば楽隠居の御老人という感じの人でした。当時、これを「我慢大会」と呼ぶことはだれも教えてくれませんでしたので、このゲームの名称を知ったのは中学生になってからです。わたしより10歳くらい年上ですから一緒に遊んだことはないのですがその家には息子さんもいたのです。テレビもゴルフもありません。地方都市ですから、銀座へ家族と御飯を食べに行くということもありません。麻雀や囲碁将棋はあって、それは流行っていたようですが、それをやらない人はこんなことをやっていたのです。

 手間かかるし体力消耗するし、なにより他の大人から見て評価されないつまらない遊びだと思っていたが、その後読んだ西洋の本に「遊びは仕事を模倣するものが一番面白い。」と書いてあるのを見て感じるところがあった。たしかに魚釣りもハンティングもガーデニングも仕事を模倣している。囲碁将棋も自分が将軍になったつもりでいるなら戦争という仕事を模倣しているといえる。ならば我慢大会は日本の会社なり役所の仕事を模倣した遊びと言えないことはない。

 「売り上げ目標達成」とか、今はあんまり言われなくなったが「社員の和が大事」とかが、「ああ寒い寒い。」になるのです。「もう辞めたい。」が「暑い」になるのです。本音を言うと負けという社会の構造は昭和30年代前半にはもう確立されていたようです。想像するにもっともっと前からあったと思います。ただ、西洋にはないのではないか。(この西洋の人は間違えていたら恥ずかしいのですがロジェ=カイヨワだと思うんですが)カイヨワさんにはこの我慢大会が遊びになることは理解できないのではないかと思うのです。

 今でも思い出すたびに笑いのこみあげてくる記憶です。


昭和が戦後であったころ④

2022-09-26 12:56:16 | 日記

昭和が戦後であったころ④

学校給食

 今はどうだか知らないが、給食はもうこれ以上まずく作れないほどまずいものだった。悪名高いスキムミルク以外も滅茶苦茶まずかった。しかし不思議に児童から怨嗟の声をあげなかった。給食の時間が終わって片づけが始まっても食べきれずに、教室の後ろで立ったまま食べることを強要される児童が多い時は10人くらいいたのではないか。毎日数人は居た。事実上のストライキで、5時間目が始まるころに「もう捨てていい。」と言ってもらうまで立ったまま食べているふりをするのである。よく、お能で演者がこういうしぐさをすれば、こういう状態を表すという説明がなされるが、あれである。食べているふりをするということは、これがまずくて食べられないということを表しているのである。ただし、言語でそれは絶対語られない。

また食べ残したパンは丁寧にわら半紙に包んで持って帰ることになっていたし、休むと家が近い児童にこれまたわら半紙に包んで家まで届けてもらう。届ける家によっては、お礼にお菓子とか果物をくれる家がある。これがめちゃくちゃおいしい家がある。そこで、我が家の近くでおいしいものをくれる家の子が休むと、もう朝早くから今日は何が貰えるかとそわそわしてしまう。時々は、あいつ休まないかなと思うことがある。

給食当番になると、普段好かないクラスメートにはそれとなく多めに盛り付け好きな子には、自分のと同じように少し少なめに盛り付ける。ただし、これがあまりに行きすぎると問題になるから、どこまでが許されるギリギリかを常に考えねばいけない。なかなか社会で生存する技術を教えるには格好の教材である。

私の父親は、小学校の時の担任と知り合いであったらしく担任は奥さんとともに我が家に来ることがあった。奥さんは何度か給食を食べたことがあるらしく、口を極めてそのまずさを語る。その口ぶりはほとんど罵倒せんばかりの勢いであった。さすがに担任は何も言わなかった。私は、大人になったら本当のことを喋ってもいいんやと思って聞いていた。

 思うに、これは当時の文部省の陰謀である。どんなに嫌な仕事であっても、文句を言わずに最後まで少なくてもやっているふりをする。そういう人材を育てようとしていたのである。そのために、給食はまずく作れという秘密指令を出していたのではないか。

ついでに授業は、面白く楽しくしてはならない役立つ授業もいけないという指令もあったと想像される。これが高度経済成長を支えたのは間違いない。しかし、そうやって育てた人材はさあ独立起業せよと言ってもそれは無理である。当時の文部省にはそこまで変化するということを見抜く力がなかった。

旧ソ連が崩壊するとき、ソ連のレストランは不味いという報道があった。お役人が調理すると絶対まずくなるということは骨身にしみているから、この報道は実感として理解できる。このようにお役人がサービス実務をすると碌なことが無いとわかっているから、私はその後起こった国鉄民営化も電電公社民営化もみな大賛成である。すべてはあの時の味が原因である。食い物の恨みは恐ろしい。


昭和が戦後であったころ③

2022-09-26 12:26:10 | 日記

昭和が戦後であったころ③

牛にひかせた荷車で

昭和30年代の初め、市街地にあると言っても我が家はホンの一キロもあるけば農村になるところであった。時々お百姓さんが下肥を買いに回ってきた。汲み取り終わるとかぶっていた手拭いをとって、丁寧にお辞儀をして丸々と太った真っ白な大根を数本荒縄でくくったのをお礼に置いて行った。江戸時代以前の暮らしが残っていた。母親はそれをすぐに、桶に仕込んで漬物にした。多分数日でだと思うが、朝の食卓に供せられた大根の漬物をみて妙な気分になったのでよく覚えている。

 お百姓さんは、汲み取った桶を牛にひかせた荷車に積んでまた隣の家に向かった。牛はごく小ぶりなものでおとなしかった。待っている間牛は誰かが世話していたはずだが、それは覚えていない。お百姓さんは2人で来ていたのではないかと今になって想像する。その時たまたま何かの用で家に戻ってきていた父親が、「あれは馬ではあかんのや、馬やったら勢いよく動くので、下肥がはねてあっちこっちにこぼすやろ。」と教えてくれた.

 それからすぐに、下肥は寄生虫のことで禁止になり市の職員が汲み取って車に積んでどこかへ持って行くようになった。この時正規の料金の他にずいぶんの心付を払わないと、市の職員は汲み取ったものをそこら中に跳ね飛ばすということだった。心付は、町内で一括して渡していたようで、毎月近所の世話役のおばさんが集金に回っていた。支払ったあと母親はその金額が大きかったのでと想像するがずいぶん落ち込んで長い間機嫌が悪かった。そこからバキュームカーになり水洗になるまで須臾の時間であった。給料の他に心付が貰えるとはいい仕事だと思ったのでこれもよく覚えている。

 高校生の時に、源氏物語を教える古文の教師が貴族は牛車というものに乗った。乗り降りはこうするのである、牛を引く子童はこんな格好である。これで京の都の何とか通りをゆっくり行く風景は素晴らしいと思いませんかと嬉しそうにしゃべった。私は、その時牛車に載せて蓋をされたそうして蓋と桶の間の隙間に藁を挟み込んである肥え桶を連想して、昔の貴族は肥え桶を運ぶくるまと同じようなものに乗っていたのか、貴族というのもたいしたことないなと思った。何が素晴らしいのかさっぱりわからなかった。

肥え桶は2列だったと思う。牛車の中はずいぶん狭いはずである。

 


昭和が戦後であったころ②

2022-09-25 20:29:57 | 日記

昭和が戦後であったころ②

香具師

 神社の縁日には、香具師が傷薬を売っていた。普通の家には富山の薬売りが廻っていて置き薬を置いてあるから、香具師の売る傷薬は売れないと思うが、娯楽のない時代であるから黒山の人だかりだった。袴をはいてひげを生やしたおじさんが、刀で自分の指をちょっと傷つけてから持参の軟膏を擦りこんで、ほーれもう治ったじゃろうというショーを見せる。そんなにすぐ治るのはおかしいと思ってみていると、隣にいた母親があれは手品で本当は傷つけてないんやと私に対してささやく。私は手品の意味が分からないので黙っていたが、なんとなく芝居であることはわかった。

 このおじさんのよくとおる声とか、間合いの取り方とかはよく覚えているが今のテレビの芸人さんと同じくらいうまかった。もっとうまかったかもしれない。口上が終わって治った傷をお客一同に見せたあと「さあ欲しい人。」というと2人ほどが「買った。買った。」と勢い良く手をあげる。ここで母親が「あれはさくらと言って、この団の人なのよ。ああすればお客の中に買う人が出てくるから。」と教えてくれた。

 おじさんの熱演にも関わらず、この2人以外に買った人はいなかった。従って私が見たイベントは、おじさんは無報酬ということになる。気の毒にやり損であった。私はあのさくらの人が、あとであの商品を返して、おじさんがお金を返すところまで見たかったがそれは無かった。母親はこう説明した。「あの一座はこうやって旅を続けて行くんだよ。旅芸人と一緒だがこうすると芝居小屋に金払わんでも済むやろ。」この意味は、もっと大きくなってからしかわからなかった。たださくらの人は、気合の入った声で「買った。買った。」と言うだけで一日の仕事が終わるようだからなかなか楽でいいな、ひげのおじさんと同じ給料なら断然さくらの方をやりたいなと思ったのでこれはよく覚えている。

 香具師を見たのは一度きりであった。子供相手の紙芝居屋と同様テレビができて一挙に消えた仕事である。紙芝居屋の方は、見に行くことを厳しく禁じられていたので話には聞いていたが見たことは一度もない。テレビも黒電話も家に無かったが人々は、娯楽を求めていたしこうして十分かどうかわからないまでも娯楽が提供されていた。(しかもこの場合は無料になっている。)決して仕事ばっかりしていたのではない。暗い時代でもない。それなりに楽しかったのではないかと想像される。

 


昭和が戦後であったころ  松茸 クジラ 卵

2022-09-25 10:04:25 | 日記

昭和が戦後であったころ  松茸 クジラ 卵

昭和30年40年の日本の地方都市の生活がどんなものであったかを是非書き残しておきたい。記憶だから間違いがあるかもしれないが、よくありがちな話を盛るということのないようにしながら書きたい。

 

 あるとき母親が七輪に火を起こして金網に割いた松茸を置いてパタパタあおいでいた。通りがかった私が「まったけ、カスカスでおいしないわシイタケ食べたい。あっちのほうが肉厚でおいしい。」と言ってしまった。母親は「かせぎもないのに食いもんに文句言うな。」と怖い顔していった。私はかせぎという言葉を知らなかったので、辞書で引いてこの言葉の意味を調べた。「稼ぎ」と書くらしい。しかしカセギのある私の父親がよく似たことを言っても同じようなことを言い返されていたような記憶がある。松茸は、当時ありきたりの安価な食材だった。同じように数の子も安価で、魚屋の店先にバケツに入れて積まれていた記憶がある。ただしこちらは我が家ではあんまり食べなかった。

 肉はほとんど食卓に上らなかった。鳥も極めて少なかった。ほとんどは魚であった。一番はクジラ肉で、大抵はてんぷらにするか何かの野菜と炊き合わせてあって、独特の臭みがあったがまずいとかは思わなかった。クジラベーコンもよく食べたし、コロと呼んでいたがクジラの尾のみは大変おいしかった。学校給食ではクジラ肉はもうこれ以上は薄くできないというほど薄く切って、思い切り分厚い衣をつけてあげたフライが供せられた。クジラ肉は当時安価であることは皆に知れ渡っていたので、なぜここまで薄く切る必要があるのか子供心に不思議であった。いつの間にかクジラは姿を消した。

 魚は、さんまやアジがほとんどであったが、節分の日には必ずイワシであった。これは小骨が食べにくいので小さい子供には苦手であった。あとで必ずその頭をヒイラギの葉を添えて棒に突き刺して家の前に小さい旗のように飾った。イワシを食べに来た悪い奴がヒイラギのとげのところが喉に当たって痛くて逃げていくという説明を母親から受けた。(このようなまじないを信じていたわけではないが習慣としてどこの家もやっていた。)イワシの頭は食べるところがあんまりないようだし第一おいしくなさそうであんなもん好物とは変な奴だなと思ったのと、一回痛い思いをすれば二度とイワシがどんなに好物でも飛びつかないはずなのに、その悪い奴というのは間抜けな奴だなと思ったのでよく覚えている。

 卵は、一個が20円くらいして極めて高価であった。玉子屋さんといって、街の中で玉子だけを扱う小さいお店があってたっぷりのもみ殻にくるまれて大事そうにおかれていた。玉子は特別のご馳走であった。当時は割ってみると血液が入っていたり、黄身が二個入っていたりするものもあった。しかし、味は濃厚で色が本当の黄色であった。昭和の終わりごろ中国を旅行して、全く同じ色の黄身で同じ味がして懐かしかった。玉子は物価の優等生というのは嘘である。昔と今は同じ形でも同じものではない。昔のものはなくなって、同じ値段同じ形で違うものが売られているだけである。

 夏には、田舎の本家に預けられた。そこではたまに鶏をつぶして鳥鍋をごちそうしてくれた。これも今とは全く違うもので実に濃厚な味である。同じ味の鳥は同じく昭和の終わりの中国で出会ったのが最後である。思うに、文明が進むに従って鶏に関係するものはみなまずくなる。