その教義が如何に優れていようとも、宗教の怖さは、それが本質的に排他性と独善性を有していることだ。
それは、世に知られ、信徒が増え、更に広めるために教団が組織され、集団として動き始める時に顕在化しだす。
信者はどうすべきか?
何より、教祖教主に盲目的に従ってこそ信者なのである。教祖教主に対する盲目的な狂信こそが、教義を信ずる者の教主に対する信徒としての根本姿勢であらねばならないではないか。
とすれば、教主が「彼らを、我々の教えに従わせ、目を開かせることこそが、彼らの幸せなのである」といえば、騙したり、賺したり、脅したり、果ては暴力を使ってでも、その信仰に従わせようとせねばならぬではないか。また、教主が「あれはわれわれの信ずる教義の敵である。如何なる手段をもってしても排除抹殺せねばならぬ」と言えば、ありとあらゆる手段を講じて敵をそうしようとせねばならぬではないか。
それが使命とあれば、そうするのが信徒の使命であろう。
又、教義も後の者によって都合の良いように解釈はできるのだ。それは自己の組織の強化のため、より一層排他的狂信的になるのは必然である。
十字軍、宣教師、魔女狩り
文明へと目を開かせる、信仰の喜びを与える、信仰を守る、聖地を守るなどと、独善的で身勝手でおせっかいな理由を構えて、如何なる残虐と殺戮が、静かに平和に暮らしていた人々に為されたことか。
芸能人のファンを見ると、あれは一種の宗教であると思う。少なくともその要素が濃厚にある。少しでもファンの対象芸能人の悪評価や非難を言うと、ファンは集団となって、食って掛かって否定にかかる。
その様は正にFANATIC(狂信者)である。
宗教が常に排他的であり狂信的であったとしても、個々人の心の問題にのみ容喙するならまだしもその存在も許されるだろうが、現世の政治や社会に容喙し出すとそれは恐怖となって人を威圧する。
それは必ず組織集団として我々個々人に迫ってくる。だから恐ろしいのだ。
政治に宗教が口出さぬ限りにおいて存在が許されるという信長の政治的姿勢は評価されるべきであると思う。
今は多くの制約の中で仮面を被っているが、いつ牙を剥くかわからぬ得も言われぬ不気味な存在なのだ。
暴力を振るわずとも、無言で威圧し、我々を思う方向に従わせられるように、我々が気付かぬようにその悪謀が進んでいるのかもしれない。
相続税、贈与税に限って言う。
私は貧乏人だが、以前から相続税、贈与税、特に相続税には反対である。親しい友人には資産家もいるが、そういう人達への迎合では全くなく、そう考えるのである。
苦労して稼いだ金から所得税を引かれたなけなしのカスから、自分亡き後の妻子や孫やこれはと頼む人の為にと営々残した財産に、なぜ更に税を取られねばならぬかと思う。
「金持ちから取り上げるのだから、気味が良くて不満はないでしょう?」「何の苦労もせずに人からもらった金だ、巻き上げてなぜ悪いのですか?」と、心底が隙間見える。
それは、富貴に対する嫉妬、幸運への羨望という、我々人間の心の浅ましく卑しい部分に働きかけたものであり、依拠したものである。我々を品性下劣な人間と見なしているわけだ。それは共産主義的思考である。
重要文化財を含め、伝統的な文化物を受け継いだ者は、相続税の支払いのための費用の捻出の為に切り売りしなくてはならない場合もある、それによって伝統的な文化物さえ破壊され、ひいては伝統も文化も失われていく。
贈与税・相続税をなくし、不労所得を得た人やお金持ちには大いにお金を社会の為に使ってもらって、消費経済に寄与してもらえばいい。
心ある金持ちの中から、孤児の施設などへ寄付等、社会の為になることをする人、未来の為になる研究などに出資する人も出てくるかもしれぬ。
役人の恣意的な税金使いの一堰になるかもしれぬ。そうなれば我々は、お金をどんどん使う金持ちを誉め、使わぬ金持ちは馬鹿にして軽蔑すればいいだけだ。これこそ痛快ではないか。
道徳は個人の中にしかなく組織の中に求めにくいものである。私は個人の中に大いなる善なる意思を期待し望む者である。
ひねくれジジイの戯言です。ああ、叶わぬ夢だ。
月が出ている
雲間を探して月が出ている
煌々として月が出ている
十四夜の月が出ている
冷気と寒気の混じった風のない深夜
天は高く冷え冷えと
地は雪と見紛うばかりに青白い
私は小さな庭の一隅に立ち
呆然と丸い大きな空を見上げる
なんという宇宙の悠久と雄大
なんという人生の短きと卑小
夜来の雨も早朝にはあがり、昼前には青空も見えて風も程よくあって、本当に秋らしいさわやかな日になりました。
昼ご飯を済ませて、歩いて15分位の所にあるショッピングモール「エミフル松前」まで散歩がてら行ってみました。
ドッグランにも数家族いて、増えていきそうな感じでした。久しぶりにおパグちゃんの新しい子をみかけ、何度かあったことのあるブルのきなこちゃんとも会いました。
道々塀際に花が咲いていました。それにしても、日本人というのは少しでも空きスペースがあると花を植えますね。なんと勤勉な国民だろう
朱子学にしろ、陽明学にしろ、儒学というものは支配する側にとって都合の良い学問である。孔子その人自体、自ら国々を遊説して回ったのは、どこかの国で自らの思想を現実政治に活かしたかった爲だろう。
それは取りも直さず、国の中でそれなりに地位を占め、民を、いや王侯さえも自らの思想に染め、指導したいという夢があったのだろう。
説教臭いと言われても、個人の道徳律としての儒学はそれなりに人としての道を指し示して納得することが多々ある。
しかし、仁義礼智信孝悌といった語などは、どれをとっても「逆らうな」「従順であれ」という要素が含まれる。これほど支配する側にとって都合のいい考えはないではないか。
それでもなお、私は王陽明の伝習録の中の次のこの一節に、悔しいけれど惹かれてしまうのだ。
この一説、情けないことに何度も筆写してしまった
「先生曰く、人生の大病は、只是れ一の傲の字なり。子と爲りて傲なれば、必ず不孝、臣と爲りて傲なれば、必ず不忠、父と爲りて、傲なれば必ず不慈、友と爲りて、傲なれば必ず不信なり。
故に象と丹朱と倶に不肖なるも、亦只だ一の傲の字、便ち此の生を結果し了ればなり。諸君常に此れを體することを要す。
人心は本是れ天然の理にして、精精明明、纎介の染着無し。只だ是れ一の無我のみ。胸中切に有る可からず。有れば即ち傲なり。
古先聖人の許多の好處も、也只だ是れ無我のみ。無我になれば自ら能く謙なり。謙は衆善の基にして、傲は衆惡の魁なり。」
「先生曰、人生大病、只是一傲字、爲子而傲、必不孝、爲臣而傲、必不忠、爲父而傲、必不慈、爲友而傲、必不信、
故象與丹朱倶不肖、亦只一傲字、便結果了此生、諸君常要體此、人心本是天然之理、精精明明、無纎介染着、只是一無我而已、胸中切不可有、有卽傲也、
古先聖人許多好處、也只是無我而已、無我自能謙、謙者衆善之基、傲者衆惡之魁」