隠れ家-かけらの世界-

今日感じたこと、出会った人のこと、好きなこと、忘れたくないこと…。気ままに残していけたらいい。

「終末に模範解答はない」~『朝日新聞』「天声人語」より

2009年04月08日 00時45分42秒 | 日記
2009年4月7日 (火)

 最後のステージをどんなふうに過ごせるか?

 以前ここにも「尊敬できる年寄りはいない」というような不遜なことを書いたことのある恥ずべき私なのですが、最近ちょっとだけ変化あり。
 ま、自分自身が年をとったのかもしれないけど(泣)、周囲に介護の仕事をしている人が若干2名いるということが大きな影響を与えてくれたような気がする。別に“すごい”経歴なんかなくても、そこまで生きてきたことに「おお!」と思えるようになったのは、やっぱり「生き続けることはそう甘いもんじゃないよなあ」と思える年齢になってしまったからかな、なんて。
 そんなとき、今日の『朝日新聞』朝刊の「天声人語」、心にふわっと残って波紋を起こさせる言葉が並んでいた。
 103歳で旅立った母親の日記には、娘への感謝の言葉と、待っている人のいる向こう側の世界へ渡っていくことの小さな喜びがしたためられていたそうだ。どんなふうに生きていたら、最後にそんな言葉を残せるのだろう。私への思いを引きずるな、という潔い去り姿に、見送った人たちはどんなに救われただろうかとも思う。
 また、死期を待つ80代の女性は、面会者もなく、ひとり病室にいながら、「若いときのことをひとつひとつ思い出して、退屈することはありません」と語っていたそうだ(医師免許をとった僧侶、辻本さんが研修中に出会った患者さん)。
 にぎやかに家族に囲まれて過ごす最期が理想と言う人は多いけれど、こうやってひとり静かに心乱されることなく最期を待つ人、待つことのできる人もいる。
 その心中を推し測ることはとうていできないけれど、ベッドの上で思い出と空想に囲まれて穏やかに死までの日々を過ごせる人がどのくらいいるだろう。
 どんなふうに生きてきたか、どんなふうに心を豊かに育ててきたか…、そういうことなんだろうか。
 お金があっても家族がいても、心穏やかにいられるという保証はない。最後はやはり自分自身、ひとりなんだということ。
 そういうことを理屈じゃなく受けとめられたら、少し先が開けるかなあ。まだまだ雑念ばかりの生々しい生き物だから、とうぶんは無理だろうけど。
 年齢に関係なく死は突然に襲ってきたりする。本人が意識する間もなく逝ってしまうのは楽そうだけど、でも多少キツくてもせつなくても、少し先に姿を現しかけた「死」という化け物をちゃんと見据える老いたヒロインとして最後のステージにあがるのも、悪くはないかな。
 …と、こういうことを考えることからして、たぶん私はまだまだ何もわかっていないんだろうな。恥ずかしい限りだ。

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