2015.1.16(金)
1月ももう半ば、2015年の24分の1がすでに過ぎてしまったことになる・・・なんて計算を、毎年1月末くらいまでしながら、そのうちにそういうこともしなくなり、そして、「え、もう12月? この前お正月だって騒いでいたのに」という結末を迎えることになる。
なんか、繰り返しだなあ。
こういう繰り返し、何年くらいやっているんだろう。
さすがに10代の頃はなかった? やっていたとしても、今みたいな悲壮感とか、マジな焦りとかは皆無の、無邪気な「1年って早いよね~」だったんだろうなあ・・・。
なんてことを思うのも、毎年の恒例みたいな気がする。マズイよ。
■風刺
言葉の定義はともかくも、「風刺」といえば、
「うーん、さもありなん?」
「でも、そこまで言わなくても・・・」
「ま、ちょっと納得するところもあり?」
くらいから、
「いやいや、それはちょっと違うでしょ」
「言いすぎじゃない?」
くらいまでの幅がたとえあっても、風刺の対象になる人や人たちが怒り狂ったり傷ついたりするまでにはいたらず、でも核心をちゃんとついている・・・そういう高度な批判テクニックのように思っていたのだけれど。
シャルリ・エブド社銃撃は、その記事やイラストの内容ないかなるものであろうと、許されるべきものではない。
その大前提のうえで、表現の自由とか、表現の暴力とか・・・そういう大事な問題を考えたり議論したりしなくてはならないのに、落ち着いてそういう議論がなされる状況ではないのが今の地球事情か。
その内容から特定の対象を刺激するとして記事の掲載を見送ったメディア、あえて掲載して読者に判断を委ねたメディア。
日本の中でもさまざまだ。
私たち国民が成熟した生き物として信頼されるならば、掲載してその内容の是非を判断する機会を与えてもらいたいと思う。
実際にはすでにその内容を目にしているし、「ほほ~、さすがフランスのメディアね」と感心するような、ひねりのある魅力的なイラストではなかったけれど。
■サザンと謝罪文と「名誉」って?
これに関連して語るのはちょっと違うかもしれないけれど。
サザンの桑田氏と所属事務所が出した謝罪文。
これ、長年のファンで、彼らのライブの常連ともいえる人たちはどんな気持ちで読んだのだろう。
(私はサザンのごくごく初期の頃は別にして、とくにファンだったことはなく、それでもアルバムは必ず聴いて、でもiTuneには入れない・・・という過程を繰り返している人です)
もともとヤンチャなパフォーマンスで喝采を浴び、いくつになっても「大人じゃない」部分を売りにしているはずの存在だと思っていた。
当然出るであろう批判も十分に計算したうえでのパフォーマンスじゃなかったのか。いつもはファンの前での当然のパフォーマンスが、全国ネットで流れたから問題になったのか?
実際には問題になったパフォーマンスは見ていないのでその是非は語れないけれど。
でも歌詞の内容がどうなの?と議論の的になっているのには違和感をもたざるをえない。
紫綬褒章に関して言えば、これを受賞したときのコメントは素直に受け止めている感じで、むしろそれが意外だったと言えばそうだ。
唐十郎が以下のように辞退していたように、桑田氏もそういう選択もあったはず。
http://www.zakzak.co.jp/gei/2005_11/g2005112408.html
受賞後の居心地が悪くて(だって、たかがロックバンドのボーカリストだもの、と愛をこめて)、それでちょっと揶揄したようなこと、したくなっちゃったのかなあ、なんて軽すぎますか?
だって、ロッカーだもの。別に政治的なメッセージじゃなくても、社会を斜に見て曲をかいたり演奏したりするのが託されたお仕事だと私は信じたいから、窮屈なところに身をおかずに、つねにフリーで、あまり背負わずにいてほしいじゃないですか。
褒章や勲章をもらわなくても、あんなに大勢の支持者を得ている段階で、すでに十分すぎるほんものの「名誉」を手にしているはずなのに。
だから、あえて想像する。
批判めいたものが出てきて、なんだか急いで発表しちゃったような、「サザン」らしくない無味乾燥な謝罪文を、多くのファンたちはどんな気持ちで読んだのだろうか・・・と。
私がファンだったら・・・、うーん、耐えられないなあ。
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