暑い、暑い休日の早朝。
父方の祖母が静かに旅立った。
「通夜は平日だから、孫は無理して来なくていいよ」
父はそう言ったけど、
2~3時間のうちに、すべての仕事の段取りをつけ、
翌日、黒ジャケットを羽織り、北へ向かう電車に飛び乗った。
明治、大正、昭和、平成を生きた祖母。
名前を、いちいと言う。
3年前の今ごろ、
志村ふくみさん、洋子さんとそのお弟子さんたちの展示会で求めた帯揚げは
いちい(一位)で染めたものだった。
陽だまりのような優しい色は、祖母のイメージそのままだ。
「えみちゃんやぁ、おなかすいてないかい、
そこにおせんべいがあるだろ、たべなね」
私が物心ついたときにはもう腰が90℃近く曲がっていて、
小さくて、とにかくよく動く働き者の祖母だった。
東京・渋谷に生まれ育ち、5人の兄と2人の妹がいた。
兄は全員、戦死した。
妹たちは、一人は大学教授の妻に、一人は神田で雀荘の女将になったそうだが
どちらも40代で病死した。
兄妹たちの魂を一身に背負って、祖母は102歳まで生きた。
栃木県U市に嫁ぎ、
幼い孫たちもびくびく顔色を窺うほど気難しく厳格な祖父を、
ずっと影で支え続けた。
ときには盾となり、厳しいしつけから子どもを守ったという。
子どものころから運動神経抜群で、
中学時に県の駅伝メンバーに選ばれた私の父は、
しかし、満足な靴がなかった。
終戦から6年余り。まだ苦しい時代だった。
「駅伝なんて将来何の役にも立たない。やめてしまえ」
勉強こそ出世の道、と、辛く当たる祖父をなだめ、
「・・・いくら要るん?」とへそくりからこっそり靴代を渡してくれたそうだ。
・・・通夜から帰ってきて、実家で久しぶりに父とゆっくり話をした。
正確に言えば、私が父の話をずっと、聞いてあげた。
私が子どものころは、無口で仕事の話なども一切しない父だった。
そんな父が、2時間ずっと、しゃべり続けた。祖母の思い出、戦争のこと、仕事をしていたころのこと・・・
寂しさの穴を、言葉で埋めるかのように。
特別なコネもなく、銀行の専務まで上り詰めた祖父は、
葬儀のとき数え切れないほどの人がえんえんと列をつくった。
バブルほぼ頂点の、1990年のことだ。
祖母は・・・親族10数名と、昔祖父の世話になったというやはり10数名で、
静かに静かに見送った。
(駆けつけて、よかった)と私は思った。
「いい経験をしたね」
急なリスケジュールで、迷惑をかけてしまったのに
N経の編集者さんは、そんな優しい言葉をかけてくれた。
彼女も、数年前におばあさまを100歳で見送ったそうだ。
「ちゃんと、お疲れ様って声かけてきた?
長く生きた人からは、教えられることがたくさんあるよね」
説教、叱責はおろか、小言すら一度もない、
そんな祖母は、最期まで私を孫でいさせてくれて、
最期まで私に人の温かさを教えてくれた。
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