夜、きなこは私がログハウスの部屋から、寝床のある部屋にやって来たのに気付くと、別の部屋にいてもやって来て、眠くなると写真のようにして私が寝床に入るまで一眠りします。
まずは、お布団の上で
次に、私の股の間で
寝床のそばで、ホットカーペットでぬくぬくだよ
白目を剥きかけ
ちらりと寝ぼけ眼の横目で見たりして
でも、やっぱり眼を閉じて
夜中は私の横で寝て、私の左右を交互に移動します。移動の間一呼吸畳の上に坐って暗闇を見つめてのち移動します。又その上、おしっこの為に1~2回起きます。おしっこパッドにちゃんとするのは嬉しいのですが、パッドを交換するために起きねばならぬのが少し辛い。そして朝は5時過ぎには目を覚ましているようで、ぎりぎり6時前後までは待っていますが、たまらなくなると顔をペロペロ舐め回して起こそうとします。
起きてから、二人?(一人+一匹)でトーストを食べて散歩に出るのは6時15分前後です。今はこの時間はまだまだ暗い、そして寒い。
寝不足の続く今日この頃です。いやいやずっと続くでしょう。
携帯電話の販売店の販売員の話を聞いていると、会社でその様に話をするように教育されているのだろうが、嫌な思いに捉われる。
携帯電話には次々と最新の機能が追加され、サービスも又次々と追加される。使う側は一々詳しくは理解しきれない。
販売員も専門家ではないのだ、我々と大同小異で解ってはおるまい。説明を聞いてもそれほど解らぬ。ちょっと専門的な質問をすれば言葉に詰まるのだ。
商品を買うには金が掛かろう、サービスを受けるには費用が掛かろう、それなのに、即ち初めは必ず「こうも安くなる、こうもお得だ」と言うばかりなのだ。「それなら、このようにしたいのだが、どれほど費用が掛かるのか」と聞くと、驚いたようにやっと調べだす始末だ。商品の価格とサービスの掛かる費用をごちゃごちゃのまぜこぜにして目晦ましをしているのだ。そして結局は安くも何もないのである。まるで客を誑かして売らんかなという姿勢である。決して初めに「斯く斯くするには斯く斯くの費用が掛かります」と金が掛かることを先には説明しないのだ。使う側は唯、こうするためにはこれだけの費用が掛かるという事が知りたいのだ。
携帯会社の経営姿勢というか品性というか、そういうものが窺い知れるのである。販売店の向こう側にいる経営に携わる人間が、客をどう見ているか解るのである。
「気に入らねば使うな」と言われればそれまでだが、しかし無くても生活できぬわけではないけれど、もはや携帯電話なしには不便なのではある。
今は芸人やタレントなどの芸能人、ニュースキャスター、女子アナなど、テレビ局の謳歌する天下である。かっての映画人は影が薄いが、それでも、芸人、タレントの上りは映画の世界に出ることだなのだろう。
「映画界も含め芸能界はやくざな世界である。新聞界、出版界、放送界もやくざな世界である」この言葉は、解る人には解るが、解らぬ人は百万言費やしても解らぬ。
「堅気の世界」の人間は、「やくざな世界」の人間の言動に係りあってはならぬ。あからさまに表に出さず心中秘めて軽蔑し差別する根本姿勢を維持せねばならぬ。それが世間を真っ当にする第一歩なのかもしれないと考える。
本来「堅気の世界」と「やくざな世界」との間には刻印のごとくクッキリとした境界線がある。それぞれの世界に存在するものは、同じ物であっても質は全く異なるのである。しかし、今はその境界が曖昧になってきている
我々は、テレビの前でどんな格好をして見ても構わない、なぁ~に好きな時に途中で便所に行ったってかまわない。飯を食いながら箸で指差して好き勝手に批評しバカにし笑おうとても構わない。電波という空間を隔てるものがあるからテレビの中で動いている奴は平気でいられるのだ。目の前でやられて我慢できるか、でも我慢してやらねば芸人じゃなかろう。芸人は堅気のしないことをして許されるべきものなのだ、代わりに後ろ指さされる。堅気とは桁の違う稼ぎができるのだ。ただし同じ金でも、我々と彼らが稼ぐ金は全く別物なのだ。
だからこそ、そういう世界の人間は、あれやこれやと権威付けたがるのだ。我々を恐れいれさせたがるのだ。
千両とっても役者は乞食、錦着て布団の上の乞食かな、である。
時代が変わっても、人間世界の本質は変わらぬのである。