小説 徐福と童男童女3000人の子孫⑬
運慶君には世話になったので彼のことを詳しく話したい。
わが祖国も時代が下がって宋王朝になると、銅の精錬技術が上がって貨幣が量産されたこともあって貨幣経済が盛り上がってきた。人々は神仏よりもお金を信用するようになる。これはワガ教団だけではなく孔子君のところや老子君ところも大打撃を受けたんだが、手に負えないのは貨幣を少しばかりため込んだ連中だった。
連中は、皇帝や貴族だけが贅沢というのはけしからんから自分たちも贅沢させろと言ってきた。まあ皇帝がいないと何かと不便だからそれは置いといてやるが貴族はいかんとして、とうとう貴族に取って代った。それまでは、皇帝貴族の独占であった妓の訓練所を、自分たちで別に作りおった。妓の訓練所とはバレーの練習所みたいなところで、仏(実際には皇帝にだけど)に奉納する踊りの練習所なんだ。日本ではこれははやくからすたれて、今ではかろうじて弁財天になって残っているが、敦煌の壁画にある通り仏様は踊りを見ることも大変お喜びになるものなんだ。
そこで連中は菩薩様のお顔を、衆生を救おうというお顔から気品ある妓のお顔に似せてつくるようにやり始めた。もちろん豪華な宝冠もそのままに写していくから菩薩さんはこの時代を境にしてずいぶん違う様相になった。人間の好みが芸術に反映するのだから西洋のルネッサンスがワガふるさとでは数百年早く起こったことになる。ルネッサンスと言うとすぐイタリアだというのは私には不本意なことである。それでわが故郷でこれが起こった原因は、社会階層の入れ替わりでさらにその原因は銭の普及にある。
宋王朝は、平和はカネであがなう方針であったため案外早くから北方民族の侮りをうけて土俵の南の方へ押しやられてしまった。このとき多くの文人僧侶が日本に亡命したんだが、その中に運慶君のおとーさんの康慶君を教えた仏師がいた。わが国も貨幣経済が進行するときであったので、このルネッサンス文化は喜んで受け入れられた。
康慶君のわが国初のルネッサンス様式の仏像は興福寺南円堂に、運慶君のさらに工夫を凝らしてわが国独自の味わいを付け加えた無著世親像は北円堂に納められている。これが滅多に公開されないのはまことに勿体ないことだ。なにも長い時間ヒコーキに乗ってローマやパリに行かなくても地元でルネッサンスを味わえるんだ。康慶君や運慶君の作品を朝早くから夜遅くまで年中無休で公開すれば、今度はローマやパリから大勢の人がヒコーキに乗ってやってきて今度はローマやパリの人がシスティーナやルーブルをうっかり忘れてしまうだろう。
うっかり私も秘仏なんて指定をしてしかも私の決めたことは絶対変えてはいかんなんて言い残したもんだからワガ教団も勿体ないことしている。私も他人様のことは言えない立場にあるんだけど、興福寺は実に勿体ないことしている。