隠れ家-かけらの世界-

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私たちが試されていること~光市母子殺害事件の裁判に思う

2008年04月23日 18時37分29秒 | 日記
2008年4月23日 (水)

■光市母子殺害事件の裁判に思うこと
 いろいろ感じることの多い判決だった。光市の母子殺害事件。法律のシロウトだって、だからこそ?思うことはさまざまだ。
 死刑制度には昔から「違和感」がある。この違和感は感情的なものでもあるが、それだけではないような気もしている。そのあたりは声高に主張できるほどの理論があるわけではないが、違和感を払拭できないうちは死刑を容認はできない。してはいけないような気がしている。
 今まで裁判では蚊帳の外におかれていた被害者家族に光があてられるようになったことは一つの進歩だ。だけど、愚かなメディアの偏りで私たちがただ感情の赴くままに被害者家族に同情的になって、それで公平性は保てるのか。被害者家族が望む刑罰が執行されればいいのか。それは少し違うと思う。
 今までなら、テレビを見たり新聞を読んだりして、ああだこうだと勝手に気持ちのままに意見を言っていればよかったけれど、裁判員制度が始まったらそうはいかない。私たちが今まで適当に見過ごしてきたことを試されるのかもしれない。そんな気もしてくる。私たちは大丈夫だろうか。

 被害者が失ったものは想像を絶するほど大きい。それは被害者家族にとっても同じことだろう。
 その苦しみややりきれなさ(言葉で言うと、なんて軽く聞こえてしまうのか)をできるかぎり真摯に、そして寄り添って受け止めたうえで、それでも加害者がなぜそういう犯罪にいたったのか、どういう環境で成育してきたのか、それをも冷静に見つめる努力をしなければいけない。そこがたぶん、私たちにいちばん欠けている部分ではないのだろうか。
 
 それにしても、今回の裁判で新しく被告の弁護にあたった弁護士軍団。彼らは彼らの信じる方向を見定めての弁護だったのかもしれないが(弁護士の職務を思えば、理解できるところもあるけれど)、私たちの胸に異様なものしか残さなかったことをどう受け止めているのだろう。
 常に冷静に対応していた被害者の夫であり父親である本村氏の長きにわたる対応を見ていると、プロの弁護士たちの社会に訴える技法(あえて、こういう言い方をするけど)の稚拙さがはがゆい。

 そしてメディア、とくにテレビのニュース番組やワイドショーでのバランスを欠いた報道。メディアの担い手として、視聴者に判断を委ねる余裕を与えぬ報道を認めることはできない。
 私たちはよほどしっかりしていないと、ゴールの決まったコースを知らないうちに疾走してしまいそうだ。
 だからいつも、小さな違和感やささいなひっかかりに敏感でいたい。異端も恐れない人でいたい。

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