本の感想

本の感想など

小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑳

2022-09-24 14:21:37 | 日記

小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑳

 ご主人の長いお話もやっと終わりました。店にはご主人の言った通り中国の観光客で満員になりました。徐福は日本に小王国をつくるのみならず、地獄の鬼や閻魔さんも放逐し、生まれ変わって日本にほぼ独立した王国をつくり、さらには日本風極楽を作ってくださった。おシャカさんのもとで極楽生活というのは、言葉が果たして通じるのかとか極楽内権力争いは風習が違うので日本人には難しいのではないかとか、まさかと思うけどすべての料理がカレー味になってないかとかいろいろ心配がありました。しかし、お大師さんのもとにある和風極楽なら今の生活の延長でやっていけます。

 それでもなお心配があります。お大師さんは日に二回御飯が提供されていますが、そのもとに赴いた我々には出るんでしょうか。本場の極楽は想起しただけでご馳走が出ると聞いています。それではお釈迦さんも含めてみんな空腹に悩むことは無いと思いますが、わが和風極楽ではお大師さんだけが食べてそのもとに集う我々はお彼岸にお供えしてもらうわずかな食物だけということになってしまいます。

 

 冗談はさておき、私どもはお大師さんばかり尊敬していあんなふうになりたいと思ってお守りを持ったりお祈りをしたりしていますが、その前身である徐福はホンの一行しか書かれていません。それは気の毒です。もっとその壮大な人生を小説なり映画なり今ならコミックにして語り継ぐべきだと思います。逼塞した状況からどうやって盛り返して生きていくかを語る物語として徐福は必要だろうと思うのです。

 わらしべ長者も三年寝たろうも、同じような意図で人々に愛された物語でしょう。そのうちの一つとして徐福は必要な物語だと思うのです。


小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑲

2022-09-23 12:27:57 | 日記

小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑲

 ここでお大師さんは一段と声を大きくして嘆かわしそうな顔をなさいました。さては、現代社会への警告をなさるのか、これは心して聞かねばいけないとおもわず身構えました。この警告を聞いて準備すれば私だけが助かるかもしれないと浅はかにも考えたからです。しかしそんなことではなく、ご自分の思いの吐露だったのです。そんなことなら関係者の夢枕にでも立ってくれたらいいのですが。私は、関係者ではありませんから聞きたくもない話ですが折角ですから記録しておきます。

 

 「三教指帰は私の出家宣言書であるが、同時に人類にとって大事な終末観が書かれている。もちろん西洋のとは少し異なる。この終末観から今の自分たちの行動を決定するからとても大事なものである。」とおっしゃる。

 びっくりしてしまいました。終末観をある人々がお持ちなのは存じていました。しかしそれは杞憂であるに違いないと思っていました。きっと晩御飯のおかずを何にするのが一番安上がりでかつ次の日元気になるかについての複雑な考察をする必要のない暇人のする知的遊戯であると思っていました。

 「私の願いは、この滅んでいく世界の中の衆生を救済することである。世界終末に際しては、この私の衆生を救済したいという願いすらも劫火に焼かれて燃え尽きてしまうものである。」

 なるほど、そんな先のことまで考えてるのなら人々を導くお大師さんの名前を頂いた理由もよくわかります。しかし、本当にそうなるんなら私はこんなところで350円の徐福饅頭を食べてる場合じゃない。奮発して1200円出してホテルのケーキセットを食べておかないと思いが残るではないのか。

「この私の終末観こそが、無常観と呼ばれるにふさわしいものだ。であるのに、鴨長明君の方丈記を無常観を表現した名文だという人がいるのは実にけしからん。彼はゴリゴリの出世主義者である。それがうまくいかなかったので、腹いせに出世しても空しいだけだという文章を書いただけだ。自分で自分を慰めているだけだ。あんなものを無常観にしてもらいたくない。」

 なるほど、イソップの酸っぱい葡萄のお話ですな。これは納得できます。しかしよく似た話は西洋東洋にあるものですね。

「小林一茶君の俳句だってほのぼのとした日本情緒とか言ってるけど、彼も遺産相続で負けた恨みをあそこに逃がしているだけだ。」

 まあそうかもしれないけど、無常観とは関係がなさそうな気がしますが。

「吉田兼好君は旧姓を卜部と言って占いをする御家の人だ。占いの際にはまず相手の人間観察をしないといけないが、そのメモ帳が徒然草だ。平家物語はこの前言ったけど頼朝君の作ったコマーシャルソングだ。源氏物語は大衆週刊誌の続き物の記事だ。」

 ますます無常観とは離れていきます。ここではたと気づきました。お大師さんは、ご自分の三教指帰が教科書に載っていないのが腹立たしいのではありますまいか。徳は名に蕩(とう)す(荘子)と言います。徳のある人と言っても、名誉欲名聞欲のがあって徳がある人という評価を受けたい欲からは逃れられないようです。どうもお大師さんにもここはあるのではないかというのが感想でした。


小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑯

2022-09-21 21:02:00 | 日記

小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑯

 お大師さんの話はまだまだ続きます。お大師さんは話すのが好きで結構饒舌な人のようです。

 

ここで何としても三教指帰のお話をさせてもらいたい。

孔子君は、私の前世である徐福よりも先輩であるが貧困の中から出世する方法を編み出したんだが、さっぱりうまくいかなかった。であるのに自分の方法は絶対うまくいくはずであるとして弟子を大勢集めて塾を始めた。人柄がよかったのとカリスマ性があったので、塾は繁盛したようだ。弟子の中に筆まめなのがいて孔子君の言葉を書き残したのがいてこれが聖典になった。なかなかの名文であることが良かったんだ。しかし、これは今でもたまに見かけるが「私の言うとおりにすれば、絶対もうかります。」という教材売りと同じ手口じゃないのか。「そんなことしてないで、あんた自分で儲けたらどうなんだ。そっちの方が早いぞ。」と言いたくなるあれと同じだな。

 この教団は、秦の始皇帝の時代にはひどい目にあったらしいが、漢の第7代武帝の時に転機があって官僚の守るべき倫理として採用されて以後大発展した。そりゃ武帝にしてみれば官僚がこの教えを守って仕事してくれたら皇帝のやるべき監督の仕事が楽になるもんな。しかしこれは、あくまでも官僚だけの守るべき倫理であって、皇帝個人と庶民は関係ない。それが、私が奈良の都で勉強始めた時には日本にも輸入され、国が発展するにはこういう倫理でないといけないとされていたんだ。これは出世したい個人の虎の巻であって、国を運営する倫理にはならない。

 そもそも孔子君も本当に出世したのなら、そんな虎の巻なんか残してないでさらに出世しようと汗をかくはずだ。権力欲は物質欲と並んでもうこのくらいでいいじゃないですかということのない欲望だからな。うまくいかなかったから経典になって残った。

 老子君も同時代の人だが、かれはもともと軍隊を動かすような仕事をしていたようだが何もかも嫌になって仙人になろうとしたがうまくいかなかった。しかしいまわのきわに、自分は結局うまくいかんかったのだがここまでは到達しましたよという記念文を書いたんだ。それが今に伝わっている老子道徳教なんだ。本当に悟った人は文章なんか残さないもんだ。

 例えば「知るものは言わず。言うものは知らず。」とか「知りて知らずとするは上なり。知らずして知れりとするは病(へい)なり。」という警句があるだろう。一見確かに周りの人を見ているとなるほどそうだと思うことは多い。しかし、老子ご自身はこの警句を言っているんだから言うものになる。だから知らない人ということになるし、自分は知ってるとしてこのように喋ってるんだから老子ご自身は病(へい)ではないのか。どうも生悟りみたいなところがある。

 もっとも、わが仏の教えを漢訳するとき適切な言葉が見つからなかったときに、道教から拝借したのでその点では感謝している。

 その点、お釈迦さんは瞑想して自分の無意識の中を見て回ったんだ。無意識の中にはありとあらゆるものが詰まっている。それは、言葉ではなかなか伝えられないものでまあその匂いというか例えというか、さらには修行の方法というかありとあらゆるものを書き残したのが経典なんで、説明するのも難しいものなんだ。これを勉強すると、個人の生き方の参考にもなるし人民の倫理はどうあるべきかを決める参考にもなる。

 こんなわけで、仏典を勉強して国を治めた人は一杯いる。聖徳太子や家康君の政治顧問天海和尚なんかがそうだ。それから、フロイト氏は異教の人であるから私はお目にかかってないが彼は無意識を再発見したというべきで、遺憾ながらこの点ではお釈迦さんが先だと思う。

 ただ、お釈迦さんもうまくいかなかったから経典を遺したんじゃないかとの疑念は残る。現にお釈迦さんをトップとするシャカ族はその後滅んでしまったというではないか。おかげで、モノを作るときに失敗して作りかけのものがダメになることを「おシャカになる」との言葉ができてしまった。そんなこと気にしだしたらキリがないからもうやめておこうと思ってる。

 三教指帰を書きながらつくづく思ったことだが、人はどうしても自分の境遇からものを考える。孔子君も、老子君もそうだ。個人がそう考えてそれを日記に執拗に書くのはもちろん自由だし、それを見た個人がそれにイタク感激して自分の考えに取り入れるのも自由だが、国家運営に係る人が感激してはいけない。

 参考になる話にこんなのがある。家康君の息子に秀忠君というのがいて第二代将軍であった。私のもとに来ているが今でもちょっと影が薄い。かれの嫁さんがきつい人で大変御苦労なさった。あるとき孔子君の著作を読んでいて「夫唱婦随」を発見した。そのころの日本は女性が活躍している時代であったが、彼はこれからはこれで行こうと思った。孔子君も嫁さんのきつい人であったようで、孔子君の著作には密かにそのことの恨みが込められている。同じことに苦しむのだから共鳴するのは同病相憐れむでまあ致し方が無い。ここまではいいのだが、それを国家の方針にするとどうもいけない。大名旗本御家人陪臣皆が「夫唱婦随」を実行してから、武士階級はお行儀は良くなっても経済は零落した。女性が自由であると国が栄えるようだな。わが高野山も女性の入山はトウの昔に廃止した。

 組織の指導に当たるものは、個人の感情を政策に反映させてはいけない。それから各種経典にあることをむやみにありがたがって何の考えもなくそれを尊重して政策に取り入れてもいけない。


小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑮

2022-09-20 21:22:12 | 日記

小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑮

  頼朝君の功績は、清盛君が欲望を逞しくしていくらでも貨幣持ち込んだための失敗を、銅銭を鋳つぶしてこしらえた大仏を皆に見せるという誰も思いつかないような作戦を立てたこと以外にもある。すでに世の中が変わったことを日本の津々浦々に「平家物語」を語ることでアナウンスしてまわったことだ。耳で聞いてわかる言葉の中に少しだけ難しい言葉を混ぜて作った美しい詩の語りを、琵琶の音色とともに聞かせる。聴衆は、それに聞きほれながら平家が滅んで新しい世が来たことを、頭の中に文章としてではなく感覚として自分の体の中に入れてしまう。

 おそらく、山の中の土豪の大きな板の間に一族郎党が集まり薄暗い灯(ともしび)に浮かび上がる琵琶法師の語りに聞き入ったのであろう。琵琶法師を呼ぶ費用はもちろん聴衆持ちである。こんな安上がりのコマーシャルはない。しかも有効需要が発生して琵琶法師の失業対策になる。GDPが上がる。頼朝君のやったことは物語を書かせることだけで、この物語は何回もバージョンアップされた形跡がある。

 私は、これら2件は頼朝君のような単純な人には発想できないのじゃないかと思っている。当時京都でどうしても出世できないでくすぶっていた中級官人の大江広元君が、東下りして頼朝君の顧問になっていた。彼の発案したものだと睨んでいる。広元君に問い詰めたが彼はうまく言い逃れしている。こんな発想は京の貴族の発想だろう。権力奪取やその維持は兵馬コウソウの間にだけではない、また陰謀や宮廷内クーデターだけでもない。皆が談笑と感激の間にもできるのである。

 しかも、内部抗争に巻き込まれずに天寿を全うした。なぜ広元君を主人公にした講談本が無いのであろうか。大河ドラマが無いのであろうか。また大江神社 広元神社が無いのであろうか。会社や役所の中でさっぱり芽が出ないとぼやいてる人は一杯いる。その人々からお賽銭を集めることができるはずである。

 なお、広元君のご子孫はその後再び西国に下って毛利という名乗りに変えたようだ。相変わらず名前の一時に「元」をいれて、大きな大名家になった。大変賢い一族でもちろんご子孫の方々も今私のひざ元にお越しになっている。


小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑭

2022-09-19 23:08:58 | 日記

小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑭

 貨幣経済の話をしたから、平清盛君の話もしておこう。彼はえらい高熱で苦しんだらしいが、今はもちろん私のひざ元で眠っている。彼はなかなか目端の効く男で、わがふるさと宋が貨幣経済で大いに潤ったのを見て宋銭を自国に輸入すれば自分は貨幣の発行元になれると見て取った。宋銭は輸入するまではモノだが、自分が使うときは貨幣として利用できる。その価値の差額は莫大であるから、もう儲かって儲かって笑いが止まらなかった。しかも、当時の日本では銅銭を作れなかったから輸入を独占しさえすれば、儲けは自分一手に取ることができる。

 これによって、日本でも拝金主義が蔓延し神仏を敬う気持ちが薄れてきた。これを「銭の病」という。それとともに自分の感情気持ちを大事にする風潮が現れたこと以前に喋った通り。

  国中にあるものの価値と貨幣の総量とは、少しくらいオーバーするのはいいんだがだいたい釣り合っていないといけない。大きくオーバーするとバブルがおきそのあと貨幣の価値が下がってインフレになる。インフレになると苦労して銭を貯めた連中が生活苦しくなって「どないしてくれるねん。」と大騒動するから、政権が持たなくなる。

 清盛君はこれはいけるとあまり高くない身分から出発して成り上がり一代で大儲けして、バブルの最中に祇王祇女や仏御前に入れあげた挙句に輸入した自分の銅銭に付着していたと考えられるマラリアにかかったんだ。清盛君はそれでいいけど、気の毒なのはその子孫特に笛で有名な敦盛君や安徳君で、この時の平家一門は本当に気の毒だな。

 この時の一の谷の合戦とか那須与一とかは、物語では美しく書かれているがみんなつまるところ「どないしてくれるねん。」の大騒動のことだな。この大騒動をあんな美文で書いて今に残した「平家物語」の筆者の腕はたいしたもんだ。

 貨幣の発行には実は算数の能力が必要で、これは私のひざ元においでになっていないが、アイザック=ニュートン氏がイギリスの造幣局長官になったり、数学で有名なラプラス氏がナポレオン時代のフランスの内務大臣になったりしたのはこの能力があったからだと思われる。清盛君には遺憾ながらこれが無かった。もしあれば平家政権は長く続き、都会風政権だから元寇のときに元の使者を上手に丸め込んであんな大騒動を起こさなかったかもしれない。その代わり東京の開発はできなかったかもしれない。

 清盛君と頼朝君の政権は、違うように見えて貨幣経済移行後の政権という意味では同じで、それはわがふるさと秦と漢が違うように見えて同じ状況下での政権という意味では似ている。ただ頼朝君は、なかなかすごいことした。銅銭が多すぎるので世の中が混乱するのであるから銅銭を回収して大きな仏像を作る。これ見よがしに大きなのを作ってみんなに見てもらって銅銭の価値は下がりませんよとアナウンスする。言うだけではなくちゃんと現物を見せる効果を知っていたというのは実に賢い。頼朝君には嫁さんに頭の上がらないとか自分の政権内の内部抗争を止められなかったといううわさがあるがそんなことは小さなことだ。漢の劉邦氏は嫁さんに頭が上がらずかつ国の始めには大変な内部抗争があった。ソクラテス氏は国をつくらなかったので内部抗争は無かったが嫁さんについては有名な人であった。孔子君も内部抗争は無かったがあんまり料理の仕方に注文を付けたために嫁さんに逃げられたとのうわさがある。