綺麗ごとはいくらでもいえるが、その内奥を覗えば、結局人は人の上に立ちたいのである。そのため納得させて支持を得なくてはならぬ。
政治家など、広くは大衆の支持を得なくてはならぬ。その為には大衆を操れねばならぬ。
そういう人間に対しては、彼らが正義などと言いだしたら眉に唾をして心することだ。庶民の味方だ、弱者の味方だなどと言いだしても心することだ。
非難する相手が自分より上の地位にいる場合は、正義の看板を掲げてその相手を非難するのは嫉妬なのである。本当は自分が相手のその立場に取って替わりたいだけなのである。
世俗的な成功を考えるなら、臆面なんかがあってはいけないのである。生き馬の目を抜く図太さ、人の不幸など見て見ぬふりをする冷酷さがなくてはならぬ。人を出し抜くずる賢さがなければならぬ。
道義に反するだろうかなどと思い悩んでいては遅れをとるのである。
そして話し合いで解決することなどないのです。屈伏させたか、させられたか。それだけです。
話し合いがついたと思っていることは、もとより話し合う必要のないことだったのであり、どうでもよかったのです。
だから、話し合いがつかなくて解決しなければならない時に暴力の出番が来るのです。小は拳骨から大は核兵器まで。
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