本の感想

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小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑬

2022-09-18 13:50:09 | 日記

小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑬

 運慶君には世話になったので彼のことを詳しく話したい。

わが祖国も時代が下がって宋王朝になると、銅の精錬技術が上がって貨幣が量産されたこともあって貨幣経済が盛り上がってきた。人々は神仏よりもお金を信用するようになる。これはワガ教団だけではなく孔子君のところや老子君ところも大打撃を受けたんだが、手に負えないのは貨幣を少しばかりため込んだ連中だった。

 連中は、皇帝や貴族だけが贅沢というのはけしからんから自分たちも贅沢させろと言ってきた。まあ皇帝がいないと何かと不便だからそれは置いといてやるが貴族はいかんとして、とうとう貴族に取って代った。それまでは、皇帝貴族の独占であった妓の訓練所を、自分たちで別に作りおった。妓の訓練所とはバレーの練習所みたいなところで、仏(実際には皇帝にだけど)に奉納する踊りの練習所なんだ。日本ではこれははやくからすたれて、今ではかろうじて弁財天になって残っているが、敦煌の壁画にある通り仏様は踊りを見ることも大変お喜びになるものなんだ。

 そこで連中は菩薩様のお顔を、衆生を救おうというお顔から気品ある妓のお顔に似せてつくるようにやり始めた。もちろん豪華な宝冠もそのままに写していくから菩薩さんはこの時代を境にしてずいぶん違う様相になった。人間の好みが芸術に反映するのだから西洋のルネッサンスがワガふるさとでは数百年早く起こったことになる。ルネッサンスと言うとすぐイタリアだというのは私には不本意なことである。それでわが故郷でこれが起こった原因は、社会階層の入れ替わりでさらにその原因は銭の普及にある。

 宋王朝は、平和はカネであがなう方針であったため案外早くから北方民族の侮りをうけて土俵の南の方へ押しやられてしまった。このとき多くの文人僧侶が日本に亡命したんだが、その中に運慶君のおとーさんの康慶君を教えた仏師がいた。わが国も貨幣経済が進行するときであったので、このルネッサンス文化は喜んで受け入れられた。

 康慶君のわが国初のルネッサンス様式の仏像は興福寺南円堂に、運慶君のさらに工夫を凝らしてわが国独自の味わいを付け加えた無著世親像は北円堂に納められている。これが滅多に公開されないのはまことに勿体ないことだ。なにも長い時間ヒコーキに乗ってローマやパリに行かなくても地元でルネッサンスを味わえるんだ。康慶君や運慶君の作品を朝早くから夜遅くまで年中無休で公開すれば、今度はローマやパリから大勢の人がヒコーキに乗ってやってきて今度はローマやパリの人がシスティーナやルーブルをうっかり忘れてしまうだろう。

 うっかり私も秘仏なんて指定をしてしかも私の決めたことは絶対変えてはいかんなんて言い残したもんだからワガ教団も勿体ないことしている。私も他人様のことは言えない立場にあるんだけど、興福寺は実に勿体ないことしている。


小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑫

2022-09-17 11:20:06 | 日記

小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑫

 ワガ高野山にお見えの皆さんは、その所蔵している美術品に驚かれると思います。これを見に世界中から人がお見えになるのはありがたいことです。これは、よくある金持ちが金にものを言わせて収集したものではありません。成金はお客に見せびらかすために、または夜中こっそり一人でこれを見てニタニタするために集めるんですがそういうものではないのです。銀行や保険会社の重役室や通路にかけてある「弊社にはこれだけの資産がありますから安全です。」という見せ金みたいなものでもありません。

 実は倫理(ethics)と美学(aesthetics)はほとんど同じものなのです。人間の脳の中で倫理を司る部分と美学を司る部分はほぼ同じ位置にあるのです。西洋ではこのことが古くから知れていたので、言葉までこのように似ているとされています。こんなわけで宗教と美は仲のいい関係にあって、両者相助ける関係にあります。教義は私のと全く違うけどローマ教皇も美術品を多く集めたことで有名です。

 宗教家は美によってその宗教を表現しようと試みるものです。それは仏像や曼荼羅によってだけではありません。私どもが仏像にお経をあげるのは、仏さまを喜ばすためではありません。お経の声が壁に跳ね返って、それがあたかも仏様が発していると思われるような美しい音楽を私どもの後ろで聞いている善男善女にお聞かせして、そのことで宗教の世界にお連れしようとするのです。

 西洋では、歌を歌うんですがそれは天井にあるアーチで増幅されてあたかも天から降ってくるように工夫されています。西洋では神さんは天にいて、わが国では仏陀は西方極楽浄土に居ることになっているのはこのような違いによるものなのです。まあ、大げさに言えば西洋では石造りだからアーチにせざるをえず、東洋では木造だから長方形の建屋にせざるを得なかったことが、神さんや仏さんの居場所まで決めてしまったということでしょうか。

 

 ローマ教皇には、ミケランジェロという御贔屓が居られました。この人ただのアーチストではないようで政治活動にも熱心だったようです。この人追われて地下に潜伏した時に暇つぶしに壁に描いたそうですが、その絵を観ようと人々が安くはない入場料を払って見に来るという話を聞いたことがあります。

さて私が名誉会長に退いてからずいぶん経ってからですが、運慶というアーチストが当教団の美術品の制作にあたってくれました。彼は、わざわざ高野山に出張製作所を開いてくれるほどの熱の入れようでありがたい限りです。しかし、世間では秘密の政治活動をしていたのではないかとうわさされています。事実上大和一国をおさめていた興福寺の御出身で、東大寺や京都の寺社とも行き来がありさらに頼朝君に頼まれて東の国々にも仏像を刻みに行ったのですから、各国の事情を知っているのです。あちらこちらで内緒の話を聞いては、こちらあちらでしゃべるくらいのことはしていたと思います。

アートも宗教もはじめはパトロンが無いと成立しないのです。これという有用性が無いのですから人々が値打ちありと認めてくれるまでは存在することができないものです。その間存在を支えてくれるものにはゴマをする必要があるのです。運慶君もそこを苦しんだのではないかと想像します。

松尾芭蕉も西行法師も似たようなものでしょう。特に気の毒なのは西行法師で、彼は北面の武士でした。天子は北極星を背にして南面して座りますからそれに対面する武士はまあ武士としては位は高い方じゃないかと想像されます。それがにわかに、漂泊の思い発してなんて嘘に決まっています。命ぜられて偵察に出たのです。その時歌詠みを仕事にする振りをしたに決まってます。その時行くなと取りすがる自分の幼子を縁側から蹴落としたと伝わっています。漂泊の思いではそんなことできるわけありません。こんなことばに騙されてはいけません。言葉は常に人を裏切るように発せられます。かれのこの場面をなぜ物語小説コミックにしないのか。少し前の日本のサラーリーマンとその家族は血涙を流してこれを見るはずです。


小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑪

2022-09-16 15:12:10 | 日記

小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑪

 私が名誉会長みたいになって、教団の運営に口を出さなくなってからも皆は私の言いつけを守り、最初の教義に異を唱えず教団は分裂しなかった。それはいいんだけど今度は時代の変化に対応できないと倒れてしまうことになる。最澄君のところは時の政権に抗うようなことが多かったと見えて焼き討ちに合ってしまうことがあった。どうしても教団を維持するために荘園を支配する必要があったため、または時代が下がって金融のお仕事を始めたためで、時の政権や教団自身にも気の毒なことだ。

 余談になるがこの各教団が金融の仕事を始めたころが、各教団の仕事が目に見えて変化したときで、人々は無条件に神仏を信仰しなくなった。神仏より銭金を信仰し信用するようになった。人々は神仏によってあらかじめ決められた人生を歩むのではなく、努力によって自分の人生を切り開くものと考えるようになった。そうなると、それぞれの人の個人的な悩みが出てくるのでそれにこたえるような教義をこしらえるまたは作り直す必要がある。このころ多くの大衆相手の宗派ができたのはこの需要が出てきたからだ。需要が先に在って供給はそのあとである。人々が何を欲しがっているかを見抜くことが商売の鉄則である。

その点私のところは、キンや水銀が豊富なものでここは乗り切れた。乗り切るどころか都から離れていることを幸いにして、キンを用いて日本中の情報を集めてそれを高く売るようなことを始めた。乱世の時代には、敵味方はっきりしないので皆さんここへ情報をとりにお見えになった。しかも、ありがたいことに秘密の軍資金なども預けていただける。お世話になった各大名の皆さんのお墓は敵同士でも高野山に作ってある。信玄も謙信も、信長も光秀もみなあります。

 いけないのはそのあとで、キン水銀が枯渇してきた。こうなると荘園も金融もやらないで高いところから世間を眺めていた独立王国も苦しくなります。ちょうどそのころ伊勢神宮が朝廷の衰微によって維持費が入らなくなり苦しんでおられた。神社だから人々の心の悩みにこたえる複雑な理論構成が無い。他の神社のように何かの職業集団をとりまとめる利権あさりは誇りがあって、または出遅れたからかできない。どうするのかなと見ていると、なんと観光事業に乗り出された。

 何となくありがたいだけでは、お札も売れない。お札を売る御師がついでに、二見が岩のスキ間からかろうじて見える富士山を拝むと良いことがあると売り込んで江戸から観光客を呼び込んだ。さらに、流行作家に旅がどのくらい楽しいものかを宣伝する本を書かせた。これによって神社がありがたい場所であるとの信仰を保ったまま収入を確保することに成功したようだ。

 同じようなことをしないと我が教団は建物の維持もできなくなる。我が教団には、暦を売って回る集団高野聖があるのだが、その集団に売ったついでに奥の院で大師、吾輩のことですが、にあうと幸せな気分になれるまたはいいことがあると宣伝させた。これでは、私もこれに協力せざるを得ないだろう。

 意外にも都会地では気散じと言って、気晴らしになるものが常に必要になる。ヒトとヒトが密集するとどうしてもこうなる。大相撲や歌舞伎や落語やらがしょっちゅう催される。それだけではまだ不足だから、何となくありがたい神聖であるとの宣伝をしてこのような旅行を仕事にすると大きな需要を掘り出すことができた。多くのお客さんにおいでいただき、神聖さを味わっていただいたおかげでわが教団は教義を一切変えることなく生き残ることができた。ありがたいことです。


小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑩

2022-09-15 11:17:28 | 日記

小説 徐福と童男童女3000人の子孫 ⑩

 日本に帰ってきてからのことは、いろんな人があちこちに書いてくれていますので私が言うまでもないでしょう。東寺や神護寺の住職を務めたり、嵯峨天皇とは同じ目線で話し合いが出来たりとありがたくも引っ張りだこの時代でした。このころ朝廷の儀式の一端には私が持ち帰った儀式の作法が取り入れられたのです。今でも東寺では朝廷の儀式の一端を担っているのです。

宗教は、近代になってからの皆さん求めているような悩みの相談や個人の生き方人生方針の立て方に係る、そんなものではないのです。すべてを包摂するものでその中でも意外にも儀式儀礼に関するものが大きいのです。現に孔子君の発明した宗派では、威厳のある態度物腰を最重要視します。老子君や荘子君の発明した道教は、お二人の性格から考えて儀礼とは関係ないように見えますが、それでも庶民の心のよりどころになるためにはまじないや儀礼の要素がたっぷりと入っています。

京の都にいつまでもいては、私の目指す千年王国建設計画がなりません。最初はふるさと四国にと考えたのですが、時の権力から離れすぎています。最澄君のようにあんまり都に近すぎると弟子たちが、都の繫華なのに目がくらんで勉強がおろそかになってはいけません。ちょうどあの別動隊が上陸し水銀採取した山がいいのではないかと、あの山を高野山と名付けここに伽藍を建設することにしました。ここは私が連れてきた当時は童男童女であった部下の住んでいた土地です。土木に詳しい彼らを指揮して草深い地でありますが、信仰の対象になるような立派な建物を建設しました。

水銀採取は秘密の仕事で、女人禁制の伝統があってその制度は守り続けました。本当に女人禁制にしてしまうと子孫ができないで教団が滅んでしまいますので、三日に一度、月に九度降りていくところは昔通りです。他の人はここで家庭を営むのですが、私は特別ですのでここに四国から呼び寄せた母親を住まわせ三日に一度山を下りて親孝行をすることにしました。

これだけでは私の生活に彩(いろどり)がありません。彩も準備しておきました。それは、私の彫刻した如意輪観音像をご覧になっていただければわかっていただけると思います。これは本当は絶対秘仏にして誰も見れないようにしておきたかったんですが、それじゃあるのか無いのかわからなくなりますので、年に2日だけ虫干しもかねてちらと見せるようにしてあります。もっとも、私は書道家でかつ文章家までで、本当の彫刻は無理です。仏師にモデルを紹介しこういう意図でこのように彫ってくれと注文を付けただけです。ため池を掘ったり、墨を作ったり、暦を作ったりと、もうありとあらゆることを私がしたように言ってくれるのはありがたいことですが、みんな私の手下や弟子がやったことで、私はこういうことをやろうと提案しただけなのです。

わたしは、自分がいなくなってもこの千年王国が分裂したりしないように作戦を立てねばいけません。最澄君のとこはいろいろの流派が出来そうです。あのようにならないために、「師より受け継いだものを改変してはならない。」を徹底しました。また、閻魔君の書斎に行って自分の寿命を無限に引き延ばしておきました。無限に自分の部下後継者を督励するためにです。それでこうやって日に2度の御飯を食べながら昔の思い出話をすることができるのです。


小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑨

2022-09-12 12:38:00 | 日記

小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑨

 私が長安の青竜寺で恵果のもとで密教を学んだのは皆さんご承知の通りです。これがヤマト王権の取り入れた仏教とは少し系統が異なること。言葉で語られる思想の部分よりも、師より伝えられる何ものかを重視すること。従って私の入滅後も変化することなくそのままの形で伝わっていくだろうこと。そのような魅力もあったのですが、なによりこの宗派はインド西北部の裕福な商人に支持された宗派です。アラビアの錬金術を教えてもらうには大変恵まれた立ち位置にあります。私は、恵果師のもとで勉強に励みながら、錬金術などの勉強もやって帰りました。

 キンの精錬には炉の温度の管理が大事で、これは徐福と名乗っていた時期に不老不死の仙薬をつくろうと散々勉強したことです。仙薬は出来っこありませんが、あの時の勉強は役に立ちました。後の世でニュートン氏が黒魔術の研究中に近代科学の礎になる運動方程式を作ったのと同じようなことです。

 私は一瞬でお経を覚える術を会得しているのです。師より教わるべきことは一瞬で理解でき記憶できます。10年も20年もここに居ては日本に帰ってからの事業を始める機会を失いかねません。私はありったけの砂金を提供して一宗派を開くに十分な道具を買い求めたあと短期で日本に帰ることにしました。この短期で帰ったことが問題にされて、帰国後長いこと畿内に入ることを許されなかったことは皆さんよくご存じのとおりです。

 最近、私はとんでもない能力が備わっていて長安で雲を呼び雨を降らせたり、上空高く舞い上がったり、はては悪人を取り押さえたりしたような映画がつくられたようですが そんなことないことはこのことでわかるでしょう。そもそもそんな自然でない常識にないことは誰にもできないのです。超能力なんてないのです。ヤマト王権の命令に私はおとなしく従っていたのですから。私はただお経を一瞬で覚えることができるだけなのです。そんな人は何時の時代でも一杯います。しかもあの虚空蔵求聞持法を百万遍唱える苦行をしなくても生まれつきごく自然にです。私はごくありふれた人間なんです。

 でも、ヤマト王権とはつかず離れずの関係を持つ自分の王国を建設できるかもしれない立場にあったのです。しかも私の中に入り込んでいる徐福さんは、むかし我が国に自分の王国をつくることを夢見てきたのです。ここは、ヤマト王権に従い他日雄飛するまで辛抱の日々なのです。